■ラーメン店の看板に添えられた“他店”の名
東京・九段下。日本武道館から徒歩15分ほどの場所に、昼時になると行列ができる煮干しラーメン店がある。
「九段 井さい」。
店主の井上翼さんと妻の江里香さんが夫婦で切り盛りする店だ。ラーメンの評判はもちろん、江里香さんのとびきり明るい接客も口コミで広がり、今では遠方から訪れるファンも少なくない。
店の名物は「特上煮干ラーメン」1350円。サラッとしながらも、煮干しの旨みをこれでもかと感じる極上のスープ。引きの美学すら感じる、大人の一杯だ。麺は手もみの自家製麺で、フワモチな食感が特徴でとても美味しい。
この一杯にたどり着くまでに、夫婦がどれほどの道のりを歩いたか。知る者は、まだ多くない。
店の看板には不思議な文字が添えられている。
「& REGISTA」
そこには、この店がここに存在する理由が刻まれている。
だが、その話にたどり着く前に知っておかなければならない。
この穏やかな夫婦が、わずか3年前まで「もう終わった」と思うほどの連続閉店と挫折を経験していたことを。
■「つじ田」中枢を担った男、“何をやっても成功する”と信じた彼女
翼さんは東京生まれ。北海道出身の両親のもとで育った。若い頃は定職に就かず、さまざまなアルバイトを転々としていた。
「完全にフリーターでした。何をやるかも決まってなくて、とにかく働かなきゃという感じでしたね」
そんな彼が出会ったのが「つじ田」だった。当時はまだ創業間もない時代。アルバイトとして入った翼さんは、そのまま社員となり、店長、マネージャーへと昇進していく。
「最初はラーメン屋をやろうなんて全然思ってなかったんです。ただ働かなきゃいけないと思っていた。でも気づいたらハマっていました」
その後13年間。店舗展開の最前線で走り続け、国内事業の中枢を担う存在になった。

その姿を間近で見ていたのが江里香さんだった。実は彼女も、「つじ田」の関連会社で働いていた。
「周りからずっと聞いていたんですよ。『翼はすごい』『日本の現場を任されている』って。実際に仕事している姿を見ても、この人なら何をやっても成功するんだろうなって思っていました」
成功しか想像できなかった。そう言い切る。
「本当に不安がなかったんです。今思うとヤバいですよね(笑)」
■妻の故郷・北海道でひっそり始めた夫婦のラーメン店
転機は、会社の体制が大きく変わり始めた頃だった。
「会社が今までとは違う方向に進んでいくのを感じていました。そこで初めて『自分でお店をやってみようかな』と思ったんです」
だが、13年間尽くした会社への思いは強かった。中枢を担う立場だったからこそ、自分の独立がどう受け止められるかも想像できた。
そこで二人が選んだ場所は東京ではなかった。
北海道・札幌だった。北海道は江里香さんの故郷でもある。
「東京だと目立つし、お世話になった人たちへの申し訳なさもあったんです」
2018年。入籍と開業準備がほぼ同時進行で進んだ。そして誕生した店が「井さい」。店名は井上の「井」と、江里香さんの旧姓「西尾」から取ったものだ。
「最初は『井西』だったんです。でもいろいろ伏せたくて『井さい』にしました」
有名店で幹部を務めた人間が独立することの気まずさもあり、二人は出自を隠すように、ひっそりと店を始めた。SNSも開店から3カ月、一切やらなかった。前述の申し訳なさからだ。それでも店は少しずつ愛されるようになった。気づけば札幌を代表する煮干しラーメン店の一つになっていた。

■東京進出の初日に匂いトラブル、即閉店…体が覚えている夫
そして5年後。二人のもとに二つの夢のような話が舞い込む。一つは東京進出。もう一つはアメリカ出店。
「これは乗るしかないなと思いました」
アメリカへの憧れもあった。
「海外に店があったらカッコいいじゃないですか」
二人は決断した。札幌の店をスタッフへ託し、東京へ向かう。常連客たちは盛大に送り出してくれた。「東京の人がうらやましい」「絶対成功する」――そんな言葉に背中を押された。
2歳と0歳の子供を連れての上京だった。江里香さんは振り返る。
「人生で一番明るかった時期かもしれないです」
しかし、その直後だった。
地獄が始まる。
最初の舞台は東京・野方(中野区)。2023年。午前11時。開店祝いの大きな花輪が並び、華やかなお祝いムードでスタートした。順調な滑り出しだった。お客さんもたくさん来てくれ、行列もできていた。
ところが正午。
「ちょっとストップしてください」
一瞬何が起きたのかわからなかった。店にはお客さんがいっぱい。オーダーも受けて、ラーメンも作っている途中。なのに、全てがストップした。

