スマートフォンの普及や動画コンテンツの台頭により、若年層の読書離れが各国で課題となっている。特にテキスト中心の読書体験は、視覚・聴覚を中心としたマルチメディア環境に慣れたデジタルネイティブ世代にとって、関心を引きにくいものになりつつある。
そうした中、テクノロジーを活用して新たな読書体験を創出しようという試みが進んでいる。

シンガポール国立図書館では、主にAR(拡張現実)技術とカメラアプリ開発を専門とする米国テクノロジー企業、Snap社のARグラス「Spectacles」を用いた拡張読書のパイロットプログラムを実施し、紙とデジタル、現実と拡張現実を結ぶ革新的なリテラシー支援を展開している。物語の世界観を視覚・聴覚で補強することで、読書をより没入的かつインタラクティブな体験へと変えるこの試みは、単なる技術導入にとどまらず、図書館という公共空間の役割自体を再定義する可能性も秘めている。

本記事では、この先駆的な取り組みの全容と、AR技術が切り拓く「次世代リテラシー」の姿を追う。

ARとリテラシーの融合とその可能性

読書は本来、文字情報を通じた内的な想像の営みだが、現代の読者、特にZ世代やα世代の若年層は、日常的に映像や音声といったマルチメディアに囲まれて育っており、テキスト中心の読書体験に強い魅力を感じにくい傾向がある。また、スマートフォンやSNSの普及により、注意の持続時間が短くなったという研究もあり、「読む力」や「想像力」の育成が教育現場で改めて問われている。

こうした背景から、読書体験を再定義する試みが各国で進んでおり、その中でも注目されているのがAR(拡張現実)技術との融合である。

ARは、現実の視界にデジタル情報や映像を重ねることで、五感を通じた情報取得を可能にする技術であり、もとはゲームやエンタメ領域で普及してきたが、近年は教育・文化・医療・観光など多様な分野への応用が進んでいる。

特に教育・読書との組み合わせでは、以下のような効果が期待されている。

●抽象的な文章表現を視覚化し、理解力を高める
●読者の想像力を補完し、物語への没入感を促進する
●双方向の体験を通じて、学習意欲を引き出す
●読書に困難を感じやすい層(学習障害、多言語話者など)への補助機能となる

また、ARによる「拡張読書」や「視覚化された学び」は、文化的・歴史的な文脈の理解にも有効とされている。たとえば、歴史小説を読む際に当時の風景や衣装がARで再現されれば、文字だけでは把握しきれない時代背景を体感的に理解できる。異文化理解、感情教育、さらにはインクルーシブな学習環境づくりにおいても、ARは強力な支援技術となる。

さらに、ARは視覚的インパクトだけでなく、ストーリーテリングそのものの構造を変える可能性も秘めている。
単に「読む」だけでなく、「見る・聴く・動く」読書体験は、紙とデジタルの垣根を越えた、まったく新しいリテラシーの形を生み出しつつある。

こうした潮流は、公共図書館や教育機関にとって、読書文化の継承と技術革新を両立させる鍵となるだろう。

シンガポール国立図書館の取り組み

ARと読書の融合において、先進的な実証を行っているのがシンガポール国立図書館(National Library Board, NLB)である。2025年5月、NLBはSnap社およびLePub Singaporeと連携し、ARグラス「Spectacles」を活用した読書体験拡張プログラム「Augmented Reading」のベータテスト中であることを発表した。

このプログラムは、読書中の体験に聴覚と視覚の効果をリアルタイムで重ねることで、読者の没入感を高めることを目的としている。「Spectacles」を装着した利用者が本を読み進めると、グラスに内蔵されたカメラとテキスト認識技術、機械学習アルゴリズムにより、ページの内容に応じた演出が自動的に生成される。

具体的には、読書中に本をスキャンすることで、

●物語の雰囲気に合わせたアンビエントミュージック
●ドアのきしみや遠くの話し声、風の音などの効果音
●視界に浮かぶビジュアル演出や仮想オブジェクト

といった多層的な演出が再生され、読書空間が“物語世界”へと変容するような体験が提供される。読者は仮想のアーティファクトを手に取ったり、周囲の読者と体験を共有することも可能で、個人的な読書を拡張しつつ、社会的な対話も誘発する設計となっている。

この取り組みは現在、限定されたベータテストの段階にあるが、2025年後半には来館者向けの一般公開も計画されている。NLBは本プログラムを通じて、特に若年層に向けた新しい読書習慣の創出と、図書館の機能を「情報提供の場」から「体験の場」へと進化させるビジョンを描いている。

図書館×ARの進化がもたらすビジネスと教育の未来

Snap社の「Spectacles」は、これまでクリエイターや開発者向けにAR表現の可能性を探るツールとして提供されてきたが、公共教育機関との連携によって、その用途が大きく広がりつつある。これにより、AR技術が日常的な学びや文化活動に組み込まれる未来も現実味を帯びてきた。

また、出版業界や図書館システム開発企業にとっても、AR連携は新たなコンテンツ提供モデルとなり得る。たとえば、AR対応の紙の書籍や、図書館向けにカスタマイズされたAR体験パッケージなど、新しいビジネスモデルが創出される可能性がある。


日本においても、AR導入の可能性は十分に存在する。地方自治体が運営する図書館での子ども向け読み聞かせや、歴史資料の展示・解説へのARの活用は、既存の学びを拡張するうえで有効だ。特に、日本では公共図書館が多世代交流や地域教育の拠点として機能しており、こうした場所にARが導入されれば、教育の公平性とアクセシビリティの向上にも貢献できる。

国産のARデバイスやアプリと連携した実証実験も検討されるべきフェーズにあり、テクノロジー企業・自治体・教育機関が三位一体となって進めることで、国内図書館のイノベーションが加速する可能性は高い。

読書は“見る・感じる”時代へ

AR技術によって、読書はもはや「読む」だけの体験ではなく、「見る」「聞く」「感じる」複合的な知覚体験へと進化しつつある。シンガポール国立図書館による取り組みは、教育・文化・テクノロジーを架橋するモデルケースとなり、今後、世界中の図書館や教育機関にも波及していく可能性を秘めている。

日本でも、読書や学習をめぐる課題は深刻化しており、ARを活用した新しい接点の創出が急務である。公共図書館をはじめとする地域インフラと先端技術が結びつけば、デジタル世代へのアプローチだけでなく、高齢者や外国人、障害を持つ人々への支援にもつながる。

読書離れが進む現代において、ARという新しいメディア表現が、再び人々を「物語の中へ引き込む」手段となるならば、それはまさにリテラシーの新たな地平を切り拓く挑戦と言えるだろう。

文:中井千尋(Livit
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