イタリア、ミラノのカトリック系金融機関、アンブロジャーノ銀行で異例の出世を遂げ、50代半ばで頭取に就任したロベルト・カルヴィは極端な二面性を持つことで知られていた。

 ひとつはエリート軍人から冷徹で有能なビジネスマンへと転身した「氷の目を持つ男」。

もうひとつは、「この世界は闇の権力によって支配されている」と信じる陰謀論者の顔だった。

●参考:イタリア・フリーメーソンと「陰謀論者ロベルト・カルヴィの運命」

カルヴィがアンブロジャーノ銀行を支配した仕組み

 念願の頭取となったカルヴィの脳裏を支配したのは、「いずれ何者かによってこの銀行を奪われるのではないか」というとてつもない不安だった。いったん「陰謀」の渦中に投げ込まれると、誰ひとり信用できず不吉な出来事を恐れるようになるのだ。

 カルヴィにとって幸運だったのは、アンブロジャーノ銀行に特定の大株主がいなかったことだ。敬虔なカトリック教徒のための金融機関をつくろうとした創業者たちは、株式を公開せず、個人の株式保有比率にも制限を設けていた。誰であれ、株式の15~20%を保有すれば銀行を実質的に支配できたのだ。

 こうしてカルヴィは、秘密裡に銀行の株を買いはじめた。購入するのは系列の銀行や保険会社などで、そのための資金はアンブロジャーノ銀行から融資された。

 しかしこうした国内取引は財務諸表に記載しなければならず、イタリア中央銀行など財務当局から問題視される恐れがある。カルヴィにはもっと守秘性の高い“自社株買い”のスキームが必要だった。

 アンブロジャーノ銀行の取締役時代に、カルヴィはイタリア金融業界の大立者ミケーレ・シンドーナからルクセンブルクの会社を譲り受け、それをバンコ・アンブロジャーノ・ホールディング(BAH)と改称した。BAHの目的はイタリアの金融規制を避けて積極的な投資を行なうことで、ミラノの証券市場で大きな取引をするほか、スイスやアメリカの金融機関の買収にも乗り出した。

 シチリア出身のシンドーナはマフィアと深い関係があり、後の法王パウロ6世の信任を得てバチカンの財務顧問に就任していた。

 カルヴィはシンドーナを通じてバチカン銀行総裁のマリチンクス司教と知り合い、バハマ諸島のナッソーにバンコ・アンブロジャーノ・オーバーシーズ(BAO)を設立する。このBAOの株式の大半はルクセンブルグのBAHが保有していたが、バチカン銀行も株主として出資し、マルチンクス司教は取締役に就任した。

 その後、アメリカでのスキャンダルでシンドーナの金融帝国が崩壊すると、バチカンとの利権はすべてカルヴィに引き継がれた。こうしてカルヴィは、「神の銀行家」と呼ばれることになる。

 カルヴィがアンブロジャーノ銀行を支配するために考えついた方法は、ナッソーのBAOの下に多くの幽霊法人(ペーパーカンパニー)を設立し、その法人を通して株式を購入することだった。

そのための資金は、アンブロジャーノ銀行からルクセンブルクのBAHを通じて貸し付けられた。

 さらにカルヴィは、このスキームにもうひとつの保険をかけておいた。

 オフショアの幽霊法人がアンブロジャーノ銀行の実質的な子(孫)会社なら、こうした取引はあきらかに違法だ。だが法人の所有者が第三者なら、形式的には合法(グレーゾーン)になる。この「第三者」とは、バチカン銀行のことだった。

アンブロージャーノ銀行とバチカン

 カルヴィの辣腕によって「眠ったような田舎銀行」と揶揄されたアンブロジャーノ銀行は、わずか数年のうちにイタリアで最大の民間銀行に成長した。

その成功の陰で、70年代後半から、外貨の不正持ち出しなどの嫌疑で銀行は金融・司法当局の捜査対象になっていた。

 カルヴィは得意の政治工作で捜査から逃れていたが、81年5月、ついに逮捕・拘留される。

 フリーメーソンの秘密結社P2の創設者でフィクサーのリチオ・ジェッリはこのときすでに国外に逃亡しており、P2の会員名簿が新聞に公表されたことで“闇のネットワーク”は崩壊していた。だがカルヴィは、それでも「陰謀」こそが自分の窮地を救ってくれると信じ、近寄ってくる有象無象のフィクサーに大金をばら撒いた。

