NHK「豊臣兄弟!」では、ついに本能寺の変が描かれた。信長の死に際には、かつて対立した弟・信勝の“幻影”があらわれるという演出があった。
信長を最期まで苦しめたのは、何だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、最新論文などから史実に迫る――。
■“弟の亡霊”は創作だが、本質を突いている
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回(7月12日放送)は、本能寺の変。ついに本能寺が炎上した。
さて、大河ドラマも含め、様々な創作が加えられてきた本能寺の変。今回は、信長が死の間際に走馬灯のように弟・信勝(信行)の亡霊を見る、という場面が描かれた。信長の死に際など誰も見ていないのだから、これは完全な創作である。
しかし、この創作は案外、信長という人間の本質を言い当てているのかもしれない。信長が死の間際に本当に向き合うべきだったのは、弟の亡霊などではなく、自分がこの家に敷いた一つのルールだったからだ。
それは「疑わしい者は、証拠の有無にかかわらず消す」というもの。
悲惨なことに、このルールは信勝一代では終わらなかった。息子・信澄にまで、二代にわたって適用されることになったのである。

ここで勘違いしてはならないのが、信長は寛大な人物だということだ。裏切り者であっても、実際に旗を挙げて負ければ案外甘い。その代表格が松永久秀だろう。1572年の最初の謀反では、多聞山城の明け渡しであっさり赦免。5年後の二度目の謀反でも、信長はいきなり攻めてはいない。まず側近を送って理由を尋ねさせ、最後まで「名物茶釜さえ渡せば命は助ける」と交渉の窓口を開け続けている。久秀がそれを拒んで自害したのは、信長が非情だったからではなく、久秀が意地を張り通しただけの話だ。
■“白黒つけない”弟の信勝は許容できないタイプ
荒木村重も同様である。1578年に有岡城で謀反を起こすと、信長は明智光秀・松井友閑らを説得に送り、失敗すると羽柴秀吉を加えてもう一度、それも決裂すると黒田官兵衛まで送り込んでいる。数カ月にわたって、翻意させようと使者を送り続けたのだ。
要するに、実際に兵を挙げた相手には、信長は驚くほど気長に交渉のドアを開けておく。負けた敵、旗幟を鮮明にした敵には、むしろ甘いとさえ言える。

ところが、疑わしいヤツに対してはガラリと態度を変える。
久秀にせよ村重にせよ、少なくとも「何をしたか」ははっきりしている。だから信長も、交渉なり条件闘争なり、次の一手を組み立てられる。しかし、そうではない場合に信長の態度は苛烈である。
旗幟を鮮明にしない、白黒つけない、煮え切らない……考えを読めない状態のまま、疑いだけがくすぶり続ける、そんな相手を信長は容認できない性格なのだ。
弟の信勝は、まさにそんな信長が許容できなかったタイプの典型例といえる。
■“兄弟対立の原因”は、父・信秀がまいた
そもそも、信長と信勝の後継者争いには、どういう背景があったのか。これまでの歴史では『信長公記』などの記述をもとに以下のように語られてきた。1556年の稲生の戦いで、信長は柴田勝家や林秀貞を味方に付けた信勝と激突し、劣勢にもかかわらず勝利した。敗れた信勝は母・土田御前の取りなしで、勝家や林秀貞ともども赦免されたが、信勝は再び謀反を計画。これに対して、信長は仮病を装って清洲城に信勝を誘い、1557年に河尻秀隆らの手により誅殺した、ということになっている。
この対立は「うつけ者の兄」対「まっとうな弟」の権力欲のぶつかり合いといった物語的な捉え方をされてきた。
しかし、村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(『愛知県史研究』15号)は、こうしたステレオタイプな認識の再検討を求めている。ここで村岡は、兄弟間の対立の原因は父である信秀によってまかれていたとしている。
というのも、信秀の死により信長が後継者となった時、状況は最悪であった。勢力拡大により美濃に侵攻を図っていた信秀は、1547年に加納口の戦いで斎藤道三に敗北。信長と濃姫の婚儀を成立させることで和睦し、北方の脅威を抑える必要を迫られることになった。
■「威勢衰退への転換点」負けたまま亡くなった父
さらに、三河方面では、1548年に三河国小豆坂で今川義元と戦うが、決定的な勝利を収めることはできなかった。村岡は、この結果を次のように記している。
これは対今川戦略の観点からすれば敗北に等しい軍事上の失敗であり、尾張における彼の威勢衰退への転換点となった。

勢いづいた義元は、翌1549年に三河国の安祥城(安城城)への攻勢を強化し、陥落。これによって、信秀の勢力は三河国からことごとく失われ、今川勢は尾張と三河の国境周辺にまで進出するようになった。こうした信秀の敗勢によってもっとも勢いづいたのは、対立する一族の面々であった。『信長公記』によれば、1549年1月には犬山織田氏と楽田織田氏が攻め込んできたため、末盛城から信秀が駆けつけて数十人を討ち取って敗走させたと記している。

この後「信長公記」によれば、信秀は42歳で病死。信長が、髪はちゃせんの奇妙な出で立ちで現れ、抹香を仏前に投げつけて帰ってしまった一方、信勝は麻の正装を着こなして、誰から見ても立派な姿をしていた……という、有名な事蹟が記されている。
■「父の居城・重臣を丸ごと弟が継承した」と見えた
とはいえ、信秀は、一時は勢いを誇ったものの、国内外をぐちゃぐちゃにしたまま死んでしまったわけだから信長の怒りもわからなくはない。
村岡は、この記述を史実だとして、単なる素行の悪さの表れではなく感情の爆発だと捉えている。というのも、この時点で信長はかなりの劣勢であったからだ。
信長の奇行のすぐ後、『信長公記』にはこう記されている。
末盛の城勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり。