理由は、「煮干しの匂いが強い」というビルオーナーからのクレームだった。突然営業停止を告げられた。
「お客さんに対し、ごめんなさい。帰ってくださいってことですよ」
翼さんは苦笑いした。
「地獄でしたね。本当に赤っ恥でした」
取材中、この日の話になると一瞬言葉が詰まる。翼さんは不意に胸に手を当てる。3年経った今でも身体が覚えているのだろう。
「11時に開けて12時には終わりました」
■“無理すぎる環境”の仮店舗、「悪い報告を聞くだけ」の日々
野方が使えなくなり、それでも店を続けようとした。“ぜひ東京で”と声をかけてくれた人が「申し訳ない」と、急遽探してくれた中野の物件へ移ることになった。
しかし、再起をかけたその場所は簡単な物件ではなかった。
場所は飲み屋街。しかも立ち飲み屋の物件で、椅子もテーブルもない。どうやっても4席しか作れず、お客さんが詰めて入るような狭さだった。建物も古く、非常に暑い。エアコンは家庭用のものが1台だけだった。真夏で厨房は灼熱の暑さだった。
なんとかやりくりしたものの、「どう考えても無理でした。これ以上やると、逆に大変なことになると思いました」。
このまま無理やり続けても、来てくれたお客さんも気持ちよく過ごせない。これは一回辞めるしかない、翼さんは決意した。こうして、お店は4カ月で撤退。再び店を失った。
一方その頃、江里香さんは幼い子供二人を抱えていた。保育園も見つからない。現場に立つこともできない。
「何もできなかったんです。家で子供の面倒を見ながら悪い報告を聞くだけでした」
声が少し震える。
「もがけばもがくほど深みにハマるんです。完全に泥沼でした」
■アメリカの店舗が立ち行かず、潰えた夢
さらに追い打ちがかかる。アメリカの件だった。東京での店づくりと並行して、ニュージャージーでも店がオープンした。
「東京をしっかり軌道に乗せたら、いずれ家族でアメリカへ移住しよう」
そんな未来を、本気で思い描いていた。実際、翼さんは現地にも何度も足を運び、日本とアメリカを行き来する日々を送っていた。
ところが、その夢は長く続かなかった。現地に任せていた運営が少しずつ歯車を狂わせていく。
東京では野方店の突然の営業停止、中野への移転・閉店と、目の前の火消しに追われる毎日。その間、海の向こうで起きている問題に十分な時間を割くことができなかった。
「東京を整えてからアメリカへ」。そう思っていた矢先だった。
ニュージャージーの店は半年ほどで立ち行かなくなった。移住の夢は消えた。店も失った。残ったのは借金だった。
この話になると、翼さんは少し視線を落とし、多くを語ろうとはしない。隣に座る江里香さんも、珍しく言葉を選んでいた。
「詳しくは言えないんですけど……」
少し間を置いてから、静かに続けた。
「言ってみれば、うまく使われてしまったのかもしれません」
その一言だけで十分だった。それ以上を語らない二人の表情が、あの出来事の重さを物語っていた。
「もう終わったことなので」
そう言って江里香さんは小さく笑った。普段の明るい笑顔とは少し違う、その控えめな笑みから、当時の苦しさが伝わってきた。
■借金は最大2500万円…妻「呪われているんじゃないかと」
東京の店もない。アメリカの店もない。残ったのは借金と幼い子供二人だった。
「呪われているんじゃないかと思いました」
江里香さんは笑いながら言う。
だが当時は本気だった。家族で神田明神へ向かった。お祓いを受けた。そしておみくじを引いた。結果は大吉。
「やったー!」
と喜ぶ江里香さん。その横で翼さんは苦笑する。
「すがるものがおみくじしかなかったんです(笑)」
どん底でも、妻の明るさだけは沈まなかった。ただ励ますだけではない。なぜ自分たちから人が離れていくのか。なぜ信頼関係が崩れるのか。心理学や人間関係の本を読み漁った。
「人生って良いことも悪いこともバランスなんだよ」
そう翼さんに伝え続けた。
江里香さんは自分が働きに行こうかとも考えていた。もともと夫婦二人でお店をやるはずで、子育てで店に出られなくても支えていこうと思っていたが、店を失い、完全に追い詰められていた。
当時、事業を続けるなかで積み上がった借入額は、最大で2500万円ほどに達していた。札幌での創業資金、コロナ禍での追加融資、そしてアメリカでの負債なども含まれるという。
生活は限界だった。郵便受けに届くのは、督促状ばかり。自治体から差し押さえを受けたこともあるという。「口座の残高がなさすぎて、差し押さえられたのは4万円だったり……」と笑い話のように話すが、その様子はどこか苦々しい。幼い子供を抱え、夫婦ともに定職がない。それが現実だった。
その頃、札幌へ定期的に戻るようになった。札幌で不定期営業をすると常連客が大勢集まる。
「頑張って」

