
今や日本球界でも当たり前となったFA制度。その立役者といえるのが、導入時の労組・プロ野球選手会会長、岡田彰布(当時阪神)だ。
前編
「駒田のが、俺が思う一番理想のFAの移籍やったね」
中日ドラゴンズの球団代表・伊藤潤夫と、労組・プロ野球選手会会長、岡田彰布(当時阪神)との信頼関係により、いよいよ実現に向けて動き出したFA制度。
1993年にメディアで報じられたオフィシャルな動きは、まず5 月14日にFA問題等研究 専門委員会による「FA制度骨子」が答申された。
けんもほろろに拒絶された1991年3月の第一回団体交渉から2年以上が経過していた。
「FA資格取得の条件は選手一律で十年間の在籍」「権利行使は現役中で一度だけ」とされていた。
その内容に対して岡田会長は7 月20日の選手会大会で話し合い、「一律ではなく大学・社会人の出身者は資格取得年限を 7 年に 引き下げること」「権利行使は1度に制限しない」という要求を返した。
これについて8 月26日に再度選手会と機構の交渉が行われ、「資格取得年限は変わらず」しかし、「権利行使の回数については無制限(ただし最低三年はその球団に所属)」との回答がなされた。
選手会として妥協した部分もある。しかし、まずはこれが落としどころとなり、FA制度は最終合意(9 月21日)に達し、オフから導入された。団交、大会、交渉の水面下で二人によって下交渉がなされていた。
岡田「まぁ、FAは悲願だけど単純にアメリカと比べるのもどうやとか、賛否両論あってね。
でも当時はドラフト制度だけで、選手の運命がクジ引きで引退するまで一方的に決められてしまうというのがあったから、とにかく導入させなあかんと思った。
あと俺が考えとったのは、Jリーグがこの年に開幕してたやんか。大人気でね。
Jリーグバブル真っ盛りで、三浦知良が2億2000万で契約したことが大きな話題になっていた。プロ野球の魅力を選手としても再度アピールする必要があった。一方で、懸念も呈せられた。
FAが最終合意を得たときに岡田は記者団から「これが導入されると、選手が巨人に集まりすぎるのでないですか?」という質問を受ける。これに対して岡田は「いや、そんなことないよ。どんどん移籍は活性化していくけど、巨人に偏り過ぎることはないね」と返した。
巨人サイドが歓迎する制度であるから、機構側も折れたのではないかと分析する記者もいたが、そんな単純な図式ではなかった。選手関係委員会の伊藤は読売の最大のライバル中日新聞の出身である。
結局、心配されたような現象は起きなかった。現在では出場機会を求めてパ・リーグへの移籍を希望する選手も出て来ている。
岡田「まあ、(移籍の)人数制限もつくったしね。
あのときは、権利行使したのは4人(松永浩美・駒田徳広・石嶺和彦・ 落合博満)やったかな。その中で駒田が一番まともなFAしたと思うんよ。ああいうのが、俺が思う一番理想のFAの移籍やったね」
当時の駒田は、長嶋監督との確執、同じポジションであるファーストに落合博満が移籍してくるという状況、トレード要員にされているという報道もあり、それなら、出場機会を求めて球団も自身で選択するということでFA宣言をして横浜に映った。
駒田はその後、不動のレギュラーとして横浜マシンガン打線の中軸を担う。金銭のみならず、必要とされる球団で納得する現役生活を送るために行使をしてくれたことで岡田は我がことのように嬉しかったという。
1軍登録40人枠も岡田の発案
FA権獲得以前にも岡田が選手会長時代に着手した事案は多い。真っ先にやったのは、組合費を年俸に合わせて徴収するように変えたことであった。
岡田「選手会の運営には当然、費用がかかるけど、社団法人でやってるときは、会費はみんな一律やったからね。当然やけど、プロ野球選手は一軍のトップから二軍の新人まで年俸の開きは大きかったんで、組合費はそれを何とかしようとしたね。
なんぼにしたんやったかな。年俸3千万までは〇〇、5千万までは△△、1億の選手は●●とランク付けしたんやな」
1億円プレーヤーと一軍最低保障でかつかつの選手が同じ会費では、二軍の選手が疲弊してしまう。岡田はまず、組合費を給料に見合ったものに是正するために自主申告を前提に12月の会合で全選手にアンケートで年俸を書いてもらった。
当時、オフの行事でやっていた12球団対抗運動会の収録前にホテルで集結し、趣旨を説明して用紙を配った。選手たちは皆、年俸欄に粛々と数字を書き入れてくれたが、その中に一人、年俸ではなく「脱会します」とだけ書いて来た人物がいた。落合博満だった。
脱会しておきながら、選手会がFA権を獲得すると同時に真っ先にそれを落合が行使したことを批判する声が多かったのは、かようなふるまいがあったからでもある。
岡田「あと、俺が力を入れてやったのが一軍登録の『40人枠』やな」