葬儀を終えた信長は末盛城の信勝のもとへ出向き、柴田権六(勝家)・佐久間次右衛門をはじめとする重臣のほとんどを、信勝に「御譲り」している。家督の実質とは、結局のところ所領と家臣団だ。信秀の重臣のうち、信長のもとに残ったのは那古野城主就任時に付けられた四家老のみ、それ以外は軒並み信勝側についた。
つまり葬儀の場で信長の目の前に広がっていたのは、「父の居城と、父配下の重臣のほとんどを、弟が丸ごと継承している」という現実だった。信長・信勝で協力して家を継げ、と父は言い残したつもりだったのかもしれないが、実態としては「信勝を後継とせよ」と遺言したのとほぼ同じ結果になっていたわけである。
信長が仏前で切れたのも無理はない。
■枠組みから離脱、権力基盤をゼロから作り直す
しかし、ここからの信長の動きが凡人と違う。実力で家督を奪い返す、あるいは信勝の下に甘んじる、というわかりやすい二択を、信長は取らなかった。代わりに彼が選んだのは、父が築き父の死によって解体しかけていた「一族・一派」という枠組みそのものから離脱し、まったく別の権力基盤をゼロから作り直すという道である。かつて信秀自身が、一介の弾正忠家として尾張で成り上がっていったのと同じことを、今度は息子が繰り返そうとしたわけだ。
事実、信秀の死の直前から、信長は「御被官あらため」、つまり自分専属の家臣団を選別・再編する作業をすでに進めていた。葬儀の時点では信勝方についていたはずの佐久間大学が、後の稲生の戦いでは信長方として登場しているのも、葬儀直後の信長・信勝の会見で引き抜かれた結果だろうと村岡は見る。
さらに信長は、父の死からわずか一月余りで今川との停戦を独断で破り、鳴海の山口氏を攻撃するという、一族・一派の総意を完全に無視した単独行動に出る。この振る舞いは、舅・斎藤道三や大叔父・織田玄蕃允秀敏との間で「織田の家中がまとまっていない」と嘆かれるほど、外部からも危うく映っていた。
■信澄を生かしたのは、“正統性”を傷つけないため
つまり、信長は、家督という共同財産の分配では実質的に負けていた。それでも負けを負けと認めず、勝負の土俵そのものを変えることで巻き返しを図る、極めて冒険主義的な行動を取っていたのである。危なっかしいというより、ほかに方法がなかった。

この後、信長は舅である道三の全面支援獲得、守山の織田信光との連携(後に滅ぼす)という形で勢力を拡大。1556年の稲生の戦いへと到ることになる。
結局、信長の権力掌握は、家臣も唖然とするような冒険的な主戦論による勢力の回復、正統な後継者であった信勝の打倒、さらに守護代である清洲織田氏を滅ぼすという極めて血なまぐさく泥臭いものであった。こうした経験則ゆえに、裏切り者は使えるならば許容するが、家中の統一を阻害する存在だけは許さないという不文律を確立させていったのだろう。
こうした信長の権力掌握経緯をみると、信勝の遺児である信澄を殺さず、その後も重用した理由が見えてくる。信秀が明確な後継者を指名していなかった以上、信長と信勝のどちらも正統な後継者といえる状態であった。ゆえに信勝を殺害して排除したのは、家臣団が動揺しかねない冒険であった。
まだ何の罪もない幼児(信澄)まで手にかければ、「正統な血筋を根絶やしにした簒奪者」という評価が固定化しかねない。信勝の正統性がある程度は世間に認識されていたからこそ、その血を絶やすことは信長自身の正統性にも傷をつけかねないために、ためらったとみることもできるだろう。
■城も家臣団もなかったから、安心して重用できた
その上で信澄は、信勝とは違い便利な血族であった。信澄には、独自の城もなければ、独自の家臣団もなかった。つまり、信長が自ら選び抜いた家臣団と同じく、まったく白紙の状態から権力構造に組み込むことができる血族だった。この疑う要素のなさゆえに、信長は安心して信澄を重用することができた、と考えられる。
信澄のその後の実像は、誉田航平「織田七右兵衛尉信重の基礎的研究」(『駒澤史学』第101号、2023年)が一次史料から復元している。発給文書4通はすべて「織田七右兵衛尉信重」の署名で、「津田信澄」の呼び名は一次史料上の裏付けを欠く。近江高島郡を任され大溝城主となり、一門衆として『信長公記』でも5番目に名を連ねた。妻は光秀の娘。謀反人の遺児どころか、政権中枢の実力者だったのである。
しかし本能寺の変後、信澄がどのような疑いをかけられ、どう最期を迎えたかは前回記事で詳述した通りである。
(参考記事:NHK大河では信長に愛され、秀吉が絶賛した好青年だが…本能寺の直後に噂のせいで味方に討たれた織田家の武将
結局、信長に疑われる部分がないから重用された男は、その死後に疑うべき部分が噴き出して殺されたのである。なんとも皮肉な話だ。
■二つの“物語”が示す「織田家の家風」
「信長が信勝の亡霊を見る」という今回の演出は、史実ではなくドラマ独自の解釈である。同様に「信澄は光秀と共謀した謀反人」という理解も、同時代史料が示す通り、証拠のない風聞がそのまま処刑理由になった結果にすぎない。成立の時代も性質も違う二つの「物語」だが、「疑いが証拠を追い越した」点では共通している。
結局、信澄を殺したのは、信長が遺した家風そのものだったのかもしれない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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