生涯賃金を減らさずに働き続けるには、どうすればいいか。『学歴社会から実力社会へ AI時代の教育・雇用・評価を問い直す』(朝日新書)を出した一橋大学名誉教授の野口悠紀雄さんは「高年齢者雇用安定法の改正により、中高年層の労働市場に大きな変化が生じている」という――。

■32年ぶりに増加率3%超となった初任給
初任給の引き上げが続いている。帝国データバンク「初任給に関する企業の動向アンケート(2025年度)」(2025年2月14日)によれば、全企業のうち初任給を引き上げると回答した企業の比率は71.0%に達した。
引き上げ額の平均は全体で9114円。 初任給額は「20万~25万円未満」が6割だった。規模別に見ると、「中小企業」は71.4%で、「大企業」(69.6%)よりも高くなった。一方で、「小規模企業」は62.2%だった。
初任給の上昇率の高まりは、2023年から続いている現象だ。産労総合研究所の2024年度 決定初任給調査(2024年)によると、次の通りだ。
2024年4月入社者の初任給を引き上げた企業は、2023年度調査比7.5ポイント増の75.6%に上り、27年ぶりに7割を超えた。引き上げた理由は「人材を確保するため」が3.3ポイント増の73.5%で最も多かった。
初任給額は、大学卒が22万5457円、高校卒が18万8168円。対前年度増加率は、1992年度以来32年ぶりに全学歴で3%超となった。

■初任給上昇率が高まる切実な背景
初任給が上昇している理由として通常指摘されるのは、若年者人口が減少していることだ。
若年者の人口が減少しているのは、事実である。大学入学年次である18歳の人口は、つい数年前まで120万人だったが、すでに110万人に減少しており、将来、さらに減少していく。
このため、大学入学者が減る。文部科学省は、2023年7月、大学入学者数が2040年に51万人、50年に49 万人になるとの推計を示した。
このため、大学卒業者数も減る。日本の場合、終身雇用的な雇用慣行が強く、最初に就職した企業に定年まで勤務する場合が多い。
そのため、企業が将来の人手不足に備えるため、若手人材の囲い込みをしており、このため、 初任給上昇率が高まっているというのだ。
■初任給上昇率を超える中小企業の年齢層
では、初任給の伸び率が他の年齢階級の賃上げ率より高いという傾向が、統計データで確かめられるだろうか? 以下では、「賃金構造基本調査」(厚生労働省)を用いてこれを分析することとする。
企業規模別・年齢別・大学卒の2023年から2024年への変化をまとめると、図表1の通りだ。以下では、従業員1000人以上の企業を「大企業」、100~999人を「中企業」、10~99人を「小企業」と呼ぶことにする。
図表1において、「20~24歳」の欄の数字が、ほぼ大学卒の初任給であると考えることができる。

ここで注目されるのは、初任給の上昇率よりも高い上昇率を示している年齢階層があることだ。中企業の場合には、30~34歳と、45歳以上の上昇率が、初任給の上昇率を超える。
これは、大企業からの転職者を受け入れる市場で賃金が高騰するからではないだろうか?
■中企業の給与が大企業を上回る年齢層
大企業の場合、45~49歳の上昇率は、初任給上昇率を超える。これは、他の大企業からの転職者を受け入れることの影響ではないだろうか? なお、小企業の場合には、こうした傾向は見られない。
さらに、図表2で見られるように、60歳以上では、中企業の給与水準が、大企業を上回る。これは、極めて注目すべき現象だ。ここで述べた年齢層に関する限り、大企業の賃金水準が最も高いとは言えなくなっている。
なお、中企業の場合の年齢別賃上げ率は、図表3に示すとおりだ。
■労働市場に見られる構造変化の予兆
このような現象が見られる説明として、次のようなことが考えられる。すなわち、企業は高年齢者雇用安定法の改正により、65歳までの雇用を義務付けられた。しかし、企業側としては、高齢者の雇用を継続することを、あまり望んでいない。
そこで、大企業の従業員は、65歳になる以前に、中企業への移籍を試みる。
そして移籍に成功した人々は、賃金が大企業にいた場合よりも上昇する。
もしこのような見方が正しいとすれば、それは日本のジョブマーケットに大きな変化が生じつつあることを示している。
これまでの日本のジョブマーケットは、新卒者を対象にしたものにほぼ限られていた。そして人々は、入社した企業にほぼ定年まで勤務を続け、その時期が終われば退職後生活に入るという行動をとっていた。
しかしいま、中高年層の段階で、企業間の新しいジョブマーケットが形成されつつあると考えることができる。そして移動に成功した人々は、それまでよりも給与水準を引き上げることが可能になりつつあると見ることができる。
ただし、このマーケットが、あらゆる意味で望ましいかどうかは、わからない。第1に、これがマーケットを通じる実力本位の移動なのか、それとも、大企業が系列の会社に送り出しているのか、このどちらであるかの区別はわからない。後者であるとすると問題だ。
第2に、この転職マーケットは、大企業と中企業間、そして一部の大企業間だけに存在しており、小企業はこの中に入っていない。
■転職市場で増すリスキリングの重要性
職務給の導入が必要と言われているが、新卒者を対象としたマーケットでは、その導入はなかなか進まない。だが、前項で述べた中高年層になってからの転職マーケットでは、それが実現されていくことになるかもしれない。
ただ、そのためにはさまざまな改革が必要だ。
第1に、転職情報の提供が必要である。アメリカにはいくつもの転職情報サイトがあり、企業別・職務階層別の極めて詳細な転職情報が提供されている。このような情報サービス活動が、日本でも成長することが望まれる。
第2に、退職一時金の改革が必要だ。現在の退職一時金は、ポータビリティがない場合が多く、転職すると不利になる場合が多い。これが転職の支障にならぬような制度改革が望まれる。この問題については、本書『学歴社会から実力社会へ』の第3部で詳しく論じることとしたい。
また、個人個人のリスキリングが必要だ。 転職市場では、最近時点の経済活動が要求する能力を持っているかどうかが評価されるからだ。現在の転職市場で、学歴の壁を取り払うような評価がなされているかどうかは疑問だが、今後はそのような形式的な壁は取り払い、本当の実力主義での評価がなされていくことが期待される。

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野口 悠紀雄(のぐち・ゆきお)

一橋大学名誉教授

1940年東京生まれ。
63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院教授などを経て一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に『「超」整理法』『「超」文章法』(ともに中公新書)、『財政危機の構造』(東洋経済新報社)、『バブルの経済学』(日本経済新聞社)。近著に『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社、岡倉天心賞)、『「超」メモ革命 個人用クラウドで、仕事と生活を一変させる』(中公新書ラクレ)、『プア・ジャパン 気がつけば「貧困大国」』(朝日新書)、『戦後日本経済史』(東洋経済新報社)、『日銀の限界 円安、物価、賃金はどうなる?』『アメリカが壊れる!』(ともに幻冬舎新書)ほか多数。

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(一橋大学名誉教授 野口 悠紀雄)
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