政界の黒幕、メディア界のドンとして君臨したナベツネさんはなぜスクープを連発できたのか…自民党党人派周辺で蠢く怪紳士たちとの交流
政界の黒幕、メディア界のドンとして君臨したナベツネさんはなぜスクープを連発できたのか…自民党党人派周辺で蠢く怪紳士たちとの交流

戦後80年、日本には政官財界に対して影響力を行使する「黒幕」が存在してきた。昨年、12月に亡くなった渡邉恒雄さんもその一人。

読売新聞社に入社後、「メディア界のドン」「政界のフィクサー」と呼ばれ、知識・教養を武器に政財界を渡り歩いてきた。

各国の情報機関に精通する軍事ジャーナリストである黒井文太郎氏が解説する。『日本黒幕大全 金脈と人脈で戦後80年を動かした怪物48人の正体』より一部抜粋・再構成してお届けする。

共産党「東大細胞」から新聞社へ
若手記者時代にフィクサーになる

マスコミは行政・立法・司法に次ぐ「第4の権力」とも言われる。本来、権力を監視し、国民の知る権利を守るのが役割だが、どんなニュースをどう伝えるかで、世論を誘導する力がある。また、報じ方次第で政治家や企業を社会的に葬ることもできる。

大手報道機関の首脳陣にはそれだけの力があるのだが、中でも政界で大物フィクサーとして活躍した人物がいる。日本有数の巨大メディア・読売グループを率いた渡邉恒雄だ。「ナベツネ」と称されるほど世間に知られたのは、「読売ジャイアンツ」元オーナーとしての発言、そして故・中曽根康弘元首相との盟友関係によってであろう。

1982(昭和57)年から1987(昭和62)年までの中曽根政権時代、渡邉は首相のご意見番として大きな影響力を誇った。首相に直接意見できる立場から、政界の調整役としても大きな権限を振るった。その政界の黒幕としての存在感は突出しており、中曽根政権以降も政局を左右する仕掛け人として、ことあるごとにその名前が浮上した。

だが、渡邉の面白いところは、単に新聞記者として出世し、読売新聞のトップになったことをきっかけに政界フィクサー的な存在になったわけではないことだ。

彼はずっと以前、若手政治部記者の頃から有力政治家に張り付き、陰でその手足となってさまざまな調整で動いた。

つまり、若手の頃からフィクサー的な活動をしており、逆にそうして日本政界の「中の人」になったことで、政治記者として情報通となり、読売新聞社内で出世していったのだ。記者がフィクサーになったというより、フィクサーが巨大メディアのトップになったのが、渡邉の特異性と言っていいだろう。

政治記者が担当する政治家と懇意になること自体は珍しくないが、渡邉の稀有な点は、その政治家と組んだ裏の動きの生々しさにある。その過程で、たとえば児玉誉士夫など裏紳士たちとの接点も濃密なものだった。そこまで暗部に踏み込める政治記者はそういない。

渡邉は1926(大正15)年、東京生まれ。東京帝国大学在学中に終戦を迎えている。戦後、日本共産党に入党し、「東大細胞」のキャップとなるが、やがて離脱し、卒業後に読売新聞社に入社した。なお、大学時代に同じく東大細胞にいたのが、後に日本テレビのトップとなる氏家齊一郎や、セゾングループ会長となる堤清二らだ。

特に氏家は高校時代から渡邉の盟友(渡邉が1学年先輩)で、共産党入党や離脱も一緒なら、大学卒業後に同じく読売新聞社に入社している。まさに、コンビとして戦後日本の報道界を渡り歩いてきたと言っていいだろう。

党人派の周辺に蠢く怪紳士とも

読売新聞の政治記者となった渡邉は、やがて自民党の党人派の大物、大野伴睦の番記者となる。これが後の人生を決定づけた。大野は清濁併せ吞むタイプが主流の党人派の中でも、最もその傾向が顕著な人物だった。義理人情に篤いがゆえに、裏社会とも堂々と交際し(当時は問題となることはなかった)、選挙のたびに裏金が飛び交う当時の政界で重きをなした派閥領袖だった。

