この4~6月期のテレビドラマは「トットてれび」「重版出来!」など各局、目の離せなかった作品が多く、豊作の感があった。去る6月19日に最終回を迎えた「ゆとりですがなにか」(日本テレビ系、日曜よる10時30分~)も今期の傑作のひとつだと思う。
本放送の視聴率はそんなに高くはなかったようだが、一方で動画配信サービス「Hulu」の週間ランキングで7週連続で首位をキープするなど、じっくり見たい視聴者がこのドラマを支持してきたことがうかがえる。
「ゆとりですがなにか」は2016年の「ふぞろいの林檎たち」なのか
KAWADE夢ムック『総特集 山田太一』(河出書房新社)には、宮藤官九郎はじめフォロワーたちがエッセイを寄せている。宮藤の新作「ゆとりですがなにか」にも山田作品からの影響が…?

「ゆとりですがなにか」については毎回、釣木文恵さんが当エキレビでレビューしてきたが、私もこの作品については語りたいことがたくさんある。そこで、本記事では、いくつかトピックスをあげながら、このドラマを振り返ってみたい。

宮藤官九郎が非コメディに初挑戦


「ゆとりですがなにか」の脚本は宮藤官九郎だ。宮藤は、朝ドラ「あまちゃん」(2013年)を含めコメディタッチのドラマで定評がある。しかし「ゆとり」は、宮藤としては最初からコメディではないと言い聞かせて書いており、たとえコメディ要素はあったとしても、あくまで“社会派ドラマ”との位置づけだと語っていた(「ORICON STYLE」2016年4月15日付)。

たしかに、これまでの宮藤作品ではおなじみだった小ネタも、「ゆとり」ではほとんど見られなかった。
その代わり、ドラマでとりあげられた社会問題は枚挙にいとまがない。思いつくままにあげていくだけでも、企業でのパワハラ、若者の自殺、学習障害、食品管理の問題、就職難、在日外国人の就労・結婚の問題などなど。さらにそこへ登場人物の個々の悩み……家業の継承、肉親との対立、不倫、恋愛などもからんでくる。よくぞこれだけのテーマを物語に盛りこみ、破綻させずにまとめあげたものだと感服させられた。本作が宮藤にとって新境地であり、ひとつのエポックとなったことは間違いない。

会社勤めの経験のない宮藤は、実際に“ゆとり世代”に取材もしたという(前掲、「ORICON STYLE」)。
会社をやめるかやめないか、結婚するかしないかなど悩みを抱えた女性キャラクターをちゃんと描くのも、これが初めてだったとか(「スポニチ」2016年5月29日付)。これは安藤サクラ演じる宮下茜のことだ。茜はバリバリのキャリアウーマンだったが、ドラマの後半、本作の主人公のひとりで会社の同僚の坂間正和(岡田将生)との結婚を決め、父親との約束を守ってあっさり会社をやめてしまう。

結婚しながら仕事を続けるという選択肢もあったはずだが、宮藤はそうは描かなかった。これについてはやや違和感も抱いたが、しかしその後、茜はその後、一緒に会社をやめた正和とともに、彼の実家の造り酒屋の経営で手腕を発揮し始め、見方が変わった。この展開は、仕事か家庭かといった単なる二者択一に終わらせたくないと、宮藤が考えに考えた末の結論だったのではないか。


山田太一へのオマージュ?


さて、「ゆとり」を見ていて私は、往年の「想い出づくり。」(1981年)や「ふぞろいの林檎たち」(1983年)など山田太一脚本の青春ドラマへのオマージュを見出さずにはいられなかった。それだけに、最終回前の第9話で、「想い出づくり。」の主演のひとりだった古手川祐子が、道上まりぶ(柳楽優弥)の母親役で登場したのには驚いた。

「想い出づくり。」も「ふぞろいの林檎たち」も若者3人を軸にしたドラマだった。「ゆとり」もこの形を踏襲している。とくに「ふぞろい」の人物設定は、「ゆとり」のそれにかなり影響を与えているのではないか。

たとえば、「ふぞろい」は中井貴一・時任三郎・柳沢慎吾が演じる三流大学の学生3人組が主人公だった。「ゆとり」の主人公も、正和・まりぶ・山路一豊(松坂桃李)の同年代の男3人だ。
このうち二人は東京出身、もうひとりが地方出身という設定も、「ふぞろい」と共通する。

