◾️迫られる自己決定とパターナリズム

 



 二十年くらい前から大学が学生に対して“過保護”になっている。授業に出てない学生、悩んでいる学生を見つけて軌道修正してやるために、教員が定期的に面談することを義務化している大学が増えている。

金沢大学では、新入生が学生生活、大学での学び方になじむことができるよう大学・社会生活論という授業があり、必修になっているが、同じような科目を設置している大学は少なくない。こうした傾向は大学だけでなく、企業などの新人教育でも広がっているようである。その意味するところを考えてみよう。



 子供は自己決定を迫られても、自分が何を決めないといけないのか理解できないことが多いので、親など大人が“本人の意志”を推察して、代わりに決定するのが普通である。いい年をした大人になっても、親や先生、医師、官僚などが本人の代わりに決定しようとすることを「パターナリズム paternalism」と言う。



 パターナリズムと一口に言っても、どういう種類の決定か、どういう立場の人の代行かによっていろいろなやり方があるが、大きく分けて、本人が嫌がっているのに無理に代行する場合と、あるいは、本人があまり関心をもっていない問題で本人が知らないうちに代行する場合に分けて考えることができる。



 パターナリズムは自己決定権を侵害するといって批判されるのは、大抵、前者である。医療における治療方針の決定や安楽死・尊厳死、自殺、ギャンブル、あるいは、中高の校則などをめぐる問題がその典型だ。これらのケースでは、他人に迷惑をかけるのでない限り、その人の自発的意志による行動を妨げることはできない、という他者危害原理(ジョン・スチュアート・ミル)によって、パターナリズムが批判される。



 それに対して、本人があまり拘っていない問題、いつの間にかそれが当たり前になっているような問題では、パターナリズム的な介入を受けても本人がそれと自覚する可能性は低いし、気付いてもあまり抵抗をしないと思われる。例えば、日本の子供の多くは、どこの高校や大学を受験するかについては、自分で決めたいと多少なりとも思うが、そもそも高校や大学を受験したいと、いつどのようにして決めたのかと聞かれると、答えられない。親や先生、周囲の人たちのパターナリズムに誘導されて、何となく「決めた」、あるいは「決まった」のである。



 「君の場合、どこの大学の〇〇科を受験するのがいい、そのためには一日、国語をX時間、数学をY時間…」という所まで、親や進路担当教師、予備校のカリスマ教師に決めてもらう方がありがたい、という子もいるだろう。大学生になっても、どの授業に出るか、どのゼミの所属になるのがいいか自分では決められないので、先輩や仲の良い友達に決めてほしいという学生は少なくない。



 悩んだ学生が自殺するのを防止するためにアドバイス教員と面談することを義務付けるのは、その中間くらいに位置するだろう。学生にとって面倒ではあるが、型通りの面談をすませさえすれば、一応“まともな学生”と認めてもらえるのであれば、そこまで嫌なことではないだろう――教員にとってもそうである。大学・社会生活論のような科目は、子供扱いされているようだし、ダサくていやだろうが、単位をくれるのならそこまで嫌がらないだろう。



 



◾️オウム真理教事件でサリンを作った信者は「理系の高学歴」だった

 



 オウム真理教事件が起こった後、サリンを作った信者が理系の高学歴だったことから、文科省は各大学に、理系的要素と文系的要素が混じった教養科目を作るように促させた。

それに応えて多くの大学が、「〇〇倫理」とか「社会と科学・技術」といったようなタイトルで、いろんな領域の教員がかわるがわる出てきて、相互にそれほど関連のない入門の入門のような話をするオムニバス形式の授業を作った。



 大学や文科省が「学生のため」だと言ってやっている、そうしたパターナリズム的プロジェクトは、実際学生にどう影響を与えるかをあまり考慮していない。「学生のため」に何かのプロジェクトを実行し、学生がそれを“受け入れた”という事実が重要なのである。こうしたプロジェクトを考案した人たちにとっても、学生が実際にメンタルな危機から脱することができるのか、オウム真理教のようなテロ行為に走ることの歯止めになっているのかは、正直言ってどうでもいいのだろう。



 そうした意味では無駄なことをやっているわけで、単なるバカげた話かもしれないが、私はこうした無駄なパターナリズムの背後にある「人間」観に注目したい。文科省や大学は、学生を、自発的に行動するがゆえにどう働きかけたらどう反応するか分からない主体ではなく、機械的な操作によってバグを修正して、正常に機能させることのできるアプリとかゲームのキャラのように見ていると思える。



 自発的に自分の幸福を追求する主体であれば、何が本人の幸福になるか、どこで充実感を覚えるか分からない。授業に出ないので留年することになっても、留年によって生じる時間の余裕で何かやり甲斐のあることを見つけるかもしれない。自殺・不登校防止のための面談を強制することで、かえってその学生を追い込む可能性があるかもしれない――私はその危険の方が高いのではないか、と思う。キャリア・プランの授業に出ることで、かえって混乱してしまう学生も出てくるかもしれない。



 そういうことを考えれば、学生の行動を無理に予め決まったフォーマットの中に収めようとするのではなく、文科省や各大学当局の期待からから見るとまともではない道に進む人間もある程度出ることを許容すべきだと思うが、フォーマット化志向は毎年どんどん強まっているように思える。数値で実績を示せと政治家、財界、マスコミから責められて、とにかく、学生をアプリのように扱って、就職内定率、TOEICの得点、自殺率・不登校率(の低下)、といった分かりやすい形でパフォーマンスを上げねば、と思うのだろう。



 学生は当然、文科省や大学当局に完全にマインド・コントロール(MC)されて言いなりになっているわけではない。しかし面倒だと思いながらも、面談に応じ、定期的に身体測定を受け、学生証で出席記録システムに毎回アクセスし、ある時期になると大学の進路担当部門からの勧めで公務員試験講座などを受講し、就職のためのエントリー・シートの書き方を学ぶようになる。そして少しずつ行動パターンがフォーマット化され、それから逸脱することに不安を覚えるようになる。



 



◾️「高度専門職業人の体系的な養成」が究極的な目標?