渡邉はそんな大野に食い込み、番記者でありながら事実上の秘書のような役割を果たすようになる。大野の雑誌寄稿文や回想録のゴーストライターを務めたほか、組閣時の大野派議員のポスト配分要求などで助言したり、さらには大野の代理として他派閥とポスト配分を交渉することすらあった。当時、大野は渡邉と2人だけで密談する様子をしばしば目撃されている。それだけ強い信頼を獲得していたわけだ。

渡邉は明らかに番記者の領分を越え、大野派の政界活動を支える〝大野親分の名代〞のように振る舞った。自民党党人派の周辺で蠢く怪しい紳士たちとも交流したが、その中には前述した大物右翼の児玉誉士夫などもいた。渡邉は児玉らとともに60年代の九頭竜ダム汚職事件や日韓国交正常化交渉でも自民党党人派の名代として水面下で動いたと見られる。

当時の渡邉は40歳そこそこという大手新聞社では中堅どころの年齢だったが、そうした立場から生情報を常に入手しており、紙面でも政界スクープをいくつもモノにした。渡邉にとっては、政界フィクサー的な動きも、特大スクープを狙う職務の手段だったということなのだろう。



渡邉が大野の名代的なポジションで動いていた時に、親交を深めたのが中曽根康弘だ。もともと渡邉は昭和50年代、読売グループの当時の総帥だった正力松太郎の命令で中曽根と会った。意気投合した渡邉は、入閣を狙う中曽根と大野の橋渡しを行い、以後、2人は固く結ばれることとなった。

その後、渡邉は中曽根が自民党内で影響力を強めたことで、フィクサー的な発言力をますます高めていった。読売新聞社内でも敏腕政治記者としての立場を確立し、ワシントン支局長、編集局参与、解説部長、政治部長兼局次長、局長待遇編集局総務と順調に出世。

1979(昭和54)年には取締役論説委員長に就任し、論調を主導する立場になった。以降、読売新聞自体が同社内での渡邉の影響力により、中曽根を筆頭とする自民党タカ派の代理人的な立場に変貌したと言える。渡邉はその後も、中曽根政権末期に筆頭副社長、1991(平成3)年に社長に就任し、それから長期にわたって同社を率いていったが、経営だけに専念せず、論調に口出しを続けた。

読売は渡邉の指揮下で、憲法改正キャンペーンなどを精力的に展開。2005(平成17)年、渡邉は読売新聞グループ本社の会長に就任しており、その頃には政界の古参フィクサーとして圧倒的な影響力を持ち、政局を左右するまでに至った。

2007(平成19)年に自民党・福田康夫政権と民主党・小沢一郎代表が進めた大連立構想が頓挫した際には、渡邉が同構想を仕掛けた張本人とも言われた。2016(平成28)年、読売新聞グループ本社会長を退いたが、読売新聞グループ本社代表取締役主筆には留まった。
2024(令和6)年12月19日、読売新聞グループ本社主筆のまま病没。享年98だった。

文/黒井文太郎

『日本黒幕大全 金脈と人脈で戦後80年を動かした怪物48人の正体』(徳間書店)

黒井文太郎
政界の黒幕、メディア界のドンとして君臨したナベツネさんはなぜスクープを連発できたのか…自民党党人派周辺で蠢く怪紳士たちとの交流
『日本黒幕大全 金脈と人脈で戦後80年を動かした怪物48人の正体』(徳間書店)
2025年8月29日2,200円(税込)328ページISBN: 978-4198660413戦後80年、日本には政官財界に対して影響力を行使する「黒幕」が存在してきた。彼らは時に闇社会との関係をちらつかせ、暗に恫喝することで我が意を押しつける。そんな強面ばかりに、これまではスポットライトが当てられてきた。しかし、黒幕たちの力の源泉は暴力だけではなかった――。各国の情報機関に精通する軍事ジャーナリストである黒井文太郎氏が、日本史の影に隠れた金脈と人脈から新たな日本の黒幕像を浮かび上がらせた問題作。戦後社会に暗躍した怪物48人を完全網羅した極秘ファイルの封印を解く!
編集部おすすめ