これまでにないほど多くの糖質摂取を可能にしたモルテン社の特許技術について、弁理士である筆者が解説します。
■とてつもない記録が生まれた
2026年4月26日に行われたロンドンマラソンで、ケニアのセバスチャン・サウェ選手がマラソンの世界記録を更新し、記録対象となる公式大会で史上初めて2時間を切る、1時間59分30秒という驚異的なタイムを打ち出しました。これは42.195km中ずっと100m約17秒ほどの速度で走り続けるというとてつもない記録です。
マラソンの世界記録は、重松森雄さんが日本人として最後の世界記録となる2時間12分0秒を1965年に出して以降、どんどん記録が更新されていきました。
特に、2007年に長距離界の「皇帝」ハイレ・ゲブレシラシエ選手(エチオピア)が2時間4分26秒という世界記録を出してからは、ケニア、エチオピアの東アフリカのランナーによって頻繁に世界記録が更新されるようになりました。
そしてNIKEの厚底シューズ「ヴェイパーフライ」の登場により、2018年にエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)によって2時間1分39秒というタイムで世界記録が大幅に更新され、今回のサウェ選手の2時間切りの記録更新となったという次第です。
■走行中にバナナ10本分の糖質を摂取
今回サウェ選手はadidasの厚底シューズを履いて世界記録を出したわけですが、そうしたNIKEやadidasなど各メーカーの厚底シューズの影響で大きく記録が更新されるようになったのは間違いないところです。
その一方、マラソンを走っている最中のエネルギー補給戦略とそれを支える補給食や技術というものも近年非常に発達しており、今回の世界記録に及ぼした影響は非常に大きいと考えられます。
実際にサウェ選手のコーチが、イギリスの新聞『ガーディアン』の取材に対して、今回の世界記録更新が、「シューズと適切な補給のおかげである」と語っています。
今回サウェ選手がマラソンを走っている最中に摂取していた補給食は、スウェーデンに本社があるモルテン社の製品なのですが、モルテン社は、2025年4月から1年間かけてケニアへ6回出張し、サウェ選手に帯同して補給戦略を作り上げるなどの大掛かりなサポートをしたことを公式プレスリリースにて明かしています。
そうしたサポートにより作り上げた補給戦略によって、サウェ選手は今回のロンドンマラソンで走っている最中にバナナ10本分以上の糖質を摂取するという、これまでのマラソンの常識では考えられないほど非常に多くの糖質を摂取しました。
通常は、これほどの糖質を走りながら摂取しようとしても胃腸などの消化器官が不調を起こしてかえってパフォーマンスを落としてしまうところなのですが、サウェ選手は何らパフォーマンスを落とすことなく、むしろ後半にかけてペースアップをするという驚異的な走りで世界記録を出しました。
このような常識外の補給戦略を可能にしたのは、モルテン社の「特許技術」によるものと考えられます。
では、サウェ選手の常識外の補給戦略とは具体的にどういったものだったのでしょうか。そしてそれを可能にしたモルテン社の特許技術とはどのようなものなのでしょうか。
■マラソン中の補給の重要性
マラソンは長時間の運動になることから、糖質を大きく消費するスポーツです。そのため、アメリカスポーツ医学会は、運動中1時間当たり30g~60gの糖質摂取を推奨しています。
また、欧州スポーツ科学会議が発行する学術誌『European Journal of Sport Science』にてAsker Jeukendrup博士(イギリス・バーミンガム大学教授)が2008年に発表した論文によると、2時間以上の持久運動をする場合は最大90gの糖質を摂取することが望ましいとされています。
こうした運動中の補給は、1960年代頃から普及し始め、今もスポーツドリンクとして有名な「ゲータレード」がそのけん引役を担っていました。その後、1996年頃からスポーツの補給食に関する特許出願が大幅に増加し、1995年はスポーツ補給食に関する国際特許出願は年間1500件程度だったのが、2015年には年間9000件ほどに増加しました。
近年、このようにスポーツの補給分野における科学技術は大きく進歩しており、そうした中で、2015年にモルテン社は創立されました。
モルテン社は、「Trust Your gut」(腸を信じろ)を合言葉に、創立から一貫して、消化器官にできるだけ負担をかけずに高濃度の糖質を摂取できるようにするための補給食を開発してきました。
そうして開発された補給食を今回サウェ選手はマラソンを走りながら摂取していたわけですが、実際にどのように摂取していたのでしょうか。
■世界記録を出した時のサウェ選手の補給戦略
サウェ選手が世界記録を出した日の補給スケジュールが、モルテン社の公式プレスリリースにて公開されていますので、そこから抜粋すると以下の通りです。
朝食後:Bicarb System(筋肉疲労を抑えるための重炭酸ナトリウム入りのゼリーのようなもの)
