JR京浜東北線の東十条駅から徒歩6分。環七通り沿いに夫婦が営む小さなラーメン店がある。
2022年8月オープン。店主の新井菜月さんと源己さんの夫婦が営んでおり、「ビスク」という店名のとおり、オマール海老や牡蠣、あさりなどの魚介の旨味あふれるスープが自慢のお店だ。カウンター6席で、昼3時間半の営業で平日は50~55人、土日で60~70人のお客さんが訪れる。いつでもお客さんが途切れることなく、地元客を中心に広く愛されている。
店主の菜月さんはいろいろな飲食店で働いていたが、その先の将来に悩んでいた。そんな時、知人を介して横浜の人気ラーメン店「丿貫(へちかん)」を紹介してもらう。2016年から3年間「丿貫」で修業することになる。
「『丿貫』では毎日いろんな種類のラーメンを作っていて、こんなにいろいろなラーメンがあるんだと楽しくなりました。そこからいつか自分にしかできないオリジナルのラーメンを作りたいという思いが密かに湧いてきたんです」(菜月さん)
■妻はラーメン店から独立、夫は脱サラ
もともと将来は飲食店をやりたいという思いがあったが、労働環境の問題などもあり、どうするか悩んでいたという。「丿貫」は昼と夜でシフトが分かれており、非常に働きやすい環境で、スタッフ同士も仲が良く、菜月さんの悩みはおのずと払拭されていった。アルバイトから働き始めて、のちに社員になり、ラーメンの技術が上がっていく中で、独立への思いがふつふつと湧いてきていた。
一方、夫の源己さんは食品メーカーで輸入ワインの営業をしていた。食べ歩き仲間として菜月さんと出会い、ラーメン店で働いている彼女を見守ってきた。
「結婚を機にお店をやろうと提案された時、自然と不安はありませんでした。彼女は他の料理を作っても上手で、ラーメン店のコンセプトもしっかり持っていたので、これは夫婦でやってみても面白いかなと思ったんです。昔の町中華のように夫婦2人でやれば何とかなるかなと思っていました」(源己さん)
その後2人は結婚し、独立を決めてから一年半物件探しをする。
鉄道の各駅の乗降客数や人口などを調査し、エリアを絞りながら探したところ、東十条の物件が見つかる。6坪の小さなお店だったが、夫婦2人で回せる広さで、お店の形も良く、人通りの多い環七沿いだったのでここでやることにした。東十条は老舗から新店までラーメン店の軒数も多く、ラーメンの元気な町だったことも大きい。こうして2022年8月「ビスク」はオープンした。
■見た目はオシャレ、味はガツンとくる一杯を
「丿貫」で学んだことをベースにオリジナリティーを出したかった菜月さん。女性のお客さんにもたくさん来てほしいという思いもあったので、ガツンとした旨味がありつつ上品でオシャレな一杯を作ろうとしていた。
「『ビスク』という店名のとおり、スープを飲んだだけで素材の旨味が感じられるものを目指しました。
海老やあさりを使うことは決めていましたが、オープンまでなかなか味が決まらず泣きながら試作をしていましたね。初めて食べて感動を覚える味、食べて驚いてもらえるラーメンを目指していたので、イメージから程遠い仕上がりに悩みました」(菜月さん)
「丿貫」は魚介を使ったインパクトのあるラーメンが人気で、菜月さんはそこに負けないものを作りたかった。
こうして「オマール海老ラーメン」「あさりカルボ」「牡蠣ラーメン」の3つのレギュラーメニューを完成させた。中でも「あさりカルボ」は「丿貫」時代に菜月さんが作った人気の限定メニューをもとにブラッシュアップして完成させたものだった。
オープン時から客入りはよく、地元のお客さんが9割ほどを占め、常連客も増えた。当初はまだ段取りが悪く、片付けや仕込みに手こずって終電を逃す日もあったが、じきに落ち着いてきて安定してきた。しかし、順調かと思っていた1年後、2023年夏に客入りがガクッと減る。
■熱々のラーメンを思い切ってやめた
「夏場が暑すぎて、ダイレクトにお客さんの入りが悪くなってしまったんです。2023年はなんとかやり過ごしましたが、来年は絶対これではいけないと一年かけて対策を練ることにしたんです」(菜月さん)
夏場にインパクトを作らなくてはいけないという課題を持って、2人は1年間かけて検討を続けた。
夏に限定メニューで出していた「冷やしオマール海老ラーメン」が好評で、これを軸に夏を乗り切れないかと考えた。そこで思いついたのが、夏場だけ「冷やしラーメン専門店」にしてしまうというアイデアだ。
「夏に冷やしラーメンの限定を出すというのは、どの店でもやっていることだと思います。