さらに「ふぞろい」において中井貴一の実家は酒屋で、父親が死んでからというもの兄(既婚)が店を継いでいる。おとなしい兄に対し母親は気丈だ。酒屋を造り酒屋にすれば、その家族構成はそっくり「ゆとり」の正和の家と重なる。ついでにいえば、女性に対して奥手という中井貴一のキャラクターは、「ゆとり」の山路に引き継がれているように思われる。

山田作品と「ゆとり」の共通性は、そうした設定ばかりではない。
先にあげたように、「ゆとり」には現代社会の抱える多くの問題が盛りこまれていたわけだが、ドラマはそれらを真っ向からとりあげて警鐘を鳴らすというよりは、あくまで物語のなかで登場人物たちの言動、やりとりのなかから問題を浮かび上がらせるという形をとっていた。だから厳密にいえば、社会派というのはちょっと違うような気もするのだが。ともあれ、そうした社会問題のとりあげ方は山田太一のドラマにも共通するように思う。

世代間で価値観の違いがあるようなないような時代のなかで


ただ、山田太一が「想い出づくり。」や「ふぞろいの林檎たち」を書いた時代から、大きく変わってしまったことももちろんある。もっとも大きな変化は、世代間で考え方や価値観の違いがあまりなくなってしまったことではないか。

「想い出づくり。」では、地元の役所勤めをやめて東京に出たいという古手川祐子に対し、児玉清演じる父親が猛反対し(父自身は東京の有名私大出と、この世代にしては少数派のインテリにもかかわらず)、ちゃぶ台をひっくり返すなど、親子の考えの食い違いがはっきりと描かれていた。
あるいは、同時期の山田のいまひとつの代表作である「男たちの旅路」シリーズ(1976~82年)では、警備会社を舞台に、元特攻隊員という鶴田浩二演じる戦中派の司令補と、戦後生まれの水谷豊や桃井かおりら若手警備員との世代間対立そのものが大きなテーマとなっていた。

戦争を体験した世代とそうでない世代の価値観の落差を思えば、いまの50代と30代・20代のあいだで価値観の違いというのはあまりないはずだ。それゆえ世代間対立もじつはあるようでないともいえる。

その意味で印象的だったのは、「ゆとり」第9話においてまりぶが実父・麻生巌(吉田鋼太郎)とおそらく生まれて初めて真正面から対峙した場面だ。逆上するあまり思わず二人とも机の上に乗って取っ組み合うさまは、傍から見れば芝居じみていて滑稽だった。だが、現代の親子というのは、父と子をいわば芝居のように演じてみないことには、真正面からぶつかり合うことはできないのかもしれない。

価値観ということでいえば、むしろ上の世代よりも、同世代であるまりぶと正和・山路のほうがその違いは大きかった。また、同じゆとり世代とはいえ、正和とその6歳下の会社の後輩である山岸(太賀)のあいだでは何度となくトラブルが生じた。こうして振り返ると「ゆとり」は、主人公たちが年上・年下・同世代と、まったく考え方の異なる者同士でつきあうなかで、おのおの変わっていくという物語だったともいえる。

「ゆとり」は特定の世代に焦点を絞ったドラマだけに、登場人物のその後が気になる視聴者も少なくないだろう。宮藤官九郎は、「スポニチ」2016年5月29日付のインタビューで続編の予定を訊かれ、《続けてすぐにやっていいならやりますけど、時間が空いたらやらないかな(笑い)》と答える一方で、《このドラマは自分の中で終わらなかった感じがあって、往生際悪くズルズル続けてもいい気がします。来年とか再来年とかではなく10年後とかにやりたいですね》とも語っていた。今後、何年かごとに、定点観測のように放送されるとなれば面白そうだ。山田太一の「ふぞろいの林檎たち」も、倉本聰の「北の国から」も、まさにそのようにシリーズ化されたおかげで、根強いファンを獲得するにいたった。

ところで、「ゆとりですがなにか」の最終回では、結婚式から逃げ出した正和が、まりぶから目隠しをされて式場に連れ戻されるという場面があった。それを見ていたらふと、このドラマの時間帯がかつて90年代に「進め!電波少年」が放送されていた枠であることを思い出した。「目隠しして連行」というくだんの場面は、ひょっとすると「電波少年」へのオマージュであったのか。いや、それはさすがに深読みにすぎるか。
(近藤正高)