秋篠宮眞子さまと小室圭さんの婚約問題の例にもれず、皇室の結婚はいつの時代も注目の的である。令和になり天皇に即位した皇太子徳仁殿下も、浩宮さまと呼ばれていた昭和時代から「お妃探し」が始まり、雅子さまを含めた有力候補者が続々と報道されていた時代があった。

ジャーナリスト・小田桐誠氏がこのたび上梓した『消えたお妃候補たちはいま』(KKベストセラーズ)には、その頃のお妃候補者たちの現況をも追ったそれぞれの人生ストーリーが記されているが、ここでは試みに天皇陛下の側からご成婚までの歩みを、現代の「婚活」感覚を交えながら読み進めてみたい。
『消えたお妃候補たちはいま』から紐とく、天皇陛下の雅子さまへ...の画像はこちら >>
 

最初のお妃候補者の報道が出てから9年経った1986(昭和61)年10月18日。

来日したスペインのエレナ王女歓迎のため宮内庁と外務省が催した茶会の招待客名簿に、この日、外務省に合格したばかりの小和田雅子さんの名が手書きで急遽追加され、浩宮さまは運命の出会いを果たした。

この時の雅子さまの印象は

「非常に控えめですが、自分の思っていることをはっきりおっしゃって、それでいて非常に聡明であること。それから話題にも共通性があって、心が通じ合うような、そういう感じを強く持ちました」

と、のちの婚約内定記者会見で答えている。<前編>で語られていた理想の女性像そのものが目の前に現れたのだ。

 

続く数か月間に英国協会のパーティーや餅つき大会でも会う機会に恵まれたのち、1987(昭和62)年3月に行われた記者会見。

「理想の女性には巡りあったのでしょうか」とお決まりの、しかしあまりに核心を突いた質問には、以前と逆に寡黙にならざるを得なかったようだ。

「今後、そのことについては、お話しないつもりですが……(その理由としては)理想の女性に出会ったかどうかお答えしていくと、出会ったときにそうです、と答えなければならない時期がいずれくると思いますから」

これは当時の皇太子ご夫妻(現在の上皇、上皇后両陛下)が浩宮さまの結婚について聞かれた際、本人の意志を第一にして静かに見守りたいという親心からしばしば口にしていたセリフでもあった。

 

しかし、一方がどんなに結婚したいと思っても、そもそも相手が結婚したいタイミングになければカップル成立とはならないのが婚活のツラいところである。

87年の4月や10月にも東宮御所で一対一に近い出会いを重ね、浩宮さまの想いが募っていったといわれているが、小和田雅子さんはまだ外務省に入省1年目。

本人いわく「好奇心から」招待に応じただけなのに、連日深夜まで働いて帰ると自宅はマスコミに包囲され、宮内庁からは何の助けもないことに小和田家全員が苦しんでいた。

 

一方の宮内庁は、お妃候補として小和田家と雅子さんの身辺調査を進めていたが「お妃の条件」に合わないとして一番問題視していたのが、雅子さんの祖父が水俣病を引き起こしたチッソの社長・会長を務めていることであった。

理想の女性との先行きが見えないなか、浩宮さまは1988(昭和63)年2月、28歳直前の記者会見に臨む。

「(理想の女性には)会ったかもしれませんし、会わなかったかもしれません」

「(お妃を富士山にたとえると今は何合目?と聞かれ)結婚は30歳までにと申しましたし、七合目から八合目……山頂は見えてもなかなか、そこには近づけないという感じでしょうか」

「いろんな方の助言ももちろんですが最終的な決定は自分の意志でしたい」

発言は雅子さんを意識したもので、障壁はあっても何とか決めたいという強い気持ちを滲ませていると同時に、宮内庁の姿勢に抵抗しているといえなくもない。

 

しかし、チッソ問題がクリアになることはなかった。浩宮さまは「どうしてもだめなのでしょうか」「難しいですか」と尋ねたが、強引に主張を貫くことはせず「それなら仕方ないですね」と引き下がったという。

88年7月、小和田雅子さんは外務省の研修で2年間の英国留学へと旅立つとともに、お妃候補の圏外へと去ってしまった。

 

