錦織圭という奇跡【第36回】
富田玄輝の視点(2)

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◆富田玄輝の視点(1)>>同期の本音「どんどん強くなるなと感じていました」

「自分のほうが上でありたいという気持ちは、当然ありました。ありましたけど、サクッと追い抜かれて......。

どこまで行っちゃうんだって感じでしたけどね、その時はもう」

 富田玄輝氏は淡々と、20年ほど前の日に思いを馳せた。

 錦織圭は13歳の時に、盛田正明テニス・ファンドの支援を受け、米国のIMGアカデミーへと赴(おもむ)いた。その時に錦織とともに海を渡ったのが、現在の株式会社リコー男子テニス部監督の喜多文明氏と、今回話を聞いた富田玄輝氏。富田氏は現在、地元・岡山県でテニスコーチとして、日々ジュニア選手たちと向き合っている。

錦織圭のIMGアカデミー同期が「圭は、自分たちとは違ってきた...の画像はこちら >>
 渡米した当初、3人のなかで最年長であり、背も高かった富田氏は、錦織に試合で負けたことはなかったという。ただ、2年目に入った頃から、錦織はジュニアの国際大会で急速に結果を残すようになっていった。

「テニス面で、圭のどこが強くなったかというのは、そんなにはっきりと感じたわけではないんです。ただ、試合で結果が出ると、IMGアカデミー内でも注目度が上がり、そうなると練習相手とかも変わってくるんです。たとえばプロの選手とも、圭は時々ヒッティングするようになった。そのあたりから圭は、自分たちとは違ってきましたね」

 当時のIMGアカデミーには、世界2位のトミー・ハース(ドイツ)や、のちに錦織のコーチにもなるマックス・ミルヌイ(ベラルーシ)らがいた。錦織はそれらのトップ選手とも、徐々に練習する機会を得ていく。

 対して富田氏は「みなさんが知っているような選手とは、女子選手も含めて打ったことがない」と言った。

結果や待遇が可視化されるなかで、富田氏の気持ちは徐々にIMGアカデミーから離れていったという。

 2年目を終えた時点で、富田氏と喜多氏はIMGアカデミーをあとにした。当時はそのことに「心残りはなかった」と富田氏は言う。

「今になって思えば、もっと長い目で見ることができていれば、まだがんばれたかもと思うんです。でも......まあ、若かったので。その時のことしか考えてなかったですね」

【大学2年でテニス部を退部】

 帰国時に高校2年生だった富田さんは、その後もアジアを中心にジュニアの国際大会を転戦し、日本の賞金大会にも出ていた。同じタイミングで帰国した喜多氏とも、「よく一緒に練習していた」という。

「その頃はまだ、プロになろうと思っていました」と富田氏が回想する。

「ただ、活動拠点がないので、困っていたというのはありました。声をかけてくださる企業もあったのですが、まだ実力的に難しいかな、という思いもあって。親とも相談して、すぐプロにはならず、大学に行くことにしました」

 進学先は、いくつかあった選択肢のなかから、喜多氏も入った慶應義塾大学を選ぶ。

「慶應ボーイになったら、モテるんじゃないかとも思ったり。まあ、モテませんでしたが」

 端正な口もとに、ややシニカルな色を浮かべて富田氏が微笑んだ。

 錦織が2008年のデルレイビーチ国際テニス選手権で衝撃のツアー初優勝を成し遂げたのは、富田氏が大学1年生の冬の日のこと。同じテニス部に所属していた喜多氏は、朝練に行く時にそのニュースを知り「ありえない!」と衝撃を受けたという。

 富田氏も、驚いたのは間違いない。ただ、喜多氏のビビッドな思い出に比べると、富田氏の記憶は、そこまで鮮明ではない。

「話題になったとは思うんですが、どんな感じだったかは、あんまり覚えていないんです。いや、もちろんびっくりはしましたよ。優勝したことより、ジェームズ・ブレーク(当時12位/アメリカ)に勝ったということに一番びっくりしましたし。

 ただ当時の私は、圭の情報を追っていたということもなかったんです。やっぱり大学に入って、世界のテニスへの関心は少し薄れていたのかもしれません」

 大学に進学した時点で富田氏には、プロを目指すうえでの指標があったという。

「プロになるかどうかは、20歳頃には決めないといけないと思っていたんです。自分のなかでプロというのは、世界ランキング100位以内や、グランドスラムに出られるレベル。