そこでインパクトを作るためには、3種類の冷やしラーメンを作ってその時期だけ専門店にしてしまうぐらいの思い切りが必要だと思ったんです。こうして冷やし専門にすれば、冷たいものが食べたいときにパッと当店を思い出していただけるかなと」(源己さん)
2人は1年間かけて冷やしのメニューを開発し、「冷やしオマール海老ラーメン」「あさりとハラペーニョの冷やしラーメン」「冷やし牡蠣ラーメン」の3種類が完成した。そして、7~8月は冷やしラーメン専門店として営業することを、早めに店の外に貼り出して地域の人たちに認知させるようにした。こうして2024年の夏の売り上げを回復させたのである。
■「わかりやすさ」がないと客の心はつかめない
「結果、1年を通して1日当たりの来客数が一番多い期間になりました。冷やしも3種類すべて食べてくれるお客さんが結構いて、いつもの常連さんのほかに冷やしのお客さんもついてくれるようになりました。
もしだめなら元に戻せばいいかと思って始めましたが、夏の『ビスク』=冷やしと定着してくれて良かったです。今年も春から『冷やしはいつから?』と聞かれて嬉しかったですね」(源己さん)
こうして1年間安定して売れるようになり、2人の心配事は減っていった。
2人が大事にしていることは「わかりやすさ」である。ラーメンの味や見た目はもちろん、「冷やし専門店」の訴求や告知、すべてに至るまでわかりやすくないとお客さんはなかなか来てくれないと考えている。
「見た目の美しさも味のうち。盛り付けがきれいであることは絶対条件だと思っています。
そしてそれだけではなく、味も輪郭をはっきりさせ、直球の味わいを目指しています。一口食べたらすぐに『美味しい』と感じられるような味づくりにこだわりました」(菜月さん)
■単価が上がる「特製」と「ライス」はあえて出さない
見た目からするとオシャレで、洋風のパスタと言われることもあるかもしれないが、「ビスク」のラーメンはド直球の味わいだ。旨味のわかりやすさやインパクトはラーメンそのものである。菜月さんの修業時代からの意地を感じる直球の旨さなのである。
そして、「ビスク」には「特製」トッピングもなければライスもない。これは菜月さんのこだわりだ。
トッピングが豪華な「特製ラーメン」を出せば売り上げの向上も見込めるが、「スープを主役にしたい」という思いの中で、通常のラーメンこそがベストであると判断した。ライスもオペレーション上の問題で提供をやめた。
ちょっと頑固かもしれないが、自分なりの軸を持って成功しているのが凄い。
メニューの開発と調理は菜月さん、そして調理補佐と接客、バックオフィス、ドリンク類は源己さんが担当する。
しかし、毎日営業後片付けをしながら2人で反省をし、それをすぐ翌日の営業に生かす。PDCAをしっかり回すようにしている。
「夫はいつも私を尊重してくれて、作りたいものを作らせてくれています。いつも応援して支えてくれているので、私はラーメンを作ることに専念できていて感謝しかありません」(菜月さん)
■「妻はこの店のエースで4番」
「ビスク」では菜月さんが商品開発担当だが、どうやると売れるかは2人で徹底的に考える。「お客さんに喜んでほしい」という思いが先行する中で、原材料をふんだんに使ったラーメンで原価が上がるなど厳しい部分はあるが、夫婦2人でやっているのでギリギリなんとか収益を確保できているという。
「妻はこの店のエースで4番。一切妥協せずに味を追求しつづける姿を尊敬しています。彼女が能力を最大限発揮できるよう、私はキャッチャーから外野まで、そのほかの部分をすべて支えていければと思っています」(源己さん)
夫婦二人三脚で危機を乗り越え、「ビスク」を人気店に成長させた。それぞれの役割で最大限の力を発揮しているからこそうまくいくのだろう。
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井手隊長(いでたいちょう)
ラーメンライター、ミュージシャン
全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。東洋経済オンライン、AERA dot.など連載のほか、テレビ番組出演・監修、コンテスト審査員、イベントMCなどで活躍中。
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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)