賃上げムードが高まっているものの、生活が楽になった実感が湧かないのはなぜか。立教大学教授の首藤若菜さんは「賃金の上昇は大企業の正社員とパートに偏っている。
その間に位置する中間層、つまり中小企業の正社員や派遣・契約社員などは取り残されている」という――。
※首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』(講談社現代新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■賃上げが進んでいるのは「上」と「下」だけ
国内では、賃上げムードが高まっているが、実際に名目賃金は、どの層でも同じように上がってきたのだろうか。この点を考えるために、2つのデータを確認しておきたい。
第一に、企業規模による違いである。大手企業で大幅な賃上げが相次いで報じられる一方で、中小企業、とりわけ小規模企業では賃上げが追いついていないとの指摘は以前から多い。
厚生労働省「賃金構造基本統計調査」を用いて、企業規模別に所定内給与の上昇率をみると、確かに企業規模が小さくなるにしたがって、賃上げ率は下がる傾向がある。
2024年には、小規模企業は1.80%の上昇が確認されるが、この水準では、当時の物価上昇率には及ばない。さらに注目すべきなのは2025年である。これによれば、中規模企業における所定内給与の上昇率は0.96%まで低下している。
2024年には何とか賃上げを実施したものの、それが持続しなかったとみられる。
■パートタイムのほうが上昇率が高い
第二に、一般労働者とパートタイム労働者の違いである。
一般に、春闘での賃上げは正社員中心であり、非正規労働者には十分に及ばないと語られることが多い。だが、実際の賃金統計をみると、別の側面が浮かび上がる。
厚生労働省「毎月勤労統計調査」によれば、2025年の所定内給与の上昇率は、5人以上事業所全体で2.0%だった。その内訳をみると、一般労働者では2.5%であるのに対し、パートタイム労働者の時間当たり給与は3.8%に達している。
つまり、賃上げ率だけをみれば、パートタイム労働者のほうが高い。これは人手不足による賃金上昇に加え、最低賃金の引き上げによる押し上げ効果がある。
また、連合の春闘結果でも、一般労働者だけでなく非正規労働者にも賃上げが及んでいることが確認できる。もっとも、非正規労働者の組合組織率は依然として低く、春闘での賃上げの広がりには限界がある。
■「中」の人たちが取り残されている
ただし、賃上げ率の見方には注意が必要である。パートタイム労働者の賃金水準はもともと低いため、賃上げ額が小さくても、賃上げ率は高くあらわれやすい。例えば、時給1000円の労働者が33円の賃上げを受ければ、賃上げ率は3.3%となる。
これを月収に換算すると(一日8時間、月20日間勤務)、増加額は約5300円になる。
一方、月給30万円の労働者が1万円の賃上げを受けた場合、賃上げ率は約3.3%である。率でみれば両者は同程度であるが、実際の賃金増加額は後者のほうが大きい。
つまり賃上げ率は、賃金水準の低い層ほど高く示されやすい。労働者全体に占めるパートタイム労働者の比率はすでに3割を超えており、平均値はこうした構成によって左右されやすい。したがって、平均的な賃上げ率の高さが、そのまま一般労働者の賃金改善を意味するとは限らない。
これらのデータに基づくと、近年の賃上げは、「上」と「下」は上昇しているが、「中」が取り残される形で進んでいる可能性がある。
春闘による賃上げは、主として大企業の正社員に及び、最低賃金の引き上げはパートタイム労働者を中心とする低賃金層の賃金水準を押し上げてきた。だが、そのあいだに位置する中小企業の正社員や、派遣労働者や契約社員といった中位賃金層で、賃上げが限定的である。
したがって、賃上げが進んでいるとされながらも、典型的な労働者の賃金が十分に上昇しているとは言い切れないのが現状だろう。
■賃金が上がっても生活が苦しいワケ
以上で見てきたように、賃金といっても、その見え方は一様ではない。
企業規模、雇用形態、年齢によって異なるだけでなく、「賃金が上がった」と言っても、それがボーナス(賞与)や手当の増加によるものか、基本給の引き上げによるものかによって、長期的な意味合いは異なる。
ボーナスであれば一時的な増加にとどまる可能性があるが、基本給であれば、その後の賃金水準にも持続的な影響を及ぼすことが期待できる。

