真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六はどんな人物だったのか。歴史家の保阪正康さんは「戦後に山本のイメージを決定づけたのは阿川弘之さんが書いた小説『山本五十六』。
だが、阿川さんは初版を大幅に書き直すはめになった」という。戸髙一成さん、大木毅さんとの鼎談をお届けする――。
※本稿は、保阪正康、戸髙一成、大木毅『虚構の昭和史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■空母が半分沈む計算でも作戦実行
山本五十六(やまもといそろく) 1884~1943年。元帥・海軍大将。海兵三二期。航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長官など。太平洋戦争前半で連合艦隊を指揮するも、1943年4月、ソロモン上空で乗機を撃墜され戦死。国葬に付せられた。

【戸髙】真珠湾攻撃部隊の指揮官が南雲忠一(なぐもちゅういち)(*1)。南雲は当時の艦隊派の長老なのです。最終的には、軍令部が白旗を揚げて真珠湾攻撃が採用された。
しかし、図演をやると6隻の空母のうち必ず半分が沈むと出る。だから山本五十六にしても、あんなにうまく行くとは露ほども思っていなかったでしょう。むしろ無理な攻撃ですが、この作戦で南雲が危ない目に遭ってもいいと思っていたかも知れません。そう思っていても不思議でないほどに艦隊派を嫌っています。
【保阪】「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かず」という上司の鑑(かがみ)のような言葉を残した山本像とは随分違ってきますね。
【大木】それは山本自身の言ったことではないらしいですが(笑)。
実際、太平洋戦争の時の海軍は、挙げて山本五十六を支持していたみたいなイメージを持ってしまいがちですが、艦隊派系の人や「鉄砲屋」と称していた砲術科の人たち、それに航空の非山本閥の人などは、必ずしも山本のことをよく思っているわけではありません。
■山本五十六は戦死して「神話」に
【戸髙】それは戦後も続きました。真珠湾攻撃が成功して山本が国民の大英雄になり、その後も大本営発表で勝ち戦を続けていることになっていながら、悲運の戦死を遂げて、「山本五十六神話」ができてしまったわけですから。海軍側の人たちも、今さら山本の悪口を言っても仕方がありませんしね。
【大木】『歴史と人物』(中央公論社)という雑誌で「誰が真の名提督だったか」というテーマの座談会をやったことがあります。将官から大佐クラスだったみなさんに集まっていただき、軍令部総長や連合艦隊長官まで俎上(そじょう)に載せて、その真価を議論してもらったのですが、その時に松田千秋さんが、まさにポロッと、思わず出たという感じで山本五十六の悪口を言いました。
驚きました。あの座談会は、海軍軍人には珍しい、先輩に対して歯に衣着せぬ批評を加えていて、貴重な記録だと思います。

(*1)南雲忠一 1887~1944年。海軍大将。海兵三六期。第一航空艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、中部太平洋艦隊司令長官など。1944年7月、サイパンの戦いで自決。
■戦艦大和の艦長も山本を批判した
【戸髙】松田千秋さんは、軍令部にいた時に後の戦艦大和の性能の概要を起案した当人なのです。次期新戦艦はかくあるべしという方針を出した人物。46センチ砲8門以上とか、速力30ノットという基本プランを出して予算を取ったのが松田千秋さんでした。その松田さんは、昭和17(1942)年12月に戦艦大和へ艦長として着任します。そんな戦艦を起案するのですから、松田さん自身は徹底的に艦隊決戦主義の人であるわけです。


