「自分は甘えすぎていたんです…」母の認知症、父の死…20数年ひきこもった62歳男性の「謝りきれない後悔」とは?
「自分は甘えすぎていたんです…」母の認知症、父の死…20数年ひきこもった62歳男性の「謝りきれない後悔」とは?

潔癖症に長く苦しんだ62歳の男性。「手を洗えば大丈夫」と自分に言い聞かせて郵便局で働いていたが、部署異動をきっかけに「仕事が完璧にできない」と怖くなる。

30歳で退職して家にひきこもった。長い間、面倒をみてくれていた両親も相次いで病に倒れるなか、前を向けたキッカケとは。(前後編の後編) 

〈前編〉 

家事をすべてやっていた母が認知症に

西沢敦司さん(62=仮名)は、30歳のころ郵便局の仕事を退職。その後は通院以外、ほぼ家にひきこもる生活を20数年続けていた。楽しみは、ときどき両親と外出することだった。

西沢さんが上野動物園でゴリラが見たいと言い、母と2人で出かけたときのこと。電車で上野駅に向かっていると、母が「どこで降りるかわからない」と言って急に泣き始めた。

西沢さんは「僕が一緒だから大丈夫だよ」となぐさめて、上野駅で下車。歩き出すと再び「ここがどこだかわからない」と言って泣きじゃくる。動物を見ていると、ようやく泣き止んだ。

実はその前から、母には物忘れなどの症状が出始めていた。母が膝の痛みを訴えて手術し3か月入院したときに気が付いたそうだ。上野から戻った後、検査を受けると母は認知症だとわかった。

「すごく複雑でしたね。僕が迷惑をかけたから、母はそういう病気になっちゃったのかななんて、思ったりして……」

母に手を上げたと疑われ、警察に連れて行かれたこともある。

「母がなんか、わからないことを言い出したりすることに、僕がちょっと荒れちゃったのかな。自分の記憶では、手を振り上げただけで殴ったりはしていないのですが、誰かが警察を呼んでいて、気付いたときにはパトカーの後ろの座席に座っていました。唖然としました。警察で調書を取られ、1時間くらい説教されて釈放されましたが、母が怖がるからと駅前のビジネスホテルに泊まって翌日家に帰りました」

「父に全部、おんぶに抱っこで甘えてた」

その後、母はデイサービスなどを利用し始め、症状が進行すると施設に入所した。母の代わりに家事を担ったのは父親だ。総菜を買ってきて食卓に並べてくれ、西沢さんが「欲しい」と言って飼い始めた犬の散歩も父がしてくれた。

「お母さんがいなくなって、父に全部、おんぶに抱っこだったんです。甘えていたんですよね。うん。甘えてた」

ひきこもり状態の人は全国で146万人(2023年度内閣府調査、15歳~64歳)と推計されているが、西沢さんのように、高齢の親(80代~90代)が中高年の子ども(50代~60代)の面倒を見ている家庭は多い。

親が老いるにつれて支えきれなくなり共倒れするケースが相次いでおり、「8050問題」と呼ばれている。

親の死後、ひきこもる子どもが餓死したという痛ましい事件も起きた。

西沢さん親子をギリギリのところで救ってくれたのは、西沢さんのもとを訪れていた訪問看護師だ。西沢さんが社会とつながりを持てるよう、「リカバリーカレッジ・ポリフォニー」(東京都東久留米市)への通所を勧めてくれたのだ。ポリフォニーが行なっているのは障害者サービスの一つである生活訓練事業で、3年間利用できる。

だが、当初、西沢さんは頑として拒否していた。

「最初は『嫌だ、嫌だ』と言ってました。あんなところに行っても仕方ない。なんで人に指図されなきゃいけないんだ。家にいれば誰にも何も命令されないのにって」

西沢さんは訪問看護ステーションやポリフォニーに電話をかけ、留守番電話に暴言や叫び声を残した。

「なんだよ馬鹿野郎!」「わあーー!!」

頑なな態度が翻ったきっかけは、ボードゲーム大会だった。

「本当に、ちょっとした勇気っていうか。ボードゲームが面白そうだったので、行ってみようかな。

嫌ならすぐ帰ってくればいいやと」

長くひきこもっている人の場合、親や支援者がいくら働きかけても、外に出ようとしない人は多い。どうして勇気が出たのか重ねて聞くと、西沢さんはポツリとつぶやいた。

「寂しかったからですよ」

ボードゲームの他にも、料理、スポーツ、読書会など様々なプログラムがある。西沢さんは毎日のように通い、一緒に食事やカラオケに行く友人もできたという。

お米の炊き方もわからずパニックに

ポリフォニーの卒業まで数か月になったある日、94歳の父親が体調を崩して入院。西沢さんは61歳で、初めての1人暮らしになった。

「もうパニックですね。うちのどこに何があるのかもわからないし、何から手をつけていいのかわからない。お米の炊き方もわからないから、入院している父の病室で、カップに何合入れたら何合っていう線のところまで水を入れればいいって聞いて。