 



 大学も教育機関である以上、学生の行動をある程度フォーマット化するのは当然だという見方もあるだろう。私も基本的にそう思うが、あくまで授業の範囲内での話である。教師は、授業の場の秩序を保つ責任があり、その限りで学生を指導するが、授業と直接関係ないことにまで介入するのはおかしい。

特に、個人的な悩み事とか、日常生活のパターン、将来のヴィジョンなど、学生のプライベートな事柄や幸福に関わることには、あまり干渉しないように注意すべきだ。他者危害原理は、他人に迷惑をかける可能性が低い私的な度合いが強いことであるほど、本人に任せるべきことを含意している。



 プライベートに干渉すると、ハラスメントになるはずであり、現にセクハラなどに関してはだんだんやかましくなっているが、その半面、「学生が悩まないようにアドバイスする」という名目のもとで、余計な干渉が推奨されている。干渉してよいのは、教師と学生の間に個人的な信頼関係ができあがっている場合に限られる。そうした信頼を醸成するための統一的なやり方を大学が強制するのはおかしい。しかし、学生を正常な状態に保つように管理することが優先されているのである。



 私が大学生になった四十数年前には、高校までは教室で学ぶ子供なので、行動パターンをフォーマット化するのは仕方ないが、大学生はもう大人なので自分で判断できるはずだし、いくら他人である教師が頑張ってもフォーマット化しようがない、と言われていた。ところが、今では、高校までの段階をはるかに超えた、高度に規格化された製品にしないといけないかのように言われている。「高度専門職業人の体系的な養成」が究極的な目標として掲げられるようになった。



 企業も、エントリー・シートというフォーマットに当てはまる人材を求め、OJT計画書と呼ばれるものに即して、どの状況でどういう行動が期待されるかを予期し、その通りに行動できる「人材 human resources」――「人材」は人間を「材料」と見なす言葉であり、〈human resources〉は人間を「資源 resources」と見る言葉である――へと育成する社員研修を「プログラム」化するようになっている。少なくとも、合理的なOJTを行っていることを売りにしている企業は増えている。



 



◾️何が “自分の意志” なのか分からない人たちが増殖してる理由

 



 企業は組織だし、顧客は秩序立った、一律の対応を求めるのだから仕方ないではないか、と考える人は少なくなかろう。しかし、職場での行動を訓練するだけではなく、社員のメンタルヘルスまで体系的な管理の対象にする企業が増えている。つまり、「心」を管理(MC)しようとしているわけである。何らかの理由でメンタルな問題を抱えてしまった社員の相談にのって働き続けられるように調整するのと、メンタルな問題が起きないように管理するのは、全く意味が異なる。



 最近では、内定辞退者をなくして毎年の「人材」の補充を確実にするために、両親と連絡を取り、味方につける「オヤカク」を行っている企業もあるという。これは、ただの愚かな過保護のようにも見えるが、企業が、家族という最も「プライベートな領域」を、企業活動の中に取り込んで、管理を強化しようとしているようにも見える。「管理」という言葉とは縁遠そうな「親密圏」から取り込んでいく戦略と言えそうだ。



 住友商事は新入社員を、将来希望した部署に配置することを確約して採用する方針を出している。これも新入社員にやさしくて、自発性を尊重しているように思えるが、運用次第では、社員の将来を予め規定して管理しやすくする、ソフトだけど各人の行動パターンに深く浸透する効果的なパターナリズムの戦略になる可能性がある。SFに、各人の“生来の適性”に従って将来の職務が決まっていて、本人たちもそれが自然だと思っている、という設定がよくある。オルダス・ハクスリー(一八九四-一九四三)の『すばらしい新世界』(一九三二)が、その方面での古典である。







 人間は勉強や仕事をしていて、何かのきっかけで、長年一緒にいる人にも予想できない大きな変化をするということがしばしばある。そうした自分自身の思わぬ変化を見出すことが、生きがいになることがある――絶望することもあるが。その一方、多くの人が生活パターンを変えたくないという欲求を持っているので、変化の可能性を放棄することと引き換えに安定を約束されると、ついつい従ってしまうことがある。



 学校・大学、企業が、本人があまり不快感を覚えないように「人材」をフォーマット化(MC)する技術を次第に高めていけば、いつのまにか、私たち自身が生産ラインに組み込まれた材料+機械の部品になっていて、何が“自分の意志”なのか分からない、ということになりかねない。自分自身が既に「部品=材料」になっていると、他人を新たな「部品=材料」として取り込むことにあまり違和感を覚えなくなる。







 ギュンター・アンダース(一九〇二-九二)は、『時代おくれの人間』(一九五六、八〇)で私たちが既にそういう状態にあることを指摘している。アンダースによれば、人間の心身を公私にわたって全面的に管理する技術こそが、全体主義の本質である。ナチスの絶滅収容所で、ユダヤ人が個性のない物質扱いされる前に、彼らを虐待したSSの隊員も含めて、ドイツ人全体が、巨大化した機械の「部品=材料」になっていたのである。



 



文:仲正昌樹