しかし、一切そういう軍令部・艦隊派的な考え方を受け付けない山本五十六が連合艦隊司令長官として同じ大和に乗っている。考え方が合うわけがありませんし、そのうち海軍はズルズルと負けていく。軍令部の言うことをその後も絶対に聞かずに、最後は長官自ら飛行機で撃墜されて戦死です。戦後になっても腹に据えかねていたのか、ずっと山本の文句を言っていましたね。
私は、松田さんには何度かご自宅で話を聞きましたが、ご自身が起案した戦艦大和艦長に着任した時の気持ちはどんなでした、と聞くと、にこにこして「そりゃー君、気持ちよかったよ」とご機嫌でした。
■遺族から抗議を受けた『山本五十六』
【大木】話を阿川弘之さんの『山本五十六』に戻しますが、阿川さんは往年の海軍精神を体現したような人たちから話を聞いて、海軍観を再構築した。聞いたその話は嘘ではないが、あくまでも「いい時はそうだった」という話で、真相はそれだけではない。しかし、阿川さんの中の海軍はそういうところになったのでしょう。
『山本五十六』がベストセラーになって、その後も『暗い波濤』、『軍艦長門の生涯』(新潮社、1975年)、『米内光政』、『井上成美』と、海軍は本来、開明的でリベラルなところだという前提で書き続けて行った。あくまでも間違いではない。でも、それは保科善四郎さん、さらには千早正隆さんや大井篤さんぐらいまでの、大正時代の海軍兵学校で育てられた人たちの海軍なのです。
太平洋戦争に突入した頃の、尉官クラスの人たちはまた別の経験をしています。

【保阪】私はもう少し後の世代になりますが、話を聞く人のバックグラウンドはとても気になります。情報のソースによって作品が当然違ってくるからです。阿川さんや司馬遼太郎さんにしても、いい作品ではあるが、それだけではないということなんですよね。
■司馬遼太郎は海軍を理想視した?
【大木】司馬遼太郎さんは陸軍の理不尽や不条理を経験していただけに、かえって海軍に惹かれたのかもしれません。「ああ海軍は素晴らしい」、「海軍とは文明である」と、そういう輝かしい存在から、昭和に向かってだんだん堕落していったと考えた。明治海軍の香りを残した士官たち、一番上澄みの人たちの話を聞いたわけですから。
陸軍については、ノモンハン事件に関係した稲田正純(いなだまさずみ)や瀬島龍三(せじまりゅうぞう)の話を聞いているので、当然イメージがよくなかった。
【戸髙】陸軍大学校の教育は、明治時代前期から陸軍の大先生だったメッケル(*2)以来、謀略主義が染み付いていますから、どうも物の見方が皆少し歪んでいるような気がします。
■『山本五十六』が問題になったワケ
【保阪】阿川さんの『山本五十六』は、発刊後に問題になって、最初の版を絶版にして『新版 山本五十六』として出し直しています。
山本五十六の遺族と海軍OBの奥宮正武氏から抗議を受けた。遺族からは「事実と異なる部分がある」と。奥宮氏からは自分の作品からの盗作部分があると。

阿川さんは、奥宮氏はともかく山本家の人たちには話を聞かなかったのでしょうか。
【大木】阿川弘之著の『山本五十六』は新潮文庫で今なお出ていますが、それは書き直した新版の方です。旧版の存在は消えています。その旧版はなぜ消えたのかというと、山本五十六の夫婦仲が悪かったことをかなり赤裸々に書いてあったからと言われています。
たとえば山本五十六は、本人は酒を飲まない人ですが座持ちがよかった。酔っ払っていないのに場を盛り上げられる人がたまにいますが、そういうタイプだったのかもしれません。それで宴会の流れで、「じゃあもう少しウチで飲むか」と家に連れてくる。昭和の感覚からすれば、あり合わせの物でいいから、つまみの一つも出してくれと、奥さんに求めたくもなりますね。ところが、山本夫人は挨拶にも出てこなかったといった話が書かれている。しかも旧版には、山本の愛人の河合千代子という芸者についても、露骨に書いてありました。
■山本の愛人について露骨に書いた
【戸髙】そうそう、それに遺族から強いクレームが入って削ったわけですね。阿川さんは山本家にはあえて話を聞いていなかったそうです。
または、話を聞いた海軍OBたちから、聞かなくていいと言われたのか。
【保阪】昭和40(1965)年ぐらいのことですから、プライバシーも、今と違ってそこまで気をつかう必要が無かったこともあるでしょう。書店で売っている「プロ野球選手名鑑」に、選手や監督の自宅住所の番地まで書いてあった時代ですから。山本の愛人のことを事細かに書いている執筆者もいましたね。

