いまから40年前の1978年5月24日、落語家の三遊亭円生、橘家円蔵(7代目)、古今亭志ん朝、三遊亭円楽(先代)、月の家円鏡(のちの8代目円蔵)らが東京の赤坂プリンスホテルで記者会見を行ない、所属していた落語協会を脱退し、新たに「落語三遊協会」を旗揚げすることを発表した。

事の発端はその約2週間前の5月8日に行なわれた落語協会の定例理事会だった。
この日、理事会には、協会長の柳家小さん(先代)、顧問の円生と林家正蔵(先代。のちの林家彦六)、常任理事の三遊亭円歌、三遊亭金馬、春風亭柳朝、理事の円蔵、蝶花楼馬楽、金原亭馬生、林家三平、柳家小せん(円蔵以下、いずれも先代)、柳家さん助、志ん朝、円楽、立川談志、円鏡が出席。この日の議題は真打昇進問題だった。
『師匠、御乱心!』で始まった落語協会分裂騒動から40年。先代円楽は談志は志ん朝はどう動いたのか
32年ぶりに復刊された三遊亭円丈の問題の書『師匠、御乱心!』(小学館文庫)

真打昇進問題から脱退騒動へ


真打とは落語家が前座、二つ目を経て昇進できる最高の資格である(ただし現在、上方落語界にはこの制度はなく、東京落語界のみに存在する)。しかし昭和30年代以来のテレビの演芸ブームをきっかけに落語協会所属の落語家たちに入門者が殺到し、寄席の楽屋には、師匠や先輩を世話する前座が入りきらないまでになる。二つ目も飽和状態となり、従来どおり毎年春と秋の2回、単独かせいぜい二人ずつ真打に昇進させていたのでは、40代、50代になっても真打になれない落語家が続出しそうな異常事態になっていた。そこで落語協会は1972年、翌年の春と秋に10人ずつまとめて真打に昇進させる。


これを主導したのは、その前年、円生から会長を禅譲された小さんだが、顧問となっていた円生が異を唱える。「真打とはトリを取れる実力者だけがなるべきで、1年で20人も昇進させるのは真打の粗製乱造である」というのがその言い分だった。

結局、このときは円生が小さんに譲る格好となったが、両者のあいだにはわだかまりが残った。そして6年後の理事会で、真打昇進問題が再燃したのである。このときも10人の真打昇進が多数決で可決された。これに対し、円生は常任理事3名を更迭し、代わりに円楽、談志、志ん朝の3名をヒラの理事から昇格させて、大量真打の白紙撤回を求める議案を提出するも否決される。


主張が聞き入れられなかった円生は、ついに落語協会を脱退する決意を固めた。作家・吉川潮の『戦後落語史』(新潮新書)によれば、当初、円生は弟子たちは協会に残して、自分だけフリーになればいいと考えていたというが、その後、弟子の円楽のほか、円生の意見に同調した志ん朝などが加わり、新団体の結成に向け動き出す。結論から先にいえば、この新団体は旗揚げの発表からまもなくして幻に終わるのだが……。

落語協会分裂騒動については、円生の弟子の三遊亭円丈が1986年に『御乱心』と題して、このとき一門内でどんなことが起きていたのか赤裸々につづって落語界に波紋を呼んだ。それが騒動から40年を迎えるのを前に、『師匠、御乱心!』と改題の上、小学館文庫より復刊された。文庫版の巻末には、著者の円丈と、騒動を経て結果的に円丈たちと袂を分かった先代円楽の弟子である現在の6代目円楽(騒動当時、三遊亭楽太郎)と、騒動とは関係のなかった落語芸術協会の所属ながら、円生にはかつて弟子入り志願して断られた因縁がある三遊亭小遊三による鼎談が収録されている。


鼎談中に円楽が、《[引用者注――『師匠、御乱心!』の]まえがきに、ここに書かれている九十五%は事実だってあるけど、これもそっちからの事実だから、こっちから見るとまた別の事実があるかもしれないよね。そこはちゃんと言っておきたい》と話しているように、この騒動については当事者がそれぞれの立場から語っており、けっして一様ではない。この記事ではいくつかの資料にあたりながら、騒動をめぐる人間模様をちょっと再現してみようと思う。

『師匠、御乱心!』そのとき弟子たちは


円生が落語協会を脱退するという話は、彼の大半の弟子たちにはまったく寝耳の水だった。『師匠、御乱心!』によれば、円生はこのとき、弟子たちを家に集めると、自分は一人で落語協会をやめるので、おまえたちは円楽の預かり弟子として協会に残ってほしいと伝えた。あまりに唐突なうえ、円丈をはじめ円生一門の多くは円楽を嫌っていたことから、これに不満を覚えたという。しかし師匠に逆らうわけにはいかず、弟子たちは自らの去就に悩むこととなった。