理想の女性との結婚が叶わなくても、30歳までの成婚を目指してお妃探しが止むことはない。どんなに傷ついても一時休止すら許されない“皇室の婚活”。依然として外務省や経済界、音楽関係者などから有力候補のリストアップは続けられていた。

そうして昭和が終わるまでに、本書に登場する「消えたお妃候補たち」は60人にのぼっている。

 

時代が変わり、1989(平成元)年9月の皇室会議で弟の礼宮さま(当時)の結婚が先に決まった。浩宮さまは皇太子となり記者会見で

「(焦りのようなものは)まったくございません」

「二人の結婚は私も強く勧めたところです。

私についてはマイペースでやっていきたい」

「結婚はそれに至るプロセスが大事。だからどんな形の出会いにしろ、お互いが何回か会うことが必要だと思います」と語った。

一見すると頑ななコメントに、もし現代の結婚相談所であれば「理想の条件のうち譲れるものはありませんか」「目の前のお相手の良いところにも目を向けてみましょう」「恋愛結婚にそんなにこだわらないで、結婚してから愛情を育てていく楽しみもありますよ」などと矢継ぎ早にアドバイスが飛んできそうである。

 

しかし言われるまでもなく、1990年代に入り30代になった皇太子さまは

「若い人と積極的に会っていくという姿勢は変えないつもりです」

と以前語ったように、学習院時代のご学友や学長が設定してくれた出会いの場やカラオケパーティーなどを活用し、年下の候補者たちと交流をはかっていた。ただ、

「10歳くらい年が離れている人たちと会う機会がありますが、いろいろな点でジェネレーションギャップを感じます」「10歳は離れすぎだと思います」

と、1991(平成3)年2月の「立太子の礼」を前にした会見で述べている。

 

91年9月から11月にかけて、十数年にわたって名前があがり続けた「最後のお妃候補」と3回会った皇太子さまは、熟慮の末、お断りすることを決心する。

それは同時に、ずっと想いを持ち続け、皇太子妃に迎えたいと願う一人の女性とやはり絶対に結婚したいという決意も意味していた。

お相手は英国での研修留学を終えて90年に帰国し、日米外相会談で通訳を務めるなど日々外交の現場で活躍している小和田雅子さん、その人であった。

 

1992(平成4)年2月、32歳の誕生日前の会見で語った内容は、いま見ると宮内庁や関係者すべてに向けての決意表明のようにも、雅子さまご本人へ宛てたメッセージのようにも取れる。

「結婚は良き伴侶を見つけ、人生をともに歩み、互いに助け合っていく非常に大切なもの。一にも二にも縁とプロセスが大切。それに何かロマンみたいなものがあるといい」

「最終的には自分で決めたい。

困難に直面した場合は自分で切り開いていく」

「皇室は距離があるというか、入りにくいことは誰でもあると思うが、お互いの心の交流を通じて少しずつ緩和されていく希望を持っている」

「(お妃の条件、理想像は)やはり価値観が同じこと。他人を思いやって痛みが分かる人であってほしい。みんなが納得してくれるというのは必要だと思います」

 

この年の12月にプロポーズを受諾してもらうまで、雅子さまとの初めての出会いから数えても6年以上。お妃探しは、世間一般では“婚活こじらせ男子”ともいうべき長期間に及んだ。

しかし長期化するなかでずっと、理想の女性への純愛と呼ぶべき一途な想い、縁とプロセスを大切に、自分で決めたいというこだわりをブレることなく持ち続けていたからこそ、それらは最後には強い信念となって雅子さまの心に深く響いたのではないだろうか。

 

『消えたお妃候補たちはいま』には、ご成婚以降お二人で歩まれ苦難の連続だった平成26年間と、かつてのお妃候補であった方たちの現在も克明に綴られている。

いま再び皇室外交の場で輝く皇后雅子さまを見るたび、ご成婚に至るまでの天皇陛下の強い想いが四半世紀ずっと変わらず雅子さまを支え、乗り越えてきたからこその今があるのだろうと、改めて思いをめぐらさずにはいられないのである。