■秀吉と家康を取り持とうと奔走した男
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は羽柴秀吉と徳川家康の直接対決、小牧・長久手の戦い(天正12/1584年3~11月)へ突入する。
前年(天正11/1583年)4月、北ノ庄城で柴田勝家を滅ぼした秀吉は9月から大坂城の築城を開始した。諸国の大名たちは相次いで挨拶に訪れた。
ところが怪しい動きをしているヤツがいた――徳川家康だ。家康はこの時期から、しきりに織田信長の二男・信雄と連絡を取り合っていた。信雄は柴田勝家滅亡までは秀吉と友好関係にあったが、秀吉に横暴な態度が目立ち始めたことに嫌気がさし、それと呼応して家康も、秀吉と対決する決意を固め始めていた。
このことは複数の書状から確認できる。
・天正12年2月『岩田氏覚書』/「家康は信雄のいる伊勢長島城に家臣の酒井重忠を遣いに出し、密事(みつじ)の御旨を交わした」
・同年3月9日『北条氏直宛て家康書状』/「秀吉は恣(ほしいまま)の振舞(ふるまい)が目立つため信雄と家康が申し合わせて討ち果たす」
家康と信雄は連携し、小牧・長久手の戦いの準備を進めていたわけだ。そしてここには、家康が信を置いていた徳川宿老も関わっていたと考えられる。この宿老は外交政策の中心にいたことから、秀吉とも面識があった。
■徳川の重鎮の突然の裏切り
石川数正(いしかわかずまさ)――「豊臣兄弟!」では迫田孝也さんが演じている。9月6日放送以降の数回は、数正の出番が増えるはずだ。なぜならこの男、徳川の重要人物として小牧・長久手を戦ったのち、突然妻子を伴って家康の下から出奔し、秀吉に馳せ参じてしまうからである。
数正は若き家康が今川義元の人質となっていた頃からの近侍であり、今川から独立してのちは、織田信長との同盟成立にも貢献した。政権が羽柴に移ってからは、秀吉との間を取り持つべく奔走した。
そんな重鎮が、なぜ家康を裏切ったのか? 謎に迫ってみたい。
小牧・長久手の戦いは敵味方が入り組んだ、とても複雑な戦いだ。天正12(1584)年3月6日、織田信雄が秀吉に内通していた3人の家老を殺害したのを契機に戦端が開かれ、同月中旬、信雄に味方すると思われていた池田恒興と森長可が羽柴軍に付き、徳川軍と交戦し始めた。
主戦場は東海地域だったが、両陣営それぞれに味方する諸将たちが伊勢・美濃・四国・紀伊・信濃・北陸・北関東などで武力衝突を起こし、当時の日本を二分した大規模な戦いとなった。
局地戦では勝利を収めた家康だったが、全体的には秀吉に軍配が上がった。家康は自分の実力を秀吉に認識させるまでは成しとげたものの、次第に軍勢の数や兵器・食糧の輸送に勝る秀吉に押され、講和を余儀なくされる。
■秀吉が突きつけた非情な条件
また、老獪な秀吉はまず織田信雄に講和を持ちかけ、信雄は単独で和議を結んでしまった。信雄が戦闘をやめてしまった以上、十分な味方を得られずに秀吉の巨大軍勢と対峙せざるを得ない。家康も和睦を望み、石川数正も後押しした。
秀吉は和睦の条件として人質を要求した。人質を取る、という点から見ても、戦後処理で優位に立っていたのは秀吉だったとわかる。家康は二男の於義丸(おぎまる)(のちの結城秀康)を、養子という形で秀吉に差し出した。於義丸には、3人の侍者が随伴した。石川康長・勝千代の兄弟と、本多仙千代だ。前者のふたりは石川数正、後者は本多重次の子である。
ところが、これだけでは済まなかった。
翌年の天正13(1585)年、秀吉は小牧・長久手の戦いで自分に刃向かった越中の佐々成政討伐の兵をあげた(富山の役)。このとき、家康に次の要望を伝えてきた。
・佐々成政と家康がいまだに連絡を取り合っているとの報告がある。
・ついては越中に出陣するにあたり、佐々を支援しない証しとして徳川から追加の人質を取りたい(『久能山東照宮所蔵文書』)。
このことを裏づけるように、千利休も細川家の家臣・松井康之に宛てた書状に、次のように書いている。
・越中の儀については家康の家老衆から人質を出すか、または佐々成政が越中を引き渡すかに方針が決まった(『松井家譜』)。
■「家康は秀吉にかなわない」と判断
家康は家臣たちを集め、対応を協議した。その結果、人質は出さないと決した。だがこの時、秀吉はすでに関白宣下(天正13年7月)を受けており、名実ともに頂点に立っていた。
石川数正が家康の下を出奔するのはこの後、天正13年11月13日のことだ。前後の出来事を考えると数正は人質を出すことに賛成――つまり秀吉に恭順の意を示すべきと考えていたが、徳川家中の大半はその意向を聞き入れず、孤立していったと推察されるのである。
徳川の老臣で、直接秀吉と接していたのは数正だった。数正は秀吉と会い、現時点では家康は秀吉にかなわない、そう判断したのではなかろうか。だが、家臣団の重鎮たちはそうは思っていなかった。
