難病「道化師様魚鱗癬」を患う我が子と若き母の苦しみ。その苦しみは、父の苦しみでもあった。
『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』の著作を綴った「ピエロの母」の伴侶である「ピエロの父」が「父として夫として何ができるのか」と考え、息子の病気と妻の苦しみに心を折れそうになりながらも立ち向かった瞬間のお話。「ただそばにいるだけでも」人は救われる!のだ。
「妻のそばにいることしかできない!」難病「魚鱗癬」の息子誕生...の画像はこちら >>
 ◆幼い頃は泣かない妻、泣き虫の夫

 出産から数日。妻は相変わらずの状態だった。術後のため、まだ歩けず、身体の痛みと「魚鱗癬」を患う息子への思いで毎晩苦しんでいる。

  妻は昔から、人前で絶対に泣かない人間だったという。

色々と辛い過去を持つ妻。幼い頃、悲しくなるといつも、誰もいない所で涙したらしい。
 逆に私は幼い頃、臆病で泣き虫だった。人前でめそめそしてばかりのどうしようもなく、みっともない子。

 そんな自分が、今は泣いている妻を励ましている。でも、そばにいることしかえきず、何もしてやれないのが辛かった。

何か力になれないか……。

 さらに数日後。まだ歩けないものの、妻の体調は回復しつつあった。
「病院の敷地内なら外出しても良い」と医師から許可が出たため、私は妻に外へ出ることを提案した。
「中におると、気分が沈むよ。こんなにいい天気なんやから。

外の空気吸って、気分転換しよう!」
 妻の車椅子を押しながら、私は病院の庭へ向かった。

 妻にとって久々の外。静かな庭の中を、ふたりで会話しながら歩く。
 どうでもいいような話をしていたが、やはり最終的に息子の話になった。
 息子の病気は通常、産まれて数日で死に至るということもある病気。 
  だが今は医学が進み、生存率は上がっている。


  命は助かる。命「は」……。
  その後はどうなる? この病気は完治しない。皮膚が薄いため、感染症にかかりやすく、最悪、死に至る場合もあるらしい。見た目の損傷も激しく、障害のある部分が多い。日常生活は苦労が多く、
 また、その見た目から迫害を受けることもあるかもしれない。

  どんな辛いことがあっても「生きてこそ」という言葉があるが、この子はそれを望むだろうか?
 病院の先生方は今も精一杯、処置をしてくださっている。とても感謝している。だが退院の先、何も見えない。あの子にとって幸せは生きることか、それとも……。

 妻は泣いていた。私も泣いていた。

こんな明るい空の下で、庭でふたりして、うずくまって、声を殺して泣いていた。妻を元気付けるはずなのに。

 あれから数日、自分の中で色々な思いを整理し、私は冷静になっていった。もう何があっても驚くことは無い。泣くことも、しない。息子は病院に任せ、私は妻を励ます。だが、息子を思う「母親」の気持ちは計り知れない。父として、夫として何が出来るか。

◆「辛かったらいつでも言いな」と母の声

 ある日の夜、ひとりでいる時、いつの間にか私は実家に電話していた。電話に出たのは母。会話は、息子の様態について。もう何度か電話で説明していたので、話すことはほとんど無いが……。

「大丈夫か? 辛かったらいつでも言いな」

  母の言葉に、私は力強く答えた。

「いや、僕はもう大丈夫。何があっても絶対沈まん。心配いらんよ」

「そうか、あんたは強いね」

 母は泣いていた。
「あんたたちが心配で……、ごめんな、私たちは何の支えにもなれなくて」
 震えた声が聞こえる。何の支えにも……。そんなことない。
「十分、支えになるよ。だって何も無いのに電話をかけて、それだけで、救われる。ただ、話をするだけで……」
 言っているうちに、涙が止まらなくなってきた。なぜ最初、電話をしていたのか自分でも分からなかった。頼りたい。 甘えたい。そういう思いがあったのか。
 もう父親なのに。冷静になったはずなのに。心が折れそうだった。
 昔のまま、私は泣き虫だった。

 だが、私は母に救われた。

 話をするだけで、そばにいるだけで、人の心は救われる。

 私は妻のそばにいることしできない。

 それだけてで充分なのかもしれない。父親が泣いてちゃ駄目だ。両親が潰れたら、どうしようもない。

 自分だけは前を向く。妻も、いずれは前を向いてほしい。

  でも今は、焦らずゆっくりでいい。妻が前を向けるまで自分は後ろを振り返らない。そう、強く決心した。そこから、私は悲しみで泣くことは無くなった。
『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より)