あとは総菜を買ってくればいいんだけど、最初は怖くて買いに行けなかったんです。何が食べたいのかもわからなくて、どれを買っていいかわからないし。それまでは、父が用意したものを食べるだけだったから」

ポリフォニーに通い始めてから、他の利用者と昼食を買いに行くなど、少しずつ買い物はできるようになっていた。夕飯用に職員が作ってくれた一週間の献立が家の冷蔵庫に貼ってあったので、父の入院後しばらくは献立通りに買ってきて食べていたという。

父親が死ぬなんて全然考えていなかった  

入院から数か月で、父親が肺炎で逝去。兄は精神の病で喪主ができなかったので、西沢さんが代わりに務めた。あいさつ文はポリフォニーの職員が一緒に考えてくれたという。

「“親は先に逝く”というのは頭ではわかっていても、うちの父親が死ぬなんて、全然考えていなかったです。今でもまだハンガーに父のジャンパーとか掛けているんですけど、これ着ていたのに、何でいないのかなと……」

そんな状況からどう立ち直ったのかと聞くと、「立ち直ってはいないですね」と否定する。

「父が亡くなったときのまんまっていうか。逆に落ち込むことはあります。たまに手を抜いて埃だらけの階段とか廊下を見ると『ダメだな俺は』と思いながら、誰かがやるだろうっていう甘えが、どっかにまだ残っている。父や母は、もう家にはいないのにね」

だが、自分が甘えていると気がついたのは大きな一歩だ。「甘えていると、いつ気が付いたのですか」と聞くと、西沢さんは1分以上押し黙った末に、泣きそうな顔で言葉を絞り出した。

「もうずっと前から、甘えることしかできてないって、感じていました……。亡くなってしまった父は戻らないし、母ももう昔みたいには戻らない。謝っても、謝りきれないです。

いたたまれない気持ちになって、1人で号泣するときもあります」

ポリフォニー代表理事の時田良枝さんによると、父親は生前、時田さんに「敦司君は何もしてくれない。犬の散歩くらい行ってくれたらいいのに」など愚痴をこぼすことがあった。時田さんが「本人に直接言ったらいいじゃないですか」と勧めても、息子に「こうしろ」とは絶対に言わなかったという。

ひきこもる子どもを持つ親の中には、子どもを無理やり変えようとする人もたくさんいるが、そうはしなかった。だからこそ、西沢さんは人とつながることができたのではないかと時田さんは感じたそうだ。

僕という人間が存在するのは皆さんのおかげ 

西沢さんは昨年11月にポリフォニーを卒業。今は就労継続支援B型事業所「ワークル」に通っている。ダイレクトメールの封入や、住所氏名を書いたラベルを封筒に貼る作業などを1日4~5時間して月に3万~3万5千円ほどの工賃を得ている。障害厚生年金があるので1人で暮らすには十分だ。

作業が終わった後、他の利用者と駅前のカフェでアイスコーヒーを飲みながら、おしゃべりをするのが楽しみだ。ポリフォニーの卒業生が集う「オナガハウス」というカフェもあり、顔を出しているうちに、常連客とも話をするようになった。

「お医者さん、訪問看護師さん、ポリフォニーの方、ワークルの方。

人とのつながりがだんだん輪になって広がっていって、みんなといい関係を持つことによって、自分も生活ができている。僕という人間が存在するのは、みなさんのおかげです。今は毎日が楽しくて、僕は幸せです」

もし、ポリフォニーに行かなかったらと聞くと、西沢さんは少し考えてこう答えた。

「父親が亡くなって落ち込んだまま、犬と2人でひきこもっていたでしょうね。人生ってわからないことだらけで、恐怖というか不安でたまりませんでしたが、ほんのちょっとの勇気を出したことで、その後の人生が劇的に変わったんです」

〈前編はこちら『「洗っても洗っても、自分が汚く思えて」20年以上ひきこもりだった元郵便局員(62)…潔癖症の果てに崩れた心』

取材・文/萩原絹代

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