『バットマン ビギンズ』から連なるダークナイト三部作で21世紀のリアルなバットマン像を描ききった(と、されている)クリストファー・ノーラン。この男がプロデューサーを務め、『300<スリーハンドレッド>』『ウォッチメン』の映像派ザック・スナイダーを監督に迎えて今度は元祖アメコミ・ヒーロー、スーパーマンを映画化すると。
実はこれだけ乗らないニュースもなかった。

えらく大したもののように位置づけられているノーランの「バットマン」シリーズだが、ちょっと冷静に考えてみたい。3本の映画を通して、バットマンはデビューから1年ちょっと活動(『バットマン ビギンズ』)。いろいろあって『ダークナイト』)その後8年引きこもり、やっと出てきたと思ったら今度はすぐ引退した『ダークナイト ライジング』)。足かけ10年近くの物語においてバット稼業に励んだのはたった1年半強、しかもその間やるのやめるのとひたすら悩んでばかりいた。この自称エピック・トリロジーが完結した今、ちょっとお前ふざけるなよと言わざるを得ない。


そんなノーランが今度はスーパーマンをやるという。嫌な予感がした。

アメコミ・ヒーローが葛藤したらそれでリアルな人間が描けていると褒められ、押しも押されぬ大監督になったノーランが。しかも盟友デヴィッド・S・ゴイヤーと共同で脚本も書いちゃうと。まさか頼まれもしないのにスーパーマンがウンウン悩むような、爽快感のカケラもない映画をやるつもりじゃなかろうなと。

嫌な予感は的中した。
たっぷり143分ある映画は、実にその半分を費やして、宇宙の彼方に位置する惑星クリプトンの崩壊と、そこから地球にひとり送り出された青年カル・エル(のちのスーパーマン)の葛藤を描く。

異星からやってきた男が文字通り超人的な力を発揮して、真実と正義のために戦う。それがスーパーマンの物語だ。けれども映画はずっと、この力をどうしたものかという宇宙人の呻吟を描き続ける。赤ん坊のカル・エルを保護した義理の父は「まだその力を見せるときではない……」とか渋い顔をしている。よって主人公はもの凄い力を持ちつつ、いつまで経ってもスーパーマンとして覚醒しない。


『マン・オブ・スティール』はカル・エルを、なんだかいかにも呪われた存在として描く。映画の必要以上にくすんだ色彩も相まって(『テキサス・チェーンソー』でも観ているのかと思った)、こちらの気分は沈む一方だ。それでも我慢して我慢して、ようやくこのカル・エルが(赤いパンツこそ履いていないが)お馴染みのコスチュームを着る頃には、しかし、別の問題が現れてくる。

長すぎる葛藤の末、33歳にしてついに目覚めたスーパーマン。その最初の戦いは内輪揉めだ。滅亡したはずのクリプトン星から地球に侵攻してきたゾッド将軍。
この狂った軍人とスーパーマンがもの凄いバトルを繰り広げる。前作『エンジェル・ウォーズ』の失敗で完全にミソを付けたとはいえ、それでもコミックの映像化で鳴らしたザック・スナイダーが見せる大破壊アクションは圧倒的だ。派手にブッ壊れる高層ビル、あっという間に崩壊寸前に追い込まれる大都市。地上では瓦礫に閉じ込められた一般市民が死を覚悟している。そういう彼らをスーパーマンが助けるのかと思う。ところがヒーローは彼らに一切、目をくれることすらしないのだ。


驚くべきことに、本作のスーパーマンはまるで人助けをしない。地球を侵略に来た宇宙人と戦うわけだから、マクロに見れば人類のために奮戦しているのだと言えるのだろうが、しかし地上のアレコレは正直どうでもよさげである。クライマックスの大バトルは結局、自分の出自にまつわるあれやこれや、その大いなる悩みの延長でしかない。デビュー戦だから余裕がないという見方はできるかもしれない。それでも初登場から70年余、スーパーマンはずっと無力なものを助けてきた。コミックで、ラジオやテレビのドラマで、それに1978年の映画で。
そういう神にも等しい男であったはずだ。それをそうじゃないものとして描いて、いかにも新しいことをやりましたというのは卑怯だというほかない。

(嫌な言い方だが)突っ込みどころの多いスーパーマンというキャラクターの、その突っ込みたくなる諸々の部分に、今度の映画はいろいろと理由をつける。たとえば原色のバカみたいなコスチュームを着て、その胸にはデカデカと「S」の文字が踊る。宇宙人なのに「S」とはこれいかに? という疑問に対して、映画はもっともらしいことを言う。曰くこのSはアルファベットのSじゃなくて、母星での家紋なんです。自由という意味なんですよと。だから何なんだ? ついでに言えばスーパーマンという名前さえ映画のなかでは申し訳程度にしか聞かれない。なんだか恥ずかしさをごまかしているようだ。でも宇宙人の胸に「S」と大書してあるのを恥ずかしいことと思うなら、最初っからそんなヒーローについての映画を作ろうと思うんじゃないよと言いたい。

もともと「真実と正義とアメリカン・ウェイのために戦う」のがスーパーマンだ。吉野家が「安い、早い、うまい」というのと同じことで、これはキャラクターの根本に関わることだ。確かにアメリカン・ウェイ、つまり生命と自由、幸福の追求を旨とするアメリカ式の生き方というものは、この70年の間にずいぶん揺るがされてきた。もはやそう無邪気には構えていられないというのはよく分かる話だ。

しかし、だからといってスーパーマンがその誕生物語で、スーパーマンとして立つことをいつまでもためらっていていいということにはならんのです。だいたい、煮え切らないヒーローはダークナイト三部作でさんざん見たよ! 何のためにこんなことを云々とかいうのはバットマンが考えることなの! スーパーマンは理由も何も関係なくまず人々のために尽くすの! 超人なんだから! そりゃゆくゆくは何かと葛藤も出てくるかもしらんが、登場篇でやるこっちゃないの! それは! 聞いているのかノーランよ!

つい血圧が上がった。なにしろ悩んでばっかりいる等身大のヒーローはもうお腹いっぱいだ。どうやらシリーズはこれからが本番らしいので、今後はもうアレコレ悩まずに、ひとつ赤パン履いて出直してほしいと願うのである。
(てらさわホーク)