※本稿は、堤未果『堤未果の「すばらしい新世界」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■ストレス社員は会社の「潜在的リスク」
2026年現在、多くの日本企業が、健康経営の名の下にスマートウォッチを社員に配付している。日々の歩数や睡眠時間だけでなく、心拍数の変化から計算された「ストレス度」が上司の持つタブレットに表示されるのだ。
ストレス指数が高い社員は、会社にとっての「潜在的リスク」と見なされ、カウンセリングや投薬治療へと誘導される。
〈早期発見、早期治療〉
本人にとっても会社にとっても、早ければ早いほど効率良く対処できるからだ。すでにその仕組みは、多くの職場に静かに根を下ろしている。
こうした装着型デバイスの配付は、経産省が推進する「健康経営優良法人」の認定を目指す、あるいは維持したい大手企業(サムスン電子ジャパン、伊藤忠商事、ソフトバンクなど多数)では、常識だ。
■「三位一体」による健康データ管理
企業はメタボリックシンドローム予備軍と判定された社員に対し、スマートウォッチのデータに基づいた「強制的な保健指導」をする。
そこで着々と進んでいるのが、企業・健保組合・民間保険会社の「三位一体」による、個人の健康データの共有だ。
企業が収集した社員の健康データが、民間保険会社に提供され、「運動しない人は保険料が上がる」という仕組みが普及してきている。
2026年から本格化する、日本政府が推進する「PHR(パーソナル・ヘルス・レコード)構想」は、単なる健康診断結果のデジタル化ではない。
個人の医療情報と健康診断の結果、そしてスマートウォッチから毎日得られる日々の生体データをマイナンバーに集め、国と企業が共有する巨大なプラットフォームを構築する計画だ。
そのために、2023年に政府が立ち上げた「PHRサービス事業協会」に登録された企業の顔ぶれを見ると、私たち国民のデータを「商品」に変えるプレーヤーが勢揃いしている。
■保険者データによる大規模な医療ビジネス
新薬開発の効率化を目指す製薬業界からは、武田薬品工業、塩野義製薬。データの収集と解析を狙うテック・インフラ業界からは、富士通にNTT、JMDC(旧・日本医療データセンター)にTOPPANなど。健康リスクと保険料を連動させたい保険・金融業界からは、日本生命に明治安田生命、東京海上日動。
2026年1月には、富士通JapanとJMDCが約2000万人規模の保険者データを使って、大規模な医療データビジネスを開始した。
個人データから健康状態を予測して、製薬会社や政府に提供する仕組みが、私たちの知らないうちに、着々とつくられているのだ。
2024年から2026年にかけては、日本製薬工業協会の強い要請によって、患者の同意なしでも匿名加工した個人の医療データを利用できるようにする法改正が進められている。
改正されれば、治験だけでは得られない、国民のリアルな日常データを、業界が安く大量に手に入れられるようになるだろう。
■「待ってました」と登場する保険会社
製薬、金融、保険にテック。こうした業界が熱い視線を注ぎ、積極的に政府に働きかけるのは、今までは医師会の反対などによって守られていた個人の医療データ市場が、すでに約1100億円を突破し、爆発的に成長しているからだ。
PHRサービス事業協会という名の「データの採掘業者」たちは、私たちが1歩歩くごとに、心臓が1回鼓動するごとに、その振動を電子データに変え、マーケットに並べている。
アップルの「ヘルスケア」やグーグルの「Google Fit」などの健康アプリと国民のマイナンバーが紐付(ひもづ)けられると、待ってましたとばかりに登場するのは、民間の保険会社だ。
住友生命の健康増進型保険「Vitality」は、個人のPHRデータを見て、運動や健康診断など健康増進への取り組みが多い加入者は保険料を最大30%割引き、逆に取り組みが悪ければ保険料が引き上げられる。
政府や企業からは、期待の声が寄せられている。
〈健康管理の努力と引き換えに、保険料の値引きを受けるのは当然の権利だ〉
〈国民が、食事や睡眠や運動に気を使うモチベーションが上がる良い制度〉
〈年々国家財政を圧迫する医療費を下げるためには、やむをえない〉
だが本当にそうだろうか?
■不健康が「国家への背信」となる社会
「善意の割引」に見える中で、「健康データを差し出さない国民や、不摂生な人間には高いコストを課す」という社会的選別が始まっていることは、見落とされている。
この健康分野における選別は、自治体レベルでも進んでおり、多くの市町村が、歩数に応じて住民にPayPayなどのポイントを与えるシステムを導入中だ。
政府は、PHRを「早期発見・早期治療」に使うことで、年間130兆円という膨大な社会保障費を抑えるという。
PHR構想が完成に近づくにつれて、不健康は社会保障費を増やす「国家への背信」となり、スマートウォッチはその証拠を24時間刻み続ける「デジタル監視装置」になる。
かつて薬を飲むか飲まないかの問題は、個人の「意志」と「プライバシー」という聖域だった。
だが今、その聖域も、テクノロジーによって扉がこじあけられつつある。
例えば、大塚製薬と米プロテウス・デジタル・ヘルスが共同開発した「デジタルメディスン」は、砂粒サイズのセンサーが埋め込まれた錠剤が胃に到達すると、センサーが胃酸に反応して微弱な電流を発生させる製品だ。
■温かい言葉のウラにある管理社会
「服薬完了」の信号が、皮膚に貼られたパッチを通してクラウドへ送られる。今までのように本人や家族が薬を飲んだ記録をつけなくても、自動的に体内から報告されるので安心だ。
決まった時間に薬を飲むのが面倒だったり、一人暮らしでどうしても忘れてしまう人には、マイクロチップ社が開発を進めている「埋め込み型投薬デバイス」が良いだろう。
こちらは一度体内に埋め込めば、外部から操作して、数十年の間、薬を自動放出してくれる。ついでに日々の歩数や心拍数、睡眠時間といった生体データと組み合わせれば、24時間365日の身体管理システムのでき上がりだ。
注意しなければならないのは、こうした技術は、どれも表向きは「飲み忘れ防止」や「孤独死の防止」といった温かい言葉で宣伝されているが、データの送信先は、決して医師や家族だけではないことだ。
例えば、デジタルメディスンや体内センサーから送られるデータが「服薬率95%」を下回った場合、「自己管理能力の欠如」と見なされ、翌月の保険料が自動的に跳ね上がる。
社会保障費を下げたい政府によってこのような仕組みが導入される日は、そう遠くないだろう。
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堤 未果(つつみ・みか)
国際ジャーナリスト
東京生まれ。NY市立大学大学院国際関係論学科修士号取得。国連、アムネスティ・インターナショナルNY支局員、米国野村証券を経て現職。日米を行き来し、各種メディアで発言、執筆・講演活動を続ける。『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』で日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞、『貧困大国アメリカ』(3部作、岩波新書)で日本エッセイストクラブ賞、新書大賞受賞。多数の著書は海外でも翻訳されている。
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(国際ジャーナリスト 堤 未果)

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