 カルヴィとバチカンの関係を物語る印象的なエピソードがある。

 裁判を有利にすすめ保釈を勝ち取るべく、フィクサーの一人がカルヴィの息子をニューヨークに連れて行った。

 マンハッタンのアパートに着くと、そこである有名なマフィアのボスと司祭が彼らを待っていた。彼らはカルヴィの息子を国連ビルに案内し、一人の男を紹介した。それはバチカンの国連オブザーバー、ジョヴァンニ・ケーリ大司教だった――もっともケーリは、「沈黙を守り、いかなる秘密も明らかにせず、いつまでも神を信じるようにと(父に)伝えなさい」といっただけだった。

 裏工作がすべて失敗するとカルヴィは拘置所内で大量の睡眠薬を飲み手首を切ったが、この狂言自殺によって、2ヵ月後にようやく保釈を得ることができた。

 頭取が逮捕されるという衝撃的な事態にもかかわらず、アンブロジャーノ銀行の取締役会は満場一致でカルヴィの帰還を歓迎した。カルヴィは銀行の実質的なオーナーで、誰もその権力に逆らえなかったからだ。

 だが拘置所を出て自由の身になったカルヴィは、自身の裁判と同時に、より深刻な問題に悩まされるようになる。銀行の信用が揺らいでいたのだ。

 アンブロジャーノ銀行はイタリア国内では磐石の営業基盤を誇っていたが、海外では無名に等しかった。カルヴィがつくったオフショアの幽霊法人には、ヨーロッパの大手金融機関なども融資を行なっていた。そうした金融機関が、カルヴィの逮捕で返済に不安を持つようになったのだ。

 このときカルヴィは、バチカン銀行総裁のマルチンクス司教に会い、後に大きな論議を巻き起こす「後援状」を発行してもらっている。この書状は、バチカン銀行は11の幽霊会社を「直接または間接に支配している」とし、「(それらの子会社の)負債を承知している」とも書かれていた。

 カルヴィからこの書状を見せられたことで、海外の金融機関は融資の継続に合意した。バチカン銀行が実質的な保証人になっていると信じたからだ。

 82年6月、資金調達のための裏工作に行き詰まったカルヴィは突如失踪する。倒産の危機に瀕した取締会は「後援状」を持ってバチカン銀行を訪ね、銀行を救済するための資金を出してくれるよう頼んだ。

 だがここで取締役会は、驚くべき事実を知ることになる。

 バチカン銀行が彼らに見せたのは、カルヴィが書いた「秘密書簡」だった。そこには、「バチカン銀行は幽霊会社の債務にはなんの責任もない」という免責条項が書かれていた。

 アンブロジャーノ銀行は14億ドルの負債を抱えて倒産し、そのうち海外金融機関の融資総額は4億ドルに上った。バチカンの財政を破綻させるのに十分なリスクを背負うことになるにもかかわらず、マリチンクスはなぜ、カルヴィの求めに応じて「後援状」を書いたのだろうか。

 バチカンはこの取引について、「自分たちは金融に無知でそれを利用された被害者だ」と弁解しているが、その説明を信じるひとはいないだろう。バチカン銀行総裁として君臨したマルチンクスは、後援状の重大な意味を熟知していたからこそ、カルヴィに債務免責の秘密書簡を書かせたのだ。

 この後援状についてのもっとも納得できる説明は、バチカン自身がアンブロジャーノ銀行の真の所有者だった、というものだ。バチカンは幽霊会社を通じて銀行の株式のおよそ16%を保有していた。だからこそマルチンクスは、なんとしても銀行の破綻を避けようとしたのだ。

カルヴィの死の謎

 追い詰められたカルヴィは82年6月、マフィアから偽造パスポートを受け取り(裁判のためパスポートは没収されていた)オーストリア経由でロンドンに渡る。この失踪を手助けしたのは、フラボ・カルボーニというフィクサーだった。

 失踪中のカルヴィは、安ホテルに身を隠しながら、何度か家族に電話をしている。彼らの証言によると、カルヴィは「銀行を救済する重要な取引」がもうすぐ決まり、それですべてが解決するだろうときわめて楽観的だったという。それ以外の関係者の証言からも、カルヴィがなんらかの「取引」のために、偽造パスポートまでつくってロンドンを訪れたのは間違いないようだ。

 だがカルヴィは、ロンドンに着いて3日後の6月18日に、シティに近いブラックフライヤーズ橋で縊死しているのを発見された。

 この事件の直後から、他殺説と自殺説の激しい論争が巻き起こった。

 カルヴィはスーツのポケットに数個のコンクリート塊と煉瓦、それに1万5000ドル相当の現金を入れたまま、工事中の足場から橋げたにロープをかけて首を吊っていた。

 他殺説の信奉者は、カルヴィの旅行カバンから自殺するのにじゅうぶんな量の睡眠薬が発見されており、仮に自ら生命を絶とうと決めたとしても、こんな奇妙な死に方をする理由はないと主張した。

 カルヴィの死体は、足首が川の水にかかる状態で発見された。フリーメーソンの古いしきたりでは、結社の秘密を漏らした者は吊るし首にして、死体を潮の干満に洗わせるという。スーツに入っていたコンクリート塊や煉瓦は、石工を起源とするフリーメーソンの隠喩だという話もまことしやかに囁かれた。

 だが自殺説にも有力な反論がある。

 カルヴィの検死をした著名な医師は、死因は頸部の圧迫による窒息で、他の場所で殺されて現場に運ばれたのではないと断言した。現場の足場はきわめて不安定で、抵抗する人間を抱えてロープに吊るすのは不可能だが、カルヴィの身体からは睡眠薬のような薬物はなにも検出されなかった。

 ロンドンでの最初の裁判では、陪審員は専門家の証言を重視してカルヴィの死因を自殺と判定した。だがその後、自殺説に疑問を呈するさまざまな状況証拠が明らかになったことから、異議申し立てによる再審ではオープン・ヴァーディクト(判定できず)とされた。

死の謎を解く3つの推論

 カルヴィの死の謎を解く最大の鍵は、彼がロンドンで行なおうとしていた起死回生の「取引」にある。

 アンブロジャーノ銀行を救済するには10億ドル近い資金が必要であり、当時、これだけの出資ができる投資家は限られていた。

 投資家候補のひとつは、70年代の石油危機で巨額の利益をあげたアラブの王族だ。しかしこれには、ムスリムの彼らにとってカトリックの銀行を支援することになんの意味があるのか、という疑問がある。

 カルヴィが接触したとされるもうひとつの組織は、カトリックの民間団体オプス・デイだった。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』で一躍有名になったこの“秘密結社”は、ホセマリア・エスクリバーにより1928年にスペインで創設された。

「世俗社会での職業生活を通じて自己完成と聖性を追求する」ことを旨とするオプス・デイは、保守的で富裕なカトリック信者を中心に世界的な組織へと成長した。彼らの悲願は、創設者エスクリバーを列聖することと、たんなる在俗団体から法王に直接進言し、指示を仰ぐことのできる高位聖職者と同等の地位まで組織を格上げすることだった。

 とはいえ、オプス・デイにも倒産しかけているアンブロジャーノ銀行を救済する理由があったかは疑わしい。目標を達成するには、財政難のバチカン(法王)に直接、資金提供した方がはるかに効果的だからだ。事実、82年11月に法王ヨハネ・パウロ2世によってオプス・デイは特別資格を与えられ、2002年にエスクリバーは死後30年という異例の速さで聖人とされた。

 その後の警察の調査で、カルヴィの失踪を手助けしたフィクサーのカルボーニの口座に、アンブロジャーノ銀行から2000万ドルが振り込まれていることがわかった。またカルボーニの通話記録から、このあとさらに5000万ドルが振り込まれる予定だと述べていたことも確認された。

 2000万ドルというのは当時の為替レート(1ドル≒220円)で44億円で、物価水準を考えればとてつもない大金だ。これは「取引」のための前金と考えられているが、それが誰の手に渡ったのかカルボーニは一貫して供述を拒否している。唯一確かなのは、その「取引」が失敗したことだ。

 カルヴィの死の謎はいまだ闇のなかにあるが、ここから3つの可能性が考えられる。

 ひとつは、「取引」は実際に進行していたがなんらかの理由で頓挫してしまったという可能性で、カルヴィは絶望して自死を選んだのかもしれない。

 もうひとつは「取引」が最初から詐欺だった場合で、騙されていたとわかったときの衝撃が自殺の原因になったとしても不思議はない。

 だがカルヴィの性格を考えると、騙されたまま泣き寝入りするより2000万ドルを取り戻そうとするにちがいない。このとき、大金を受け取った人間はカルヴィを殺してすべてを闇に葬るじゅうぶんな動機を持つことになる。

 もちろんこれ以外にも、カルヴィの死にはこれまでさまざまな解釈が現われては消えている。マフィアやフリーメーソン(P2)以外に、CIAやKGBの名前があがったこともある。

 カルヴィの長男は、父の証言などから最後の取引相手はバチカンだったと強く主張している。カルヴィは、これまでの秘密をすべて暴露すると脅してバチカンに銀行破綻の責任を取らせようとしていた。そのため、「取引」と称してロンドンに呼び出され殺されたのだという。

 「陰謀論」によって目くるめくような成功を収めた銀行家は、「陰謀論」に囚われて破滅することになった。その死因をめぐる争いは今後も決着がつかないだろうが、だからこそいまでもひとびとの想像力をかきたてて止まないのだ。

<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。