これはFA権交渉に並行して機構側が出して来た提案であったが、支配下選手をそれまでの一球団60人から70人に増やし、選手を1軍の40人と2軍の30人に分けるという施策である。(1軍ベンチ入りメンバーとして登録できるのは40人枠の中から当時28人で呼称として『40人枠』としている)
プロ野球選手のパイは増えるが、腑分けされた段階で2軍の30人の中に入った選手は1軍に行けない。当初選手会は、固定化される2軍選手のことを考えてこの一軍枠の導入に反発していた。
岡田「それで俺は各球団での実態を全部調べてみたんよ。なんで40人枠かいうたらね、今みたいにね活発に選手が50人も60人も一軍と二軍の間で入れ替えるんはなかったんよ。
あの頃、一番成績の悪かった最下位の大洋ホエールズでも1年間でピッチャー、野手の1軍と2軍の入れ替えが最高で36人だったんよ。Aクラスで優勝するチームやったら当然、もっと少なくなって30人ぐらい。実際にそれだけ、一軍と二軍の実力差があった。
それで40人枠つくったの。40人枠ができたら一軍最低保障の1400万をしっかり保障するということ。一方で二軍の試合も40人枠に入ってない選手たちでしっかりやって、育成に努める。そういうルールをいっぱいつくったの。
全球団の統計をとって、40人という数字の裏付けを取った。そんでそこに入れなかった選手は、二軍でフェアに競争して一軍に入るために頑張る。そもそもプロは実力の世界やからね。40人は最低年俸1400万をもらえるんやからモチベーションを上げれて選手の底上げにつなげる。
もちろん、俺だけやなくて選手たちの意見を訊いて集約してそれでいこうとなったわけよ」
「逆指名のやつは絶対やったあかんで」
機構側はこの制度を選手会が飲んでくれたことでFA権導入について一気に前向きになっていった。
1軍40人枠とFAは一種の交渉取引ではなかったかと言われる所以であるが、岡田は根回しと同時に、球団の事情と選手の希望を訊いて、まずはFA獲得という方向に舵を切り実現させた。
その上で対外的には、「我々選手側が妥協した」と内容に釘を刺す発言をメディアに発信していた。伊藤が見込んだのはこのあたりのセンスであろうか。
選手会会長を退任したあともその知見はこう発言させている。
岡田「FAが出来たとき、最初(取得に必要な年数は)10年やったわね。俺は10年でももうFAの権利あったけど、自分よりもほかの選手がどういうふうに使うかに関心があったんよ。
そこから9年になって8年になってと、短くなっていくなかで、逆指名ができるようになったやんか。俺ね、「逆指名のやつは絶対やったあかんで」って言うたったんよ。
「FAっていうのは今までくじで決められて自分の希望の球団に行けんかったやつのあれやから、逆指名で入ったやつはまた考えなあかん」って古田にも言うたんよ。
結局一緒になってるでしょ。結局逆指名で入ってFAしてるやつおるもん。2回希望のとこに行ける。それはちょっと今までの趣旨と違うって、もうそれはなあなあになってたわな。今はもう逆指名はないけど、ドラフトとFAはもうセットやわね」
岡田は引退後、阪神の監督として優勝2回、歴代最多勝利という大きな結果をもたらした。選手会会長の経験が指揮官としてのキャリアに役立っているものがあるとしたら、どのようなものであったのか。
岡田「もちろん選手会役員はプラスになってるし、それにもう一つプラスになってるのは、俺は二軍の監督を7年、オリックス2年と阪神5年やったからね。選手会と二軍監督を両方やったことやな。
甲子園に来るお客さんは一軍の選手をメインで見るわけやけど、その礎は二軍にある。40人枠にも関係するけど、なんでもかんでも一軍で経験させてやるというのはあかんと思うわ。
俺らはプロやからね。この甲子園の舞台で、大観衆の前でプレーするんだったらそのためにに力をつけなさいと。
ハングリーに徹底的に鍛える。そこは俺はシビアに考えてるけど。ただ、やっぱりプロに入った以上は魅力のある施設とか、お金にしても、底辺にいる選手らのことも考えてやらんとあかん。
その後の選手会については、一軍レギュラーメンバーの複数年契約とかは熱心にしとるけど、今、下の選手の年俸とかが、上がってないんよ。選手会って、それやらなあかん。逆やろって言うたってん、俺」
末端の選手から、トップのレギュラーまで目配りするそのポリシーはどこから来たのか。大阪人情の町、玉造で生まれ育ったが故だろうか。
岡田「いや、俺はやっぱり弱いもんの味方やったからな。ほんで生まれは谷町4丁目やから、(笑)。
ただ子どもの頃から、大学まで野球をやって来た中でずーっとそれぞれのチームでキャプテンやった。どういうときもそういう役割やったから、普通にそういうのがなんか当たり前やと思ってるのかな、そういう感覚がね」
文/木村元彦