ひと月くらい前「なりたくなかったあれ」騒動とでもいうべきもめごとが起きた。きっかけはTBS報道局・川畑恵美子記者が「note」に書いたこんな文章だ。
「社歴は20年を超えた。スーツを着れば、圧がかかる。何気ない一言にも、後輩にびくっとされる。そんな私がジェンダーを語ったら、バリバリのフェミニストに見えるだろう、少なくとも会社では。ああ、ついに私もそうなったか。なりたくなかったあれに。
国際女性デーに合わせて書かれたもので、なかなかいい文章だと思う。特に「なりたくなかったあれ」という表現が秀逸だ。
が、これに対し「バリバリのフェミニスト」が噛みついた。たとえば、十代女性のシェアハウス支援で知られる仁藤夢乃は「おやじ化した保身おばさんによる攻撃」だとして批判。賛同する人もちらほらいて、結局、川畑記者は前述の文章を削除し、謝罪することとなる。
しかし、彼女が「なりたくなかったあれ」と呼んだ気持ちがわかるという人も多いだろう。「バリバリのフェミニスト」はちょくちょく目を覆いたくなるような言動をする。最近も、女性のためのセックスグッズショップを主宰する北原みのりが「週刊朝日」のコラムでこんな政権批判をしていた。
「体調崩して退陣しても、下痢の安倍、くらいの印象しか残さなかった彼の恥はどれほどのものだったろう。あの時に安倍さんは、絶対に戻って憲法変えてやる、絶対にメディアを飼いならしてやる、と決意したのではないか。コンプレックスの強い人間に、恥をかかせすぎてはいけない。恥の感情が悪質なものを生む。恥から生まれた恥太郎、それが私たちの国のトップの正体だ」
安倍晋三首相を貶めたいがために、潰瘍性大腸炎という持病を持ち出し、下品な言葉で揶揄しても平気なこの感覚。こちらのほうがよっぽど恥ずかしいのではないか。
ちなみに、何かにつけて安倍が悪い安倍が悪いと言い立てる人は「アベガー」と呼ばれるが「フェミニスト」と層が重なっていたりもする。自分が不遇なのは世の中のせいだという被害者意識が強く、男たちや首相を叩けば気が晴れるからだろう。
また、こうした人たちは物事を善悪で分けようとする傾向が目立つ。自分が善だと信じているからこそ、自分が決めつけた悪を断罪して構わないと思っているのだ。
■不遇なのは世の中のせいだという被害者意識そういえば、昨年暮れ、ネットのインタビューで元女子アナの小島慶子がセクハラについて語っていた。彼女は最近、バラエティ番組の収録などで「セクハラポリス」をやっているそうで、タレントたちの気になる言動を見たら注意して、反省させるらしい。
「正直、みんなが心を入れ替えたわけではないと思うんですよ」
いったい、何様のつもりだろう。最近、行政と萌え絵のコラボ事業などが批判されることが増えたが、それもこうしたニセポリスたちの仕業だ。
厄介なのは、そのスタンスがエスカレートしがちなこと。ハイヒールなどの着用義務に抗議する運動で世に出た石川優実は最近こんなことを言っている。
「私は特にこの1年、Twitterで『怒る練習』をしてきました。
本人いわく「怒ることに慣れていない」「差別的な発言に対して反射的に反論することができない」という自己分析からの「練習」らしい。ただ、批判者としょっちゅうトラブっているところを見るともう、成果は上がりすぎている印象だ。
一方「アベガー」はというと、芸人や作家などの参加が増えている。前者ではウーマンラッシュアワー村本や松尾貴史、ラサール石井、立川雲水といったところが知られ、後者には島田雅彦、平野啓一郎、中沢けい、乃南アサらがいる。
このうち、前出・北原以上の下品さで首相の持病を揶揄したのが立川だ。引用がためらわれるほどの内容で、削除し、謝罪したが、兄弟子の立川志らくまでとばっちりを食った。似たことを言っていた過去を掘り起こされ「私も昔総理のお腹の事を揶揄したことがある。当時は難病だとは知らなかった」と言い訳をするハメに。
かと思えば、島田は作家らしく、辞書をもじってこんなツイートをした。
「あべしんぞう【安倍晋三】:恥知らずで、支離滅裂で、知性も良心も欠落していて、漢字が読めない、子供の教育には不適切な人物のこと」
本人はしたり顔かもしれないが、こんなリプをつけられていた。「それは子供の『お前の母ちゃん、デベソ』のレベルですよ」。たしかに、かつて純文学の未来を担うと目された作家にしては、幼稚なレトリックだ。
こうしたアベガーのつらいところは、笑