※本稿は、和田裕弘『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■本能寺の変、信長・信忠最期の日
6月2日。本能寺の変である。織田信忠最期の日でもある。日本史上でも大事件として知名度も高いが、焦点となるのは光秀の動機をめぐってのことが多い。
信長をめぐる四囲の状況を概観しておくと、東国は、武田氏を滅亡に追い込んだことで、「残るのは越後国のみとなったが、同国も早々に服従するように思われる」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)状況にあった。東北については、伊達家をはじめ誼(よしみ)を通じてきている大小名も多く、当然、表立って敵対している大名はいない。関東方面も北条氏が靡(なび)いているほどであり、あからさまに歯向かう大名はこれまた存在しない。
関東から東北にかけては上野国に入った滝川一益が管轄し、北陸方面軍の柴田勝家と連携しながら、上杉景勝を追い詰めつつあった。上杉氏は滅亡寸前であり、景勝も覚悟を決めていたほどである。
西国方面では、毛利氏が敵対していたが、一門衆から織田家へ内通する者が出るなど家中で内部分裂を始めており、水軍の主力である村上氏も羽柴秀吉の工作で分裂、残る道は滅亡か降伏しかない状況に陥っていた。四国方面については、長宗我部氏と決裂し、三男信孝を総大将とした四国渡海軍を派遣する準備を進めていた。
■天下統一目前、光秀はいつ決断したか
九州方面は、大友氏が誼を通じてきており、島津氏も信長を上位権力者と認め、信長の威令に靡(なび)く姿勢を示していた。九州を三分する勢いを見せていた龍造寺氏も織田家に音信してきており、九州攻めをする必要もなかった。信長は基本的に敵対しない限り、攻撃を加えることはないので、ゆるやかな統一は間近に迫っていた。
さて、明智光秀だが、徳川家康一行の接待を終え、羽柴秀吉の援軍要請に応ずるべく西国への出陣準備として、領国の近江坂本を経由し、5月26日には丹波亀山城へ帰国していた。28日、愛宕山へ参籠し、西坊で連歌を興行した。発句は有名な「ときは今あめが下知る五月哉(さつきかな)」である。「下知る」は「下なる」ともいわれる。「下知る」であれば、「下治る」などと当て、天下を統治、天下を取るという意味に解釈されている。
光秀は6月1日夕刻、信長の閲兵を受けるため、と欺いて亀山城を出陣した。明智家の家老ともいうべき明智秀満、同次右衛門、藤田伝五、斎藤利三、三沢(溝尾)庄兵衛の5人に謀反のことを諮(はか)り、賛意を得た。女婿の秀満には事前に内談していたともいう(『政春古兵談』)。
■信長は最初、息子たちを疑った?
夜明け前に1万数千の軍勢で本能寺を包囲。信長も小姓衆も当初は下々の喧嘩と思っていた。信忠の謀反を疑ったという異説もある。信長は普段から信忠のことを「殿、殿」と呼んでいたが、この時も「殿が騙(だま)されて謀反か。謀反には早すぎる」と口走ったという。当時の風潮からすると、至極当然の発想であろう。また、三男信孝が謀反したと思ったという説もある。これまたそれほど無理な推測でもない。京都で信長に謀反を起こせる軍勢を率いているのは彼らしかいないと思ったのも無理はない。
信長は自ら弓や鑓(やり)を取って迎撃したが、衆寡敵せず、しかも不意打ちという要素もあり、最期を悟り、殿中奥深く入り自害して果てた。最期の戦闘場面は、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。本能寺急襲で主導的役割を果たした斎藤利三の最期と比較すると、じつに潔い。
本能寺の変を聞きつけた信忠の行動についても、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。伝聞ながら緊迫感が伝わってくる。京都の公家や大和の僧侶の日記類にも断片的ながら最期の様子が記されている。これらの記録を総合的に取り入れて信忠の最後の奮戦を再現してみよう。
■京都を脱出するか、籠城するか
妙覚寺に宿泊していた信忠は、本能寺の変が勃発した時、まだ就寝中だった。本能寺の異変を知った信忠は、すぐさま本能寺へ駆けつけようとした。しかし、途中の路上で京都所司代の村井貞勝父子3人と出会った。本能寺は光秀軍が重囲しており、すでに焼け落ち、光秀軍は信忠の襲撃に向かってくるだろうとのことだった。防御力の弱い妙覚寺では防ぎきれないため、貞勝は二条御新造での籠城を勧めた。二条御新造は、もともとは信長の京都邸ともいうべきものだったが、3年前に誠仁親王一家に譲っていた。籠城した信忠軍は、光秀軍と交渉し、親王一家を御所へ退去させた。
この時、籠城するか、京都を脱出するかという議論があったが、信忠は「これほどの謀反を企てるほどであるから、落ち延びることはできないだろう。
■二条城籠城を選んだのは不運か