 20歳の時点で、そのステージに行けそうな場所にいたなら、続ければいい。

逆に届かなそうな地点にいるなら、やめたほうがいいと思っていたんです。ですから20歳の時に、日本ランキング10位以内にいたとしたら、テニスを続けたと思います。ただ実際には、届いていなかったので......」

 はたして富田氏は大学2年を終えた時点で、テニス部を退部した。

【テニスが嫌いになったわけではない】

「あの時は、テニスを辞めることにそれほど迷いはなかったですね。いつか辞めるわけだし、今がそのタイミングなのかなと思ったので」

 それが、当時の思いだったという。

 大学を卒業後は、一般入社でブリヂストンスポーツに入る。最初に配属されたのは、ゴルフ部門だった。

 錦織が帰国した際には、喜多氏も含めて時々会った。

「なんか芸能人みたい。おしゃれになったな」

 そんなふうに思うこともあったという。

 その後、富田氏はテニス関連の部署に移るも、同社は2020年末にテニス事業から撤退。そのタイミングで富田氏は会社を辞め、郷里の岡山市に帰った。自身が育った『アサヒテニスクラブ』で、コーチとして後進を育てるためである。

「テニスが嫌いになったわけではないですから」

 柔らかく彼は言った。

 今、指導者として日々、ジュニア選手たちと触れ合う彼に、尋ねてみる。なぜ錦織圭は前例もないなかで、あそこまで行けたのだろうかと。

「それは、わからないですね。全然、わからないです。もちろん本人が持っている資質もあるでしょうし、積み重ねた努力もあるでしょうし。環境がマッチしていたというのもあるでしょうし。うーん......その全部じゃないでしょうか。

 どんどん強くなるにつれて、加えられたものは当然あると思います。たぶん、最初は技術的なところがすごく大きくて、そこにゲームメイクもついてきて。そして最後にフィジカルがついてきて......みたいな感じだと思います」

 ただ、すべては結果論ですよね......と、富田氏は言葉を継いだ。

 コーチとしての富田氏は、教え子たちに自身のIMG時代の話をすることは多くないという。

「海外生活の環境も、当時の練習法やトレーニング法も古すぎて、参考にはならないでしょうから。私自身、プロとしての選手活動もしていないので、そのあたりは教えられないですし。どうやったら失敗するかっていうのは、教えられますけれど」

 おどけた笑みも、皮肉の影も浮かべることなく、淡々と彼は語る。自身の経験から彼は、何を後進たちに「教えたい」と思っているのだろうか──?

【錦織圭が灯した同期の情熱】

「いろいろとありますが、勝つことを目的にしちゃうと、成績が出なかった時に辞めないといけなくなる。そういうことは、やめたほうがいいと話しています。

 プロになるために嫌々努力しているなら、それでもいいとは思うんです。でも、本当にテニスが好きなら、ラインを決めて自分を追い詰めるようなことは、やらないほうがいいと思いますよね。そんなふうにしてテニスを辞めることになったら、かわいそうですから」

 優しいその言葉は、どこか過去の自分に語りかけているようにも響いた。

 コーチになってからは、そのやりがいや難しさに、直面する日々だという。

「レベルや目標も違う子たちがいるなかで、それぞれに応じた指導法を見つけないといけない。誰に対しても同じ熱量で接すると、おかしなことになってしまう」と、富田氏は真摯に言葉を紡ぐ。コーチとしての目標を問うと、「会員を増やすことですね」と自然に笑った。

 ひとりでも多くの人たちに、テニスの楽しみを知ってほしい。自分が接した子たちには、長くテニスを続けてほしい──。

 その理念を胸に、自身の経験を地元の子どもたちに還元するひとりのコーチの情熱もまた、錦織圭が灯(とも)した火だ。

(つづく)

◆内山靖崇の視点(1)>>


【profile】
富田玄輝(とみた・げんき)
1988年7月13日生まれ、岡山県出身。ジュニア時代に全日本ジュニアテニス選手権のシングルス・ダブルス双方で優勝を飾る。岡山大学教育学部附属中学校時代に、錦織圭らとともに盛田正明テニス・ファンドの奨学生として渡米し、フロリダのIMGアカデミーへテニス留学。帰国後、アットマーク国際高等学校を経て慶應義塾大学に進学。全日本テニス選手権への出場を果たすなど、学生テニス界の第一線で活躍した。大学卒業後はブリヂストンスポーツに入社。テニス関連のキャリアを築き、現在はアサヒテニスクラブのヘッドコーチおよびファジアーノ岡山テニススクールなどで指導にあたる。国内外での豊富な経験を生かし、次世代の育成とテニスの普及に尽力している。

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