(*2)クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル 1842~1906年。ドイツ帝国陸軍少将。明治期に来日し、日本陸軍の近代化に大きく貢献した軍事顧問。
■山本の墓はなぜ2つあるのか
【保阪】山本五十六は、海軍で偉くなってからも長岡にはよく帰ってきて、地元の名物を「うまい、うまい」と言って山盛りにして食べていた。講演に呼ばれれば「ホイ来た!」と、わざわざ軍服を着て演壇に上ってくれたそうですね。『人間 山本五十六』を書いた反町栄一は、山本のそういう所を非常に尊敬している。
【戸髙】「ステージ衣装」の方が、聴衆は喜びますからね。そういう所は、山本五十六のサービス精神旺盛な性格が発揮されています。
【大木】山本のお墓についても、よくわからないことがありますね。
墓所が多磨霊園にあります。非常に立派なもので東郷平八郎の墓と並んでいます。ところが、もう一つ長岡にもあるのです。こちらは山本家の先祖代々の墓です。
ならば、山本五十六のお骨はどちらにあるのか。国葬ののち、多磨霊園のお墓に入れられたことは間違いない。一方、長岡のほうにも分骨されたといわれていたのですが、数年前にそちらにもお骨の一部があることが確認されたと聞いています。
【戸髙】いくら当時とはいえ、父親に公然と愛人がいれば、どうしても家庭的には難しいですよね。なおかつ、義正氏も東京帝大を休学して、志願して海軍の予備士官になっていましたから、あの山本元帥の長男ということで、「英雄の息子」をずっと演じていなければならなかったはずです。そして、山本五十六は戦後になっても英雄でありつづけたわけですから、さらにその状態は続いた。窮屈な人生だったのではないでしょうか。
■小説は海軍の良いところを描いた
【大木】そういう背景もありますね。阿川さんの『山本五十六』という作品は、旧海軍の最も良い部分を主な情報源にしていることによって、ある意味で「凹面鏡」になっているのだと思います。本当に海軍にとっては、書いてほしいところを書いているわけですから。これから読む方は、そういう面も理解していただきたいです。
ただ、阿川さん自身も、対山本家のこともあって、実は必ずしも書きたいままに書いたということではないと思います。小説にするにはそのほうが面白いからといった、独りよがりの精神ではない。おそらく、取材して出てきた事実を重く見て書いたのでしょう。
最初に『文芸朝日』に書き、それをもとに旧版を出した。そこで山本義正氏からの抗議があって、書き直して現在流通している新版になっている。新版として出し直すことを以て、山本家と和解したのでしょう。結局裁判にはならずに落ち着いたそうですが、抗議されても、作者として、できることとできないことはあったはずです。
現在流通している『新版 山本五十六』(上下巻、新潮文庫)の下巻の「作品後記」には、版が変わった経緯の事実関係だけが書かれています。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)

ノンフィクション作家

1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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戸髙 一成(とだか・かずしげ)

日本海軍史研究者

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学美術学部卒業。財団法人史料調査会の司書として、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年に同会理事。99年より厚生省(現・厚生労働省)所管「昭和館」図書情報部長。2005年より現職。19年、『「証言録」海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績により第67回菊池寛賞を受賞。著書に『日本海軍戦史』(角川新書)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)、編書に『特攻知られざる内幕』(PHP新書)など多数がある。

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大木 毅(おおき・たけし)

現代史家

1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学他講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述業に。雑誌「歴史と人物」の編集に携わり、旧帝国軍人を多数取材。『独ソ戦』(岩波新書)で「新書大賞2020」大賞を受賞。近刊に『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』(新潮選書)、『戦史の余白 三十年戦争から第二次大戦まで』(作品社)、『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)など。

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(ノンフィクション作家 保阪 正康、日本海軍史研究者 戸髙 一成、現代史家 大木 毅)

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