「誰も本当のことを言わないから、ブスで馬鹿な私が本当のことを言う!」と元祖リバータリアン(超個人主義的自由主義)でアイン・ランド研究の第一人者である作家・藤森かよこ氏がペンで立ち上がった。
 氏のものした『『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。

(KKベストセラーズ)は4刷を超え(以下、「馬鹿ブス貧乏」と表記)、多くの女性を勇気づけた「革命の書」である。アラフォー読者からの要請が殺到。今月21日より、第2弾『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つ ろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください。が出版される。
 そこで、今回、藤森氏のご厚意に預かり『馬鹿ブス貧乏』の長いまえがきから第1章まで再構成し、「若いほど」役立つと低スペック女子が37歳までにやるべき本当のことを転連載で教えてくれる。まさに「馬鹿ブス貧乏」で生きるしかない女性が最高に幸せになる本当のサバイバル術である!



■損の貯金と大川小学校事件

あなたは、生死を分けるほどの「いざ」という時のために「損の貯...の画像はこちら >>



 あなたはブスで馬鹿で貧乏だから、当然に不用心だから、ボケッとしていると不運になりやすい。

不運そのものは、取り扱いによっては人生のスプリングボードになるので、不運をやたらに恐怖することはない。しかし、わざわざ自分から不運を招くようなことをすることもない。



 運というものは何なのか、実は私にもよくわからない。それでも私は思う。ブスで馬鹿で貧乏でも運さえ良ければ大丈夫だと。



 では、運がいい自分でいるためには、どうするべきか? 私は、「損(そん)の貯金」をしておくべきだと思う。



 あらためて、私がそう思ったのは宮城県石巻市の大川小学校裁判の一審判決を知ったときだった。



 2011年3月11日の津波で亡くなった石巻市立大川小学校74名の生徒のうちの23名の生徒の親御さんたちは、お子さんの死の賠償を求めて石巻市と宮城県を訴えた。その結果が初めて出たのは2016年の秋だった。



 裁判で明らかになったことのひとつは、大川小学校の教員たちと地域の代表のような人物が、「山に逃げるべきだ」対「山に逃げて生徒が怪我したら責任を問われるし、津波はここまでは来ない」と40分も議論していたということだった。



 地震後に校舎から校庭に避難(?)した後に、なんと40分間も、生徒たちは大人たちがウダウダと言い合っているのを虚(むな)しく待っていたのだ。



「ここにいたら危ない。

みんな死んじゃう」と山に逃げた生徒も数人いた。しかし、教員は彼らを捕まえ校庭に引き戻した。



 結局、大人たちは山ではない方向に生徒を誘導し、74人の子どもたちが津波に襲われて亡くなった。教員の死亡者は教頭を含めて10名。校長は娘の中学の卒業式に出席のため不在だった。



 大川小学校の事件は、避けようと思えば避けることができた人災であったと仙台の地裁は判断した。

石巻市と宮城県は14億3000万円の損害賠償を命じられた。石巻市と宮城県はただちに控訴(こうそ)した。その後、2019年10月に最高裁は、この控訴を棄却(ききゃく)した。



 訴訟を起こした親御さんたちは、「死んだ人たちに鞭打つようなことして」と地元では非難されたに違いない。自然災害なんだから、誰が悪いわけでもないのにと非難されたに違いない。



 しかし、ほかの小学校は、同じ自然災害に襲われても、生徒たちを無事に保護できた。

こういう事態になったのは大川小学校だけだった。



 この事件については、池上正樹・加藤順子著『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社、2012年)とか、池上正樹・加藤順子著『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社、2014年)や、リチャード・ロイド・パリー著『津波の霊たち——3・11 死と生の物語』(濱野大道訳、早川書房、2018年)に詳しい。



 大川小学校の場合は運が悪かったから誰も悪くないとあなたは思うかもしれない。いや、そこなのですよ、私が言いたいことは。確かに運が悪かった。想定外のことだった。



 しかし、他人の子どもを預かる立場の人間は、断固として自分を運がいい状態にしておかないといけない。不測の事態が起きたとき、防ぎようがない事態に見舞われたとき、なんとか子どもたちが守られるためには、頼りになるのは運しかない。



 運が良ければ、ふいに打開策がひらめく。天啓のように他人の言葉がヒントになる。自分の判断とか頭の程度を過信せずに、謙虚に天の声をいただくことができる。



 天の声をいただいたら、それをキッチリ実行する。怒鳴ってもいい。暴れてもいい。天の声を実践する。



 私のようないい加減な人間でも、教師時代に学生を引率(いんそつ)してゼミ旅行で海外に行くときは、ビクビクと緊張した。出国する前に、あらゆる事態を想定した。硬くて悪い頭で精一杯に想像した。覚悟が定まったら、神社に正式参拝した。



 出国する前に何か不都合な事態が起きたら、これは「厄(やく)落とし」であると解釈した。大難が小難になったのだと思い込んだ。



 目的地に到着したら、目的地の地霊や神様に媚びを売りまくった。ささやかながらチップを出しまくった。引率者の私の運がいい状態を私が保つためには、私はなけなしの運を消費してはいけない。だから、敢えて損をした。「私さえ損していれば、学生はみんな無事に帰ることができる!」と信じ込んでいた。



 めでたく無事に帰国したあとには、神社にお礼参りをした。



 あまりにビクビクといろいろ想定し備えることに私は疲れ、2005年52歳を最後に学生の海外引率はやめた。たまたま、景気も悪くなり、海外ゼミ旅行への参加者も減ったので、都合がよかった。



 何を私は言いたいのか。つまり、大川小学校の先生たちは、子どもたちを守りたい気持ちはいっぱいにあったのだけれども、運が足りなかった。「損の貯金」が足りなかったのではないかと言いたいのだ。



 大川小学校の先生たちは、不測の事態になったときに運が足りないと、生徒たちを守りきれないから、普段から損をいっぱい引き受け、「そのとき」がきたら、幸運としてロンダリングされた「損の貯金」を引き出して使わせてもらおうと考えていなかったと私は推測する。



 このようなことは、大学の教育学部で学ぶことではない。教育学の教授がゼミ生に話すことでもない。文部科学省や教育委員会が推奨(すいしょう)するようなことでもない。



 このようなことは、学校の教師ならば誰でも知っているような類のことではない。しかし、責任ある立場ならば、このようなことは常日頃から考えておかなければならないことだ。



 ここぞというときに、運に味方してもらうためには、ここぞというときに大きく幸運が動くように運を貯金しておかなければならない。常日頃から、どうでもいい程度の損ならば引き受けておいたほうがいい。いざというときのために。



 だから、あなたも運を浪費してはいけない。クジ引きや懸賞に当るとかの程度のことに貴重な運を使ってはいけない。些細(ささい)なことで一喜一憂してはいけない。



 あなたはブスで馬鹿で貧乏なのだから、これ以上の損を引き受けることができないと思うかもしれない。しかし、このような発想もあることだけは頭の隅に入れておいてください。伝統的に、「損の貯金」は「陰徳を積む」と表現されてきた。



(第22回につづく『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』より再構成)