NHK総合の土曜ドラマ「植木等とのぼせもん」(夜8時15分~)が、先週9月2日よりスタートした。その冒頭では、ドラマの主人公である小松政夫本人が、持ちネタの淀川長治のモノマネで前説。
昨年、同じ枠で放送された「トットてれび」の黒柳徹子に続いてのご本人登場だが、ファンにはやはりうれしい。
「植木等とのぼせもん」第1回 植木等を演じる山本耕史の声に驚いた
ドラマの原案となる小松政夫『のぼせもんやけん』(竹書房)には、小松が自動車のセールスマンだった時代の話がつづられている。後年の小松のギャグには、「ど~かひとつ!」など、セールスマン時代の同僚や上司の言葉から生まれたものも多いとか。植木等の付き人時代については、続編の『のぼせもんやけん2』にくわしい。

ドラマのもうひとりの主人公・植木等を演じるのは山本耕史。本人の風貌とは似ても似つかないと思ったが、山本が最初のシーンでセリフを発した瞬間、植木の声によく似せているのに驚いた。

このほか、当時の映画の色合いが再現されるなど、細かいところにもスタッフの工夫がうかがえた。日本テレビの往年の人気バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」をNHKで再現したというのも快挙だろう(すでに「トットてれび」で「徹子の部屋」を再現した前例があるとはいえ)。

ちなみに「シャボン玉ホリデー」は1961年の放送開始時よりカラー放送だったという(日本でカラーテレビの本放送が始まった翌年だ)。
そのせいか、ドラマで再現されたクレージーキャッツのスーツも、スタジオのセットもカラフルで、じつに鮮やかだ。もっとも、当時はまだ白黒テレビがやっと普及し始めたばかりで、実際にカラーテレビで『シャボン玉ホリデー』を見ていた人は少なかっただろう。現存する数少ない同番組の映像もほとんどがモノクロだし、その意味でも、今回の再現はなかなかに貴重といえる。

多忙をきわめた植木等をテンポよく描く


さて、あらためて第1回を振り返ると、とにかく物語の進むテンポが速かった。このスピード感が、そのまま高度成長期の植木等のめまぐるしい活躍ぶりを示している。

最初のシーンでは、植木等が今度出る自分のレコード「スーダラ節」の歌詞があまりにふざけていると、父・徹誠(てつじょう。伊東四朗)にぼやくと、父は「わかっちゃいるけどやめられない」という詞は親鸞聖人の教えに通じると妙な感心をしてみせる。


そこから、「スーダラ節」の大ヒット、さらに植木主演の映画「ニッポン無責任時代」の企画から撮影、公開後のヒットまでが一気に描かれる(撮影シーンでは、監督の古澤憲吾の熱の入れようを勝村政信が好演していた)。クレージーキャッツの出演する「シャボン玉ホリデー」も大人気で、植木は働き通し。睡眠も撮影のあいまや移動中にやっととれるというありさまだ。多忙をきわめた末、植木はとうとう過労で肝臓をやられ倒れてしまう。どうにか回復して病院を退院することになったとき、植木の付き人兼運転手として現われたのが博多出身の松崎雅臣青年(志尊淳)、のちの小松政夫だった――。

理容室の看板娘にもモデルが?


松崎青年は、植木等と対面する前に、経堂(きょうどう)の植木邸近くの理髪店に入る。そこで髪を切ってくれた女の子(武田玲奈)に一目惚れ。
この彼女、鎌田みよ子にもモデルがいるらしい。

今回のドラマの原案である小松政夫の自伝『のぼせもんやけん』(竹書房)には、小松が横浜で自動車のセールスマンをやっていたころ、髪型をリーゼントにするため入った理容室で、「ミヨちゃん」という女の子に出会った話が出てくる。小松はそれから髪をセットするため、毎朝その店に通い詰めたのだが、本当の目的はミヨちゃんと会うためだったらしい。

そのミヨちゃんは大の石原裕次郎ファンだった。彼女と会うのを楽しみにしていた小松にとって、裕次郎の話をされるのが唯一いやだったとか。ドラマでは、松崎青年がきょうから植木等の付き人になると話すと、みよ子が「私、裕次郎も好きだけど、植木等も好きなの」と言うシーンがあったが、これは実在のミヨちゃんの話を踏まえてだろう。
余談ながら、先ごろ亡くなった平尾昌晃(当時・昌章)が自作自演し、のちにはクレージーの後輩であるドリフターズもカバーした歌謡曲「ミヨチャン」がリリースされたのは1960年、小松が高校を卒業して博多から上京した年である。

上京後、職を転々とした小松は、1962年、横浜トヨペットのセールスマンとなる(ちょうど前出の植木主演の映画「ニッポン無責任時代」が公開された年だ)。根っからの「のぼせもん」(博多弁で熱中しやすい人間のこと)ゆえ、セールスにも熱を入れた彼は、口八丁手八丁で車を売りまくり、やがて月10万円以上も稼ぎ出すようになる。大卒者の初任給が月1万3800円だった時代の話だ。

だが、小松が東京に出てきたのは本来、役者をめざしてだった。そのため、渡辺プロダクションが植木等の付き人兼運転手を募集していると知るや、さっそく応募する。
このとき応募者が約600人もいたという。小松はそのなかから見事に選ばれたのだ。それは1964年、東京オリンピック開催の年のこと。付き人として仕事を始めたのは、植木が過労で倒れた直後で、これはドラマで描かれたとおりである。

おれのことを「親父」と呼べ


第1回のクライマックスは、病院から家に戻った植木が、あらためて松崎青年とあいさつを交わすシーン。松崎が中学生のときに父親を亡くしたと知った植木は、今後は自分のことを「親父」と呼ぶよう告げるのだった。


このとき、退院祝いに来宅したという植木の父・徹誠が部屋に入ってくる。二人の話を聞いていたのか、徹誠が松崎に「君は私のこと、おじいちゃんと呼ばなくていいからね」と言うのが、何ともすっとぼけていて、おかしかった。それにしても、徹誠演じる伊東四朗が後年、この松崎青年=小松政夫とコントで一世を風靡することを思うと、ちょっと不思議な感じもする。

ともあれ、いよいよ植木の付き人となった松崎にこれからどんなことが待ち受けているのか。今夜放送の第2回では、谷啓のあのギャグも出てくるようなので、よく見ていてくださいね。その前、午後5時半からは第1回の再放送もあるので、見ていない人はそちらも見ておきましょうね。ではそれまで、さよなら、さよなら、さよなら。
(近藤正高)