「待ってたよ」
その声に何度も救われた。
■手を差し伸べた後輩たち、九段下での再出発
さらに手を差し伸べてくれた人たちもいた。「つじ田」時代の後輩たちだった。店舗の定休日を貸してくれる。間借り営業をさせてくれる。気づけば3カ所を転々としていた。
そして最後に救いの手を差し伸べてくれたのが埼玉・三郷にある「REGISTA」だった。翼さんが「助けてくれ」と頼んだわけではなかった。しかし、苦しむ姿を見ていた後輩が手を差し伸べてくれたのだ。
「本当に『ありがたかった』の一言です」
札幌に戻る道もよぎらなかったわけではない。しかし、盛大に送り出してくれた常連客の顔が思い浮かび、その選択はできなかった。「逃げるわけにはいかない」そう決意したときに差し伸べられた手だった。資金面も含めて支援し、一緒に物件を探してくれた。
そして2024年。「井さい」は九段下で再出発した。だから店名の横には今も「& REGISTA」がある。感謝の証しだ。
今では札幌からのお客さんも訪れる。武道館や東京ドームでライブがある日に立ち寄ってくれる人もいる。
「たまに席の半分くらいが札幌のお客さんの時もあります」
江里香さんは嬉しそうに笑う。
「本当に支えられてます」
取材の終盤。私は思わず言った。
「でも全部、不可抗力ですよね」
■夫婦が何度も立ち上がった証しの“一杯”
ラーメンがまずかったわけでもない。お客さんが来なかったわけでもない。すべてラーメン以外の理由だった。
二人は一瞬顔を見合わせた。
「確かに……」
翼さんがぽつりと言う。
「3年経って初めて気づきました」
翼さんは今までずっと「自分が悪い」と思っていたという。
「何か悪いことしたのかなって」
すると隣で江里香さんが笑う。
「いいじゃん、今笑えるから」
間髪入れず翼さんが返す。
「いや、早いだろ(笑)」
明るすぎる妻。まだ少し傷が残る夫。だが二人は並んで笑っている。
「一人だったらもしかしたら前のラーメン屋さんに戻っていたかもしれないです。前のラーメン屋さんに頭を下げて、もう一回働かせてもらっていたかもしれない。妻がいなかったら耐えられなかった。一人だったら立ち直れなかったと思います」
そう語る翼さんの横で、江里香さんは何でもないことのように微笑んだ。
開店1時間で閉店。
アメリカ進出の崩壊。
借金。
連続撤退。
普通なら諦めてもおかしくない。それでも夫婦はラーメンをやめなかった。いや、やめられなかったのかもしれない。
九段下の行列の先にある一杯は、ただの煮干しラーメンではない。夫婦が何度も立ち上がった証しそのものなのである。

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井手隊長(いでたいちょう)

ラーメンライター、ミュージシャン

全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター、株式会社フライヤー執行役員、flier公式チャンネル総合プロデューサー。「東洋経済オンライン」「プレジデントオンライン」「AERA DIGITAL」等の連載のほか、メディア出演、ラーメンの商品監修など多方面で活躍中。ラーメンの「1000円の壁」問題や「町中華の衰退事情」「個人店の事業承継」など、ラーメン業界をめぐる現状を精力的に取材。テレビ・ネット番組への出演は「羽鳥慎一モーニングショー」「ABEMA的ニュースショー」「熱狂マニアさん!」「5時に夢中!」「サクサクヒムヒム ☆推しの降る夜」など多数。東洋経済オンラインアワード2024にて「ソーシャルインパクト賞」を受賞。著書に『できる人だけが知っている「ここだけの話」を聞く技術』(秀和システム)、『ラーメン一杯いくらが正解なのか』(ハヤカワ新書)、『天下一品 無限の熱狂が生まれる仕掛け』(日本実業出版社)がある。

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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)
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