また、時給で働く人のなかには、時給が上がると、その分シフトを減らすよう求められたり、自身で年収を調整したりする人もいる。そのため、時間当たりの賃金が上昇しても、年収や月収は変わらず、生活の苦しさが必ずしも改善しない場合もある。
そこで次に、実質賃金の動向を多面的に捉えるため、2つの単位から確認する。1つは、厚生労働省「毎月勤労統計調査」における「きまって支給する給与」をもとに算出した「月当たりの実質賃金」である。
この指標は、賞与を含まない月例賃金であるため、家計が実際に受け取る毎月の賃金額に近い。
■実質賃金の低迷が数十年も止まらない日本
もう1つは、内閣府「国民経済計算」を用いて算出される「時間当たりの実質賃金」である。この指標は、経済全体として、労働1時間当たりいくら支払われたのかを示している。
現金給与に加えて、企業が負担する社会保険料も含まれており、分配構造やマクロ経済の動きを把握するうえで重要な意味を持つ。
ただし、この指標の上昇は、必ずしも家計の可処分所得や生活実感の改善を意味するわけではない。とくに近年は、社会保険料負担の増加が、この指標上では実質賃金の上昇としてあらわれている面もある。
これらの指標を長期にわたってみると、日本では月当たりの実質賃金の低迷が、1997年頃から始まっていることが分かる。
2020年を100とした指数によれば、1990年には103.0であった指数は、1996年には110.2まで上昇したが、その後は上下を繰り返しながら下落に転じていき、2010年には107.5、2024年には97.7となっている。

■「名目賃金」は上昇、「実質賃金」は低下
この動きを名目賃金との関係でみると、大きく3つの段階に分けて理解することができる。
第一に、2000年代には、名目賃金と実質賃金がともに低下しており、両者はおおむね同じ方向で動いている。ただし、同時期にはデフレが進行していたため、名目賃金の下落に比べて実質賃金の低下は相対的に緩やかにとどまっている。
第二に、2010年代に入ると、名目賃金は下げ止まり、横ばいで推移する。だが、実質賃金はなおも緩やかな低下を続けるようになる。
そして第三に、近年では名目賃金が上昇に転じる一方で、実質賃金は低下する局面となり、両者の乖離が明確になっている。
■原因は円安でもインフレでもない
実質賃金は、前年比だけでみればプラスとなる年も存在するが、一時的な上昇は、過去の下落を相殺するほどのものではなく、その水準は長期的に低下し続けてきた。
近年は名目賃金の上昇が明確となり、名目賃金と実質賃金の乖離が注目されることが多いが、実質賃金の低迷は、近年に始まった現象ではない。
つまり、過去30年ほどを振り返ると、円高の時期であっても、デフレの時期であっても、日本の実質賃金は持続的に上昇した局面は確認できない。むしろ、経済環境が異なる局面を通じて、実質賃金は長期にわたり停滞、ないしは低下を続けてきた。
このことは円安やインフレといった近年の要因だけでは、日本の実質賃金の低迷を十分に説明できないことを示している。実質賃金の低下を、2022年以降に生じた出来事として捉えると、原因を見誤ることになる。


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首藤 若菜(しゅとう・わかな)

経済学者

立教大学経済学部教授、経済学者。1973年東京都生まれ。日本女子大学大学院人間生活学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。山形大学人文学部助教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス労使関係学部客員研究員、日本女子大学家政学部准教授などを経て現職。専攻は労使関係論、女性労働論。

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(経済学者 首藤 若菜)
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