それからしばらくして、彼らは衝撃の事実を知る。何と、円生は協会を脱退して、新団体を結成するべく動いているという。そのことは一門では円楽ほか数名を除き知らされていなかった。先だっての円楽の預かり弟子になれという話も、自分たちの忠誠心を試してのことだったのではないか。円丈たちは師匠への不信感を募らせる。

このとき円丈の兄弟子のさん生が、たまらず円生宅に駆けつけると、そこに居合わせた円楽から構想の全貌を聞かされる。
この時点で、都内の寄席では落語協会と芸術協会が二分して公演してきたところを、新団体が割り込んで三分割とすることが決まり、出演メンバーとして談志、志ん朝、円蔵、円鏡の各一門の落語家たちのほか、漫才の春日三球・照代や奇術の伊藤一葉など色物の芸人にも声をかけていた。

ここまで話が具体化しながら、まったく聞かされていなかったことにすっかり嫌気が刺したさん生は考えた末、円生にはついていかない決心を固める。同じく、以前より円生に冷遇されていた三遊亭好生ともども一門を離れ、落語協会に残った。彼らはしばらくは円生につけてもらった高座名を使い続けたが、このあと新団体の構想が頓挫すると、円生は名前を取りあげて破門を宣告、さん生は川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)、好生は春風亭一柳と改名している。

一方、円丈ら多くの弟子は円生や円楽とともに新団体に組み入れられ、先述のとおり5月24日には落語三遊協会の設立が発表された。これに対し、落語協の小さん会長以下、幹部連はもとより、新団体ができれば割りを食うことになる芸術協会もさっそく受けて立つ構えを見せる。
会見の模様がテレビ中継もされたこともあり、脱退騒動はたちまち世間の注目を集めることになった。

仕掛け人は立川談志?


そもそも新団体の結成を円生に勧めたのは誰なのか。そこで名前があがるのが立川談志だ。当事者の一人である先代の円楽は、次のように語っている。

《折しも談志がうちの師匠に、
「この際、こういうメンバーを集めて、新しくこういう落語協会を作ったら、師匠の名前がいっそう輝きますよ」って薦めたらしいんですよ。
 それを聞いて、うちの師匠は「ああ、これだ」ってその気になっちゃったんですね》(三遊亭圓楽『圓楽 芸談 しゃれ噺』白夜書房)

円楽によれば、円生が新団体をつくると言い出したことに驚き、止めもしたが、どうしてもやると聞かなかったという。いっぺん協会を出たら二度と戻れない、それどころかこれまでの師匠の名声もすべてふいになると説得しても、「かまわない」と言うので、それで円楽も腹をくくったという。

ただし、これについては円楽から談志に持ちかけたという説もある。前出の『戦後落語史』によれば、円生一人をやめさせるわけにはいかないと考えた円楽は、ただちに談志と志ん朝に円生の決意を伝えたという。談志はかねてから落語協会と芸術協会に続く新団体をつくって寄席を3団体で回す「三分割構想」を唱えていた。これに賛同していた円楽は、円生の脱会はまたとない機会ととらえたのである。

談志は小さんの弟子で、大量真打の問題では師匠を援護していた。しかし円生が脱会すると伝えられると、《あたしは小さん師匠を潰すことが目的じゃない、自分の意見を反映させて、いろんな試みもできるだろう、ひいては落語界のためになるだろうと、新天地というと大げさかもしれませんが、円生師匠にくっついた》という(立川談志『人生、成り行き 談志一代記』新潮社)。それとともに円楽と志ん朝には「三人は離れるべきではない」と約束させた。志ん朝は円生の芸に心酔しており、真打問題でも円生に同調していた。

しかしその後、談志は途中でこの話から降りてしまう。それは、円生が新団体の次期会長の意味合いもあるナンバー2に志ん朝を指名したためだ。これに対し、元参院議員でもあり、リーダーシップや政治力を備えた自分こそリーダーにふさわしいと思っていた談志は、志ん朝にその座を譲るよう迫るも、断られてしまう。談志としてみれば、後輩の志ん朝に真打昇進で先を越された過去もあり、今度もまた彼の下になってしまうのはプライドが許さなかった。こうして談志は、《俺がいなくて三月(みつき)ももてばおなぐさみだ》と言い放つと、一抜けしたのである(『戦後落語史』)。

席亭会議で新団体は幻に


こうして談志を抜きに落語三遊協会の結成が発表される。だが、その翌日、5月25日に新宿、上野、浅草、池袋の各寄席の席亭が集まって会議が開かれ、新団体は受け入れないと決定、話は3カ月どころか2日も持たずに暗礁に乗り上げてしまう。

