初代プレイステーションはなぜ大ヒットしたのか? ソニーだからできた革命
画像は「プレイステーション クラシック」 ソニー・インタラクティブエンタテインメントのリリースより

前回、初代「プレイステーション(以下、プレステ)」発売当時の熱狂ぶりをお伝えしたが、その大ヒットの要因は何だったのだろうか。
さまざまな角度から検証してみた。



音楽業界の盟主 ソニーだからこその成功要因とは?


任天堂のスーパーファミコンが天下を取っていた時代。
プレステの販売元であるソニー・コンピュータエンターテインメント(以下、SCE/現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が推し進めたのは、その任天堂とはまったく違うアプローチばかりだった。
特に流通面の改革は、ソニーだからこその成功要因だと強く思う。

プレステのソフトはCD-ROMのため、従来の任天堂タイプのROMカセット式(マスクROM)と違い、短期間でリピート生産ができた。
しかも、従来の問屋制度から、SCEは音楽業界と同様に直送するという、CDの流通システムを導入した。これによって、販売店には短期間で追加注文分が納品されることになる。
おかげで販売店は、品切れを避けるために在庫を抱えておくリスクを最小限に抑えることができた。

ユーザーにとっては、タイムリーに希望のゲームが購入できる。
つまり、消費のサイクルが格段にスピードアップしたのである。

そもそもの製造原価がマスクROMに比べて大幅に安いうえ、同じくソニーの系列であるソニー・ミュージック・エンターテインメント(SME)のCD工場を利用できるため、生産コストが圧縮できた点も大きなポイントだ。
これにより、スーファミのソフトが1万円前後と高騰していた時代に、プレステのソフト価格は5,800円が基本になっている。
おまけに、SMEの流通網により全国のCD店での販売もできたため、プレステユーザーの裾野は一気に拡大したのである。
売り手にとっても、買い手にとってもプレステの登場は革命だったのだ。



ゲームメーカーにとってもプレステの登場は大歓迎だった


ゲームの製作側にもプレステ参入のメリットは大きかった。
任天堂が参入メーカー(サードパーティー)にゲームの年間発売本数を制限するなど、クオリティ重視で基準を厳しく設けていたのに対し、ソニーはその参入の敷居を最大限に下げた。
さらに、開発機材を破格で提供し(任天堂の1/10ほどといわれている)、開発の支援も手がけるなど、ゲーム作りをバックアップ。音楽業界で培った、アーティストをマネジメントするノウハウを活用したのである。
これにより、規模の小さいメーカー、新興メーカーからの意欲作が市場に大挙投入され、バラエティ豊かなラインアップが早々に実現。
当初のキャッチコピーは「全てのゲームは、ここに集まる」だったが、それを体現するかのごとく1994年夏の時点で契約したサードパーティは200社を突破。怒涛のリリースラッシュで、ゲーム業界を埋め尽くしていったのである。



テレビCMによるイメージ戦略も成功


SCEのCMはすべて、冒頭におなじみのロゴのどアップと「ボン」という効果音から始まっていた。
昼夜問わず大量に流れるCM効果は絶大で、視聴者はパブロフの犬的に画面に釘付けだ。
95年2月から4月にかけては「いくぜ、100万台」をキャッチコピーに掲げ、具体的な目標を大々的に告知。プレステが大人気であることをイメージ付けている。
翌5月には見事100万台を達成し、怒涛の勢いで市場を制圧していったのである。


ありそうでなかった試遊台の設置を推進


販売店の店頭に積極的に試遊台を設置した効果も大きかった。
当時は任天堂を始め、ゲーム業界自体が試遊に関しては積極的ではなかった印象。
しかし、ゲーム業界の新参者からすれば、高額な商品を試せないことが不自然で不合理な状況に思えたわけだ。

当時、筆者は静岡のローカル家電店チェーン勤務。CDやゲームを担当していたのだが、プレステの試遊台は常ににぎわっていた。
やはり、実際に手にすればその良さがわかるというもの。そのスペックの高さに感動して購入に踏み切った方も多かったと思う。
また、販売店へのサンプルROMの提供も積極的だった。ひと足早くゲームを楽しめる役得は、発注に手心を加える効果も…? ともかく、発注の参考に大いに役立ったものである。

ちなみに、任天堂も『バーチャルボーイ』や『NINTENDO64』からは試遊台の設置を始めている。


本体の値下げを始め、圧巻のユーザーサービス


当初は39,800円だった本体価格も段階的な値下げにより、97年11月には18,000円と半額以下に、さらに99年1月には15,000円にまで下がったプレステ。
当然、それぞれの値下げのタイミングで購入者が格段に増えている。
ひときわ印象深いのが、18,000円になったタイミング。
新作ゲームの体験版ROMを85万枚も配布するキャンペーンを張り、販売店からは不良ソフトを一律2,000円で買い取るサービスまで仕掛けたから圧巻だ。
皆が待ち望んだ大作『グランツーリスモ』の発売も直前に控えた、クリスマス商戦に向けた絶妙な仕掛けだった。
結果は当然大成功。
この時期だけで本体は200万台も出荷されたという。
初代プレイステーションはなぜ大ヒットしたのか? ソニーだからできた革命
▲筆者私物の体験版ROM

過去の名作を低価格で販売する「The Best」シリーズや、本体とコントローラー、メモリーパックを同梱した特別パックの発売など、ユーザー目線のサービスは終始徹底。
また、体感型のコントローラー「デュアルショック」や、本体と連動する小型の携帯型ゲーム機「ポケットステーション」など、新感覚の周辺機器の充実ぶりも目を見張るものがあった。
常に期待に応えてくれる。
常に新しい何かを提供してくれる。
そんな頼もしさが多くのユーザーを惹きつけたのも事実だ。


プレステが名実ともにゲーム業界の覇者に 勝負が決まったのは97年!?


それまで任天堂ハードが独占していた2大国民的RPG「ファイナルファンタジー(FF)」「ドラゴンクエスト(ドラクエ)」がプレステに場を移した効果も絶大だった。
『FF7』の発売、『ドラクエ7』の発表は97年1月の出来事だ。
デジキューブ発足によりコンビニでも販売された『FF7』は、実質3日で200万本以上のセールスと、期待に応える空前の大ヒットを記録し、本体の売り上げにも大きく貢献。
この時期の本体の販売台数は、常にライバルのセガサターンやNINTENDO64の10倍前後をキープしていたという。

プレステがゲーム業界の覇者となったことは、このコメントに裏付けられるだろう。
『ドラクエ7』がプレステで発売されるに当たって、当時のエニックス社長が発したコメントである。
「ドラクエシリーズは、もっとも普及しているハードで発売するというスタンスを堅持してきました。ですから、現在もっとも普及しているプレイステーションで発売することにしました」

『ドラクエ7』の発売が遅れに遅れ、2000年8月まで待たねばならなかったことがなければ、完璧なコメントであった。
(バーグマン田形)