スタート地点に向かうまで:モルテンスペシャルドリンク
スタート5分前:Gel100(糖質25g)
5km、10km、15km地点:モルテンスペシャルドリンク160ml
20km地点:カフェイン入りのGel100(糖質25g)、モルテンスペシャルドリンク130ml
25km、30km、35km、40km:モルテンスペシャルドリンク160ml
こうした補給により、サウェ選手はマラソンを走っている最中に実にバナナ10本分以上となる、200g以上の糖質を摂取していたとのことです。
これは従来の常識を大きく超える糖質摂取量と言えます。先述の論文にて、2時間以上の持久運動をする場合は最大90gの糖質を摂取することが望ましいとされていますが、その倍以上の糖質をサウェ選手はマラソンを走っている最中に摂取していたことになります。
通常、これほど多くの糖質を摂取してもかえって調子を落としてしまうことが多いです。
筆者もマラソンを走るのですが、一番調子がよかった時に、マラソンを走っている最中にいつもより多めに糖質(ジェル)を摂取したのですが、途中からかえって体が動かなくなり、自己ベストよりも大きく遅れてゴールする羽目になったことがあります。
モルテン社は、こうした糖質を多く摂ることでかえって消化器官に不調を起こしてしまうという課題を認識し、技術開発を重ねて今回サウェ選手が摂取したような補給食を作り出したわけです。こうした課題を乗り越えたモルテン社の「特許技術」とはどのようなものなのでしょうか。
■世界記録に貢献したモルテン社の特許技術
モルテン社は創立直後から、消化器官に負担を与えずに高濃度の糖質を摂取できるようにするための技術に関する特許出願を行っており、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでいくつも特許を取得しています。
今回サウェ選手が朝食後に摂取していた「Bicarb System」にも特許技術が用いられていると考えられます。これは、重曹とも呼ばれる重炭酸ナトリウムが配合されているのですが、重炭酸ナトリウムを競技前に摂取すると、競技中の筋肉疲労を緩和し、運動中に生成される乳酸を中和することができるとされています。
しかし、重炭酸ナトリウムは、摂取して胃に入った際に胃酸に反応して消化器官の不調を引き起こしてしまうことがあるというデメリットもありました。
そこでモルテン社は、こんにゃくや寒天などにも使われている「ハイドロゲル」というゼリー状の固体物質で重炭酸ナトリウムを包み込むことで、胃酸を反応させずに通過して直接腸内に重炭酸ナトリウムが放出されるという特許技術を開発し、これが製品に用いられていると考えられます(特許番号:WO2023025806A1)。
また、サウェ選手が走っている最中に摂取していたスペシャルドリンクやGelにも特許技術が用いられていると考えられます。
モルテン社は、胃酸に触れると「ハイドロゲル」というゼリー状の固体物質を形成するという特許技術を有しており、この技術によってGelなどが胃に入った際に高濃度の糖質を「ハイドロゲル」でカプセル化することで、胃に負担をかけることなく直接腸内に放出することができます(特許番号:US20250134150A1)。
このような特許技術によって、走っている最中に消化器官に負担をかけることなく高濃度の糖質を効率的にすばやく摂取することができるようになっているわけです。こうした特許技術の裏付けがあるからこそ、マラソンを走っている最中にバナナ10本分以上の糖質を摂取するという常識外の糖質補給が可能となったと考えられます。
■今後の補給技術の発展
今回のモルテン社の補給戦略はこれまでのマラソンの常識を覆すものと言えます。今後は、マラソンを走っている最中に大量の補給を適切に摂ることが、結果を大きく左右する時代になっていくのかもしれません。
サウェ選手が世界記録を出したロンドンマラソンで2位になり、1時間59分41秒というこちらも素晴らしいタイムを出したヨミフ・ケジェルチャ選手(エチオピア)は、スペインのメーカーが開発した「サンタマドレ」というブランドの補給食を使用しており、ケジェルチャ選手も綿密な補給戦略を立てた上で走っている最中に大量の糖質摂取をしていたようです(ケジェルチャ選手もサウェ選手と同様に20km地点でカフェイン入りのジェルを摂取していた点は非常に興味深いです)。
NIKEの厚底シューズの登場によって、NIKEやadidas、asicsといったシューズメーカーの争いが激化しましたが、今後は、こうした補給食をめぐるメーカーの技術開発争いというものも激化していくのかもしれません。
▼藤枝 秀幸プロフィール大手IT企業などでSEとしてシステム開発などに従事した後、2009年に「藤枝知財法務事務所」を開業。以降、IT分野やエンタメ分野を中心に契約書業務や知的財産業務を行う。メディアや企業のコンテンツ監修なども手がけている。All About 弁理士ガイド。
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