歴史を概観すれば、最終的に乱世を勝ち抜いたのは徳川だ。だが天正13年の時点では、家康が天下を取るなどはまだ夢物語だった。数正はより強大な力を持った秀吉に屈し、その結果、家康から秀吉へと主君を替えたと見られる。
これも戦国を生き抜く術である。秀吉が数正に与えたのは河内国内の8万石だった。
■数正の裏切りが徳川に与えた衝撃
数正の出奔理由は、他にも諸説ある。例えば――。
・数正は天正7(1579)年に家康が自害させた長男・信康の後見人を務めていた関係で、以前から家康とは不仲だった。
・秀吉と戦っても勝ち目は薄く、家臣団に主戦論を放棄させるため、あえて裏切りの汚名を着た。
など、数正に好意的な解釈を示す説である。前者の信康粛清の件では、確かに家康とすれ違いがあったかもしれない。
・数正の件は秀吉との申し合わせがあったことと思うので、くれぐれも(秀吉の裏工作には)油断しないように(『武江創業録(写)』)
数正は秀吉と内通し、裏切った――家康はそう睨み、敵意を露わにしている。
一方、11月19日、秀吉は「家康成敗」を決断する。数正の出奔は、むしろ秀吉に勢いを与えたと見て良い。秀吉は徳川が混乱するのを狙って数正を懐柔し、まんまと成功したと見るのが妥当だろう。
また、数正は徳川の軍事機密を知っていた。そんな男が秀吉に降ったとなると、極秘情報も筒抜けになったことを意味する。家康は軍政の改革にも着手しなければならなかった。
勝てる見込みが薄い戦いに、家康は追い込まれようとしていた。
■天変地異が家康を救う
ところが、これが家康の悪運の強さというべきか、秀吉は家康成敗を中止せざるを得なくなる。天正13年11月29日、巨大地震が起きたためである。
天正14(1586)年正月、秀吉の和睦の使者として織田信雄がやって来た。家康は調停に応じ、秀吉に臣従することになった。
秀吉が家康を「赦免」したのはこの年の2月である。
家康という人物はつくづく運に恵まれている。本能寺の変(天正10/1582年)の直後の「伊賀越え」もそうで、絶体絶命ともいえる危機も乗り切ってしまうのである。
「豊臣兄弟!」ではこの伊賀越えを、山道を行くと見せかけて、船を手配し海路を利用するという意外な設定に変えていた。斬新な演出ではあるが、「山越えを観たかった」という視聴者も少なくなかっただろう。
■松本に残る統治の跡
さて、数正のその後である。
天正18(1590)年、秀吉は北条氏の小田原城を陥落させると、大名たちの領地替えを行った。家康は江戸に移封され、家康に従っていた信濃・松本(長野県)の小笠原氏も、下総の古河(茨城県)に移った。
代わって松本に入封してきたのが数正である。数正は松本藩の藩祖とされている。
石高は8万石とも10万石ともいわれるが、入封後に行った検地によると筑摩郡4万8301石、安曇郡3万2221石で、合計8万522石となっている(『長野県史 近世資料編』)。
石川氏の統治は23年続くが、その間に行った主な政策は松本城の天守造営と城下町の整備だった。
この時代の政権は豊臣だ。信濃の数正は関東の徳川に対する、備えの一角に組み入れられていた。壮大な天守はいわば豊臣に属する者の権力を示し、城下町は軍・流通ルートの拠点としての役割を持っていた。
当時の松本城には、金箔瓦が使われていたことがわかっている。いかにも秀吉の絢爛豪華な好みにならったといって良い。だが、のちに徳川の天下となると、豊臣色の強い金箔瓦は一斉に取り払われ、その一部が発掘調査で出土し当時の名残をとどめている。
■外様大名と同じ理由で改易に…
石川氏は数正の子・康長のとき、大久保長安事件(慶長18/1613年)に連座したとして改易となる。子供同士が婚姻を結んだ縁戚にあったためだ。長安が佐渡金山・石見銀山などの鉱山統轄権をバックに不正に蓄財していたといわれる事件で、江戸時代初期を揺るがせた疑獄だった。
加えて石川康長には、城の普請を幕府の許可を得ずに行ったという疑惑も持たれていたようだ(『信府統記』)。
城を改修し改易された大名というと、福島正則を思い出す。迂闊にも武家諸法度に違反し、のちのお家取り潰しの原因を作った外様だ。数正の嫡男・康長の処分は武家諸法度が公布される以前だが、軽率な判断が改易の要因のひとつとなった可能性は否定できない。
数正の出奔が原因となり、石川家は後世まで目をつけられていたのかもしれない。
参考図書
・小川雄・柴裕之編著『図説 徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
・藤井譲治著『人物叢書新装版 徳川家康』(吉川弘文館、2020年)
・小和田哲男著『徳川家康 知られざる実像』(静岡新聞社、2022年)
・田中薫著『シリーズ藩物語 松本藩』(現代書館、2007年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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