実際には、光秀は信長を討ち取ることに専念しており、とても京の出入り口を固める用意はできていなかった。落ち延びることも可能だったが、それは結果論でしかない。信長なら迷うことなく逃げていたはずだが、二代目の信忠は認識が甘く、誤った選択をしたと捉える向きもある。いったん落ち延びて、本国の尾張、美濃に加え、近江の軍勢を率いて捲土重来(けんどちょうらい)を期せば、光秀ごときを討ち取るのはたやすいことだっただろう。
信忠が生存していることを知れば、関東方面の情勢も異なっていただろうし、とくに北陸方面軍は一致団結して上方に軍勢を進めただろう。信雄の伊勢衆も有機的な行動をしたであろう。信孝の四国渡海軍も雲散霧消しなかったかもしれない。また、家康の軍勢も信忠に従ったと思われ、光秀の命運も尽きただろう。
もし、光秀に天下への野心があったとすれば、信長だけではなく信忠も討ち取る必要があった。
■光秀軍1万数千、信忠軍は約1500人
話が横道に逸れたが、二条御新造には、京の町屋に分宿していた馬廻衆が集まり、また本能寺の変に間に合わなかった信長の直臣も続々入ってきた。戦意は旺盛だったが、不意のことであり、武具も軽装だった。また、親王の御所となっていたこともあり、武器も揃わなかった。大軍でしかも重装備の光秀軍に対し、小人数の軽装で迎撃することになった。光秀軍の1万数千人に対し、信忠軍は手勢の500~600人に加え、信長の馬廻衆1000騎余りが合流して籠城した(『豊臣記』)。
織田家中同士の戦闘であり、顔見知りも多い。顔見知りなら逃してやろうという現代風な発想は基本的にはない。顔見知りゆえに互いに後ろは見せず、通常の戦闘以上に激戦を交えることになった。一進一退の攻防を続けていたが、光秀軍は隣接する近衛前久の御殿に上がり、そこから弓・鉄砲で撃ちかけてきたからたまらない。
■切腹後、遺体を隠すように命じた
切腹後、縁の板を外してその中へ遺骸を隠すよう指示。新介は命令通りに信忠を介錯したあと信忠の遺骸を隠したため、光秀軍は見つけることはできなかった。しかし、新介は介錯したあと、自害する覚悟だったものの、なぜか逃げ延びた。井戸に隠れていたともいう。世間の評判の手前もあり高野山で謹慎していたが、のちに秀吉からの誘いで下山し、福島正則に仕えた。
宣教師の記録には、「邸内の人々は選(よ)りすぐった大身たちであったのでよく防戦し、一時間以上に及んだが、光秀軍の方がきわめて多勢でよく武装しており、鉄砲を多く備えていたため、これに抵抗することは困難であった』と状況説明し、「しかし、世子(信忠)はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多勢の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分のある武士や兵士たちもともに同じ最期を辿った」と伝えている。
■最後に明智の兵を斬りまくった
『総見院殿追善記』は信忠の武勇を次のように劇的に描く。
最期を悟った信忠は、一番に切って出て、向かってくる敵兵17、18人を切り伏せた。信忠に続いて切って出た面々も、我れ劣らじと火花を散らして戦い、敵勢を撃退した。その時、光秀軍から明智孫十郎、杉生三右衛門、加成清次、そのほか屈強の兵数人が名乗って引き返し切って掛かってきた。これを見た信忠は、その真ん中に切って入り、常日頃から稽古していた兵法、古流・当流、秘伝の術、英傑一太刀までも奥儀を尽くして切り廻り、孫十郎を薙ぎ伏せ、清次、三右衛門の首を丁々と打ち落とした。近習の面々も力の限り切り合い攻め入り、敵の人数ことごとく討ち果たし、最後の合戦を遂げた。
伝記作者である大村由己一流の賛辞である。
奈良の僧侶の記録には、伝聞ながら「門前で三度まで敵を撃退したが、多勢に無勢、ついに討死した」「城介殿御働き比類なき由也」など信忠の奮戦が記されている。『信長公記』には、二条御新造で信忠に殉じた60人余り(伝本によって人数が異なる)の交名(人名を列挙した文書)が列記されている。当時、信忠は徳川家康に同行して難を逃れたという噂もあった(『外宮引付』)。
信長も経験したことのない世界を拓く可能性を持った未完の大器の最期であった。
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和田 裕弘(わだ・やすひろ)
戦国史研究家
1962年、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』(いずれも中公新書)などがある。
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(戦国史研究家 和田 裕弘)

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