席亭会議は、新宿末広亭の名物席亭・北村銀太郎の鶴の一声で決したという。これについて三遊亭円丈は、円生や円楽たちの根回しの甘さを指摘する。また、北村がのちに語ったところによれば、当初は三分割構想をこれはこれで面白いと思ったものの、メンバーの底の薄さ、とくに色物が手薄なことが気になったという。そこを芸術協会から呼ぶなり、上方から連れてくるなりして補えばよかったものを、《円生さんが自腹を切らないんぢや仕様がねえよ》と、北村は了承しなかったのだ(冨田均『聞書き・寄席末広亭』少年社)。

新団体を旗揚げしても寄席に出られないのであれば意味がない。結局、円蔵、志ん朝、円鏡らは落語協会に詫びを入れて復帰するにいたる。このとき協会側は彼らに処分を下そうとしたが、先の北村が、協会にも落ち度はあったのだからここは共同責任という形でまるく収めるよう進言したため、ペナルティが課されることはなかった。寄席はそれほどまでに落語家たちに力を持っていたのである。

円生も志ん朝たちから復帰を勧められたが、いまは芸より面子が大事だと頑なに拒む。落語三遊協会は円生一門だけで旗揚げされ、寄席には出演できないので、地方公演を中心に活動することになった。

『師匠、御乱心!』によれば、このとき、円生は弟子たちに落語協会に戻りたい者は戻ればいいと言いながら、実際に円丈が戻りたいと申し出ると、夫人とともに恩知らずと罵倒して圧力をかけたという。これにより円丈の師匠・円生に対する信頼は崩れ去る。

志ん朝もまたこの騒動で大きなダメージを受けた。協会に復帰直後、約束を破った談志に対し、寄席に居合わせたところを問い詰めたことがあったという。もっとも、この件で志ん朝が談志に文句を言ったのはこの一度かぎりで、二人が訣別することはなかった。当時、談志に付いていた弟子の立川談之助はこれについて《やはり何のかんの言っても落語という共通部分でこの両者は認め合っていたのだろう》書いている(立川談之助『立川流騒動記』ぶんがく社)。それでも志ん朝の弟子や夫人には、その後も談志に対し不満が残った。志ん朝の晩年、談志との二人会の話が持ち上がったときには、夫人は強く反対したという(志ん朝一門『よってたかって古今亭志ん朝』文藝春秋)。

なお、談志はその後、1983年に落語協会の行なった真打昇進試験で自分の弟子が落とされたことをきっかけに協会を脱退、「落語立川流」を旗揚げしている。

円生、死す。残された者たちのその後


落語協会をやめて独立した円生は、寄席に出られない分、よそで稼がなくてはならなくなり、地方から地方へと多忙な日々を送ることになった。地方公演に同行した円丈は、円生の芸が苦境をバネに一段と輝きを増すさまを目の当たりにする。だが、手帳をびっしり埋め尽くしたスケジュールは、老齢の円生にはあまりに過酷だった。翌79年9月3日、彼は79歳の誕生日を迎えたその日、千葉での公演直後、急死する。円生の死後、その弟子たちは円生夫人の口利きで落語協会に復帰、再び寄席に出られるようになった。

一方で、円楽は落語三遊協会の頓挫以来、円生から遠ざかるようになったという。このことが円生夫妻の不信を買い、円生の死後、円楽は夫人の一存で三遊協会の名を使うことが許されず、円楽党として地方巡業を続けることを余儀なくされた。のち1985年に円楽は自費を投じて若竹という寄席を建てるが、わずか4年で閉鎖、莫大な借金を抱えることになる。

5代目円楽は2009年に死去。その名は翌年、弟子の楽太郎が6代目襲名することになった。円楽は旧円生一門の円丈たちと「三遊ゆきどけの会」を開き、一緒に高座に上がるようになり、昨年には落語芸術協会に「客員」として加入、寄席にも復帰した。『師匠、御乱心!』の鼎談で円楽は《協会の中には何だかんだ言う奴がいまだにいるんだよ、少しだけど》と不満を漏らしつつ、《変な枠は壊した方がいいよ》と未来志向の考え方を示している。

円生も、先代の円楽も、談志も、騒動により人間関係にしこりを残したとはいえ、それでも落語界の活性化に彼らが果たした役割はやはり大きい。その彼らはすでに亡くなり、騒動は過去のできごとになりつつある。だが、ここにいたるまで40年近い歳月を要したことに、人間の感情の複雑さを感じずにはいられない。
(近藤正高)