それはプロ野球史上最高に盛り上がった対戦カードかもしれない。

90年代の長嶋巨人と野村ヤクルトの仁義なき戦いである。
この頃、92年、93年、95年、97年の優勝はヤクルト。94年、96年、00年は巨人と毎年のようにV争いをし続けた両チーム。

現役時代からパ・リーグの南海で優勝して三冠王を取ろうとも、常に満員の球場でマスコミの注目を集めるのは巨人の長嶋茂雄と王貞治。そこで出た生涯一捕手ノムさんの有名な台詞が「ONがヒマワリなら、オレはひっそり咲く月見草」というわけだ。

巨人とヤクルトの因縁


後年、監督時代のライバル関係もこのアングルが元であると思っていたファンも多いと思うが、実は巨人とヤクルトの因縁は長嶋監督復帰前年の92年からすでにヒートアップしていた。

西武から巨人へトレード移籍直後、本塁打を連発する大久保博元に対して、当然僅差の優勝争いを繰り広げるヤクルト投手陣は厳しい内角攻めを連発。
やがて、それはやられたらやり返すシュートマッチへと発展し、野村監督も「古田が当てられても周囲は何も言わないのに、大久保が当てられたくらいでガタガタ言うな!」とスポーツ紙を使って挑発してみせた。



「目には目にですよ」物議を醸したミスターの発言


そして、ミスターが現場復帰した93年6月8日の富山市民球場で宮本和知がID野球の申し子古田敦也へ死球を与え、次打者が放った打球で本塁突入した古田に、キャッチャー吉原孝介がダメ押しエルボーで応戦。両軍入り乱れる大乱闘に発展する。

翌94年5月11日の神宮球場では、西村龍次の速球がバッターボックスの村田真一の側頭部を直撃して昏倒。同日の7回、再び西村が巨人の助っ人グラッデンにブラッシュボールを投じ、なんとグラッデンはヤクルト捕手中西親志とガチで殴り合って左手を骨折(ちなみにこの試合が危険球退場制度の導入のきっかけとなった)。

今度はミスターの「目には目にですよ」発言が物議を醸す。後年、ノムさんは「あれ(挑発)は球界を盛り上げるためにやっていた」なんつってごまかしていたが、当時のGS戦は完全に一触即発の“喧嘩マッチ”といった有様だった。

息子一茂の一件が原因だった?


なぜ二人はここまで仲が悪いのか? やはり息子一茂の一件が尾を引いている説も強い。

一茂は立教大学から87年ヤクルトのドラ1として入団するも、プロ3年目の90年に野村監督が就任。
やがて出場機会を失い、92年には逃げるようにアメリカへ野球留学。そんな息子を不憫に思ったか、翌年のミスター復帰とともに巨人へ金銭トレードで移籍することになる。

94年に発売された番記者達による『長嶋巨人 ここまで暴露(バラ)せば殺される』という時代を感じさせるタイトルの書籍で、信じるか信じないかはあなた次第のネタの数々が書かれている。

浪人中のミスターがヤクルト西都キャンプを訪れた際、いきなりファンや報道陣の前で見せ物的に一茂の打撃指導をさせられた屈辱の事件が勃発。

さらに92年秋、宮崎で行われたセ・リーグ東西対抗戦で、真新しい背番号33のユニフォームに身を包んだ長嶋監督がセ・リーグの故・川島廣守会長を訪問。しかし、この際に傍らにいた野村監督を完全に無視して川島会長にだけ挨拶をしたという。


試合前のセレモニーで花束贈呈があっても、両者は握手どころか視線すら合わせない。これ以降、野村監督はマスコミを通じて口撃を繰り返し、長嶋監督は表面上それを無視し続けるという危険な関係が始まる。
 

巨人が激怒した"落合外し"


例えば94年オールスター戦では、全セ野村監督が春から挑発をし続けた巨人の落合博満を監督推薦から外す荒技に出る。
「長年の夢がかなった。やっと休めるよ。さびしさ? そんなのないよ」とオレ流節で煙に巻く落合だったが、親しい評論家には「オレの何が気に入らないのかな。(野村監督に)やられちまったよ」なんて吐き捨てたという。


当然、巨人首脳陣もこの仕打ちには怒った。のちに故障で出場辞退した選手に代わる球宴出場依頼を断固拒否。結果的に野村監督が休ませたいと思っていた自チームの広澤克実を出場させるハメになる。ほとんど子供のケンカレベルの意地の張り合い。もはや修復不可能な巨ヤ遺恨戦争だ。

ノムさんは長嶋茂雄を評価していた?


その野球人生において、愛妻サッチーと長嶋茂雄にこだわり続けたノムさん。
後年、出版した自著の中で非常に興味深い記述がある。

立教大学の先輩、故・大沢親分に誘われ、ほとんど南海入りが決まりかけていたミスターだったが、直前で巨人入り。もしも長嶋が南海に入団していたらどうなっていたか、とノムさんは残念そうに言うのだ。

「当然のことながらON砲は誕生していない。そうなれば巨人の九連覇もありえなかっただろうし、逆に長嶋と私の“NN砲”を擁することになった南海が球界の盟主の座をほしいままにしたかもしれない。江川卓がそうだったように、長嶋にあこがれて南海入りを希望する高校生や大学生も続出したはずだ。
長嶋の突然の進路変更は、巨人と南海、ひいてはセ・リーグとパ・リーグの、いやプロ野球の運命を変えたといっても過言ではない」

要は自分の相棒にスーパースーター長嶋がいれば球史を変えられた。今頃、南海が球界の中心に君臨していたはずだ。なんで、直前で巨人に行ったんだ?……という若かりし日の恨みが、90年代の監督になってからの行き過ぎたライバル関係へ持ち込まれたというのは勘繰り過ぎだろうか。

もしかしたら、誰よりも長嶋茂雄を評価していたのは野村克也なのかもしれない。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”』(野村克也/角川oneテーマ21)
『長嶋巨人 ここまで暴露(バラ)せば殺される』(長嶋巨人番記者/あっぷる出版社)
『Gファイル 長嶋茂雄と黒衣の参謀』(武田頼政/文藝春秋)