うちの実家にかなり年季の入ったどんぶりがある。親の話によれば、大阪万博(日本万国博覧会)のあとに安売りされていたものだという。
大阪万博の開催は1970年だから、もう45年もわが家で使われていることになる。どんぶりが万博にちなんでつくられたものであることは、桜の花をかたどった万博のシンボルマークが入っていることからもあきらかだ。

大阪万博のシンボルマークが決まるまでには、ひと騒動があったという。このときシンボルマークはグラフィックデザイナー15名と2団体を指名してのコンペで選定され、一旦は西島伊三雄のデザイン案に決定した。それは、上部に一つの円、下部には左右二つの円がくっついて配置されているというものだった。下の二つの円は、東西世界や対立する人間同士が手を取り合う様子を示し、そこから生まれる次世代の平和な世界を上部の円で表現したという。
「人類の進歩と調和」という大阪万博のテーマを踏まえたものであり、また上部の円には、日本で開かれることの意義を示す日の丸という意味も込められていた。

だが、これに日本万国博覧会協会の会長・石坂泰三から横槍が入る。石坂は東芝社長などを歴任し、さらに経団連会長を12年にわたって務め「財界総理」などと呼ばれた人物だ。石坂の言い分は「上の円が日の丸に見え、日本が威張っているとの批判を受けるかもしれない」「インテリだけがわかるようなものではだめで、大衆性がないといけない」というものだった。

結局、石坂の強い反対から万博シンボルマークは再度コンペを行なって、あらためて決めることになった。このとき選ばれたのが、大高猛による桜の花をモチーフ(5つの花びらで五大陸を、中央の円で日の丸=日本を表現)とした例のマークだ。


シンボルマークの選考の経緯をめぐる紆余曲折はメディアでも大きく取り沙汰され、デザイン界からは審査委員に対する批判があがった。このとき審査にあたったのは亀倉雄策など日本を代表するデザイナーたちであったが、彼らが専門家として毅然とした態度をとれなかったことが問題視されたのだ。

ともあれ、桜のシンボルマークが石坂泰三の注文どおり抜群の大衆性を持っていたことは間違いない。その生みの親である大高猛は大阪を拠点としたデザイナーで、万博開催の翌71年に日清食品から発売されたカップヌードルのパッケージデザインも手がけた。一方、幻に消えたシンボルマークを提出した西島伊三雄は福岡を拠点に活躍した。ハウス食品工業が1979年に発売した博多ラーメン「うまかっちゃん」は、西島がパッケージのデザイン、イラストばかりかそのネーミングまで発案したものである(その経緯についてはこのサイトにくわしい)。


シンボルマークをはじめ、大阪万博をデザインに焦点を絞り振り返った展覧会「大阪万博1970 デザインプロジェクト」が現在、東京国立近代美術館で開催中である(会期は5月17日(日)まで)。会場は小規模ながら、多種多様な関連資料や作品が展示され、当時のデザイナーたちの試行錯誤や、万博がいかに日本のデザインにエポックをもたらしたかがよくわかる構成となっている。

■大阪万博と横尾忠則
1965年に大阪での万博開催が決まると、その前年の東京オリンピックのときと同様、大御所から新進気鋭まで当時の日本のデザイナー、それに関連する分野のクリエイターたちが結集された。前出のシンボルマークとセットで使用されることも多かった「日本万国博覧会」のロゴデザインは、関西デザイン界の重鎮・早川良雄が手がけている。

開催を告知するポスターでは、東京オリンピックのポスターを制作した亀倉雄策と写真家の早崎治が再びタッグを組み、日本各地の祭りをモチーフにした一作を手がけたほか、当時の若手では石岡瑛子がコンピュータグラフィックを用いたポスターを作成している。

万博の告知のため広報誌も毎月発行され、表紙や誌面を真鍋博や和田誠、横尾忠則など当時の人気イラストレーターによる作品が飾った。
このうち横尾は万博パビリオンのひとつ「せんい館」の造形ディレクターも務めた。全体を真っ赤に塗ったドームに、工事現場の足場をそのまま残したパビリオンの様子は、当時の写真をいま見ても鮮烈だ。今回の展覧会では、せんい館内に置かれた山高帽の男の人形「ルネ・マグリットの男」(四谷シモン作)が出展されているほか、ドーム内いっぱいに松本俊夫の映像作品が映し出される様子(音楽を担当したのは秋山邦彦と湯浅譲二)を記録した動画も見られる。

万博開催当時は、日本各地で大学紛争が起き、ベトナム反戦運動など若い世代による反体制運動が盛んに行なわれていた。また既存の価値観を覆すような前衛的、実験的な文化が台頭したのもこの時代だ。横尾忠則もその中心にあった人物の一人で、学生運動を闘う若者たちに熱狂的に支持され、またアングラ演劇を代表する劇団「天井桟敷」に結成メンバーとして参加、舞台美術や公演ポスターも手がけている。


国家が主催する万博に対して批判的な美術家や評論家も少なくなかった。横尾もどちらかといえば「反博」の立場にあり、せんい館の仕事が舞いこんだときには、思想的には万博に反対しながらも、クリエイターとして創造したいという本能に逆らうことはできず結局引き受けることにしたという。

同様の葛藤を抱きながら万博に参加したクリエイターは横尾ばかりではない。今回の展覧会には反万博を訴える当時の雑誌もいくつか展示されているが、そのなかには、大阪万博でテーマ館の展示などに携わったグラフィックデザイナーの粟津潔が表紙イラストを描いたものも見られる。粟津と同じくテーマ館の展示にかかわったグラフィックデザイナーの木村恒久もこのころ、大阪万博のシンボル的存在である「太陽の塔」が大爆発するさまを描いたフォトモンタージュ作品を発表している(作品集『キムラカメラ』所収)。木村の場合、万博では大きなトラブルに遭遇しているだけに、よけいに強いジレンマを覚えたことだろう。


木村がテーマ館で手がけたのは、「矛盾の壁」と題する「戦争」「破壊」「平和」をテーマとしたフォトモンタージュである。しかし、そこでとりあげられたキノコ雲や、戦争で破壊された瓦礫に横たわる人間の足といったモチーフに対し、主催者側から「表現が生々しすぎ悲惨すぎる」とのクレームがついた。最終的にこの作品は、赤や青の色彩を強調し、悲惨さをぼかした表現に変更して展示されている(今回の展覧会に出品されているのは、オリジナルのモノクロのもの)。

大阪万博はそのような衝突を含めて、この時代の状況を如実に反映していたといえる。そのなかにあって、自分のつくった「太陽の塔」こそ一番の反博だと言ってはばからなかったのが画家の岡本太郎である。何しろ、それは予定調和を拒んで、建築家・丹下健三設計の「お祭り広場」の大屋根を突き破る形で設置されたからだ。彼は万博の「人類の進歩と調和」というテーマに真っ向から挑戦したのである。

■建築、ファッション、街路設備……万博における様々なるデザイン
万博会場には、岡本太郎の「太陽の塔」や横尾忠則のせんい館以外にも、菊竹清訓や黒川紀章など一群の建築家たちの手がける未来的なデザインが立ち並んだ。各パビリオンのコンパニオン(当時はホステスと呼ばれた)の衣装でも、森英恵やコシノジュンコなど気鋭のファッションデザイナーたちが腕をふるった。

万博のデザインはそうした作家性の色濃いものばかりではない。たとえば、ストリート・ファニチャーと呼ばれる街路設備――道路標識やサイン、街灯、電話スタンド、さらにはトイレやゴミ箱などといったあらゆる設備のデザイン。大阪万博ではこれをインダストリアルデザイナーの榮久庵憲司(今年2月に死去)を中心に、彼が代表を務めるGKインダストリアルデザイン研究所(現・GKデザイン機構)のほか剣持勇デザイン研究所とトータルデザインアソシエーツが担った。このとき、榮久庵は丹下健三から「君は、トイレやゴミ箱で万博をやりたいのかね」と冗談めかして言われたという。数多くの都市計画を手がけてきた建築界の巨匠でさえ、街路の設備をトータルしてデザインすることについてはその程度の認識だったのである。

榮久庵とGKインダストリアルデザイン研究所は、大阪万博では会場交通であるモノレール(現在の万博記念公園へのアクセス路線である大阪モノレールとは別物)のデザインも手がけている。今回の展覧会ではモノレールのデザイン案を示したスケッチなども見ることができる。

GKはその後、筑波研究学園都市のサイン計画など恒久的な都市デザインの分野でもさまざまな仕事を残した。鉄道車両についても横浜市営地下鉄やJR東日本の成田エクスプレスなどのデザインを手がけている。彼らにかぎらず、万博に参加したデザイナーの多くはこのときの体験を生かして、それぞれの分野でデザインを追求していった。万博の遺産はさまざまな形をとりながら、私たちの日常風景のなかでいまもなお生きているのだ。

東京国立近代美術館では現在、「大阪万博1970 デザインプロジェクト」とともに「生誕110年 片岡球子展」が開催中だ(会期は5月17日まで)。ミュージアムショップでは、復刻された大阪万博のポスターや万博会場の案内図など万博グッズも色々と販売されている。ついでにいえば、同美術館に隣接する国立公文書館では目下、「JFK――その生涯と遺産」と題し、アメリカのケネディ元大統領の生涯や日本との関係を紹介する展覧会が開かれている(会期は5月10日まで)。私が行ったときは、平日にもかかわらず大勢の人が詰めかけており、ケネディ人気の根強さをうかがわせた。
(近藤正高)