2010年4月6日、埼玉県飯能市の横断歩道を渡っていた中村友美さんは、右折してきたタンクローリーに頭部を轢かれ、即死した。
 事件から15年以上が経過した現在、遺族である中村正文さんは、交通事故遺族の会である一般社団法人関東交通犯罪遺族の会(通称「あいの会」)に所属し、犯罪被害者遺族に必要なケアなどについて支援を行っている。
一方、正文さんを含む家族は現在も、事件当時の悲しみと地続きの生活を送る。事件後のリアルな姿を追った。

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一人ひとりが家族の柱だからこそ…

 中村さんが話してくれた言葉で、印象に残るものがある。

「よく家族の誰か稼ぎ手を指して“大黒柱”っていうでしょう。うちでは僕になるのかなぁ。でも家族って、誰かが太い柱で、ほかは細い柱なんてことはないんですよ。みんなが太い柱で、誰が欠けてしまっても崩れてしまうんです」

 経済的にはどうであれ、家族は全員がお互いの精神的な支柱であり続ける――そんな実感を思わせる言葉だ。

 1999年、正文さんは行きつけの飲食店で知り合った友美さんと恋に落ちた。5歳年下の、「しっかりした女性」。それからほどなくして結婚。2人で将来の話もよくした。特に住居には、友美さんがこだわりを詰め込み、2008年にやっと完成したのだと中村さんは目を細めた。

 あの悲惨な事件によって、正文さんと友美さんの結婚生活はわずか10年で取り上げられてしまった。
友美さんは、こだわり抜いたマイホームに2年も住めなかったことになる。

「家を建てるとき、“もしものため”にいくらか保険に入っていました。使わないと思っていた“もしものため”の保険によって、住宅ローンはもう残っていません。幸い、私も会社員を続けられていますので、経済的に困窮することはありませんでした。それでも、“大黒柱”が折れてないなんて、ぜんぜん思えない」

妻を失ったあとに待ち受けていたのは…

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生前の友美さんと写った長男と次男
 勤務する会社は、正文さんが置かれた状況に理解があった。事件後、忌引休暇が明けると、フレックス勤務などを利用して2人の子どもたちの保育園の送迎などを行った。突然妻を奪われ、なんとか仕事に復帰をしたものの、日常生活をただ回すだけで心身が目減りしていく。育児時短勤務も利用していたが、民事裁判が終わる頃、見かねた産業医から「休んでください」と伝えられた。負荷が極限に達していたのだ。傷病休職を取得して、快復に務めた。

「事件直後は、食べられない、寝られない、体重はどんどん落ちていく――という状態が続きました。自分では事件後の記憶がはっきりあるつもりでしたが、妻の葬儀のとき、長男(当時4歳)と一緒に妻のお骨を拾ったときの記憶がすっぽり抜け落ちているんです」

 その後も、正文さんは会社を数回休職している。自身の体調不良に加え、精神障害者手帳1級を持つ次男の介護休職も含まれる。


「次男には選択性緘黙症という疾患があります。本来は会話も発言もできるのですが、家族やごく親しい友人家族を除いて、意思疎通をすることができないんです。したがって通院の際も、医師に自分の症状を伝えられないため、私が“通訳”をする必要があるんです」

 長男もまた、精神的に不安定な面があるという。

「私が会社に最初に復職した頃、長男は中学校1年生でした。ちょうどそのタイミングで不登校になってしまって……。その後、専門学校にも入学しましたが、学生寮に入寮するとメンタル不調に陥って学生寮に引きこもってしまいました」

死生観が変わってしまった

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息子たちには、あえて「子ども扱い」せずに接したことも
 友美さんの亡骸は頭部の損傷が激しく、エンバーミングを依頼した。横たわる友美さんを見て、当時4歳だった長男が「ママ、変な顔になっちゃったね」と呟いた。見慣れた母親ではない、事件によって壊されてしまった友美さんの顔を当時の語彙力でそう表現したのだ。

 子どもたちの精神面に不調が出たことと事件の関連性について、正文さんは「はっきりとはわからない」としながらも、「少し思うところはある」と頷いた。

「事件当時、長男4歳、次男1歳です。次男はもちろん記憶がありませんし、長男も『ママとこんな場所に行ったね』など断片的な記憶しかありません。しかし、事件で間違いなく私たちの死生観は変わってしまいました。たとえば普通の家庭であれば聞き流すであろう事故のニュースなども、かなり深刻に受け止めるようになってしまいました。
私自身も子どもから聞かれれば『子ども扱い』せずにきちんと大切なことを伝えてきたつもりです。そのことが、本来であればもっとゆっくりでよかった精神面の成長を急速に促してしまって、悲鳴を上げてしまったのかなと振り返ることがあります」

何もなかったことにはしたくない

 事件から1~2年して、同じく埼玉県で交通事故の被害者となった小沢樹里さんらと繋がった。この出会いが「あいの会」の礎を築く。

 正文さんは事件後、勤務先の制度や同じ被害者との分かち合いによって精神を繋ぎ止めた。「友美が繋いでくれた縁だと思う」と口にする。一方で、傷つけられることもあった。

「辛かったのは、生前、友美が快諾してくれて同居していた私の両親の言葉ですよね。一緒に住むと見えてくるものが多くて、お互いに思うところはあったと思います。そのためか、私たちと両親では明らかに友美の死の重みが異なると感じた場面が多々ありました。サポートしてくれた面もありましたが、他方で子どもに『いつまでも泣いていても仕方ない』という声がけがあり、気が重くなりました。良かれと思っての発言だとしても、二次被害にはなってしまうんですよね」

 正文さんの活動の根源は、友美さんの生命を無駄にしないこと。「友美は生命を消されました。
私が何もしなければ、本当にこのまま何もなかったことになってしまいます」と唇を噛む。

 年下だが、いつもしっかりだった者の妻。語り合ったたくさんの将来が、跡形もなく消えた。家を建てたとき、「(墓を作ることで)子どもを縛りたくないから、もし私が死んだら海に散骨してね」と友美さんは笑った。事件後、正文さんは約束通り海洋葬を行った。「もし私が死んだら」はもっと遠い将来のつもりだっただろう。

 広い海を見渡せば、どこかに友美さんがいる。これが出来の悪い小説ならば、そう陳腐に締めくくるだろうか。けれども現実には、家族は現在も懊悩と葛藤の霧のなかでもがく。少しずつ笑える日が増えたとしても、事件前には戻らない。永劫回復しえないことを理解しながら、それでも友美さんとの日々を意味のあるものにすべく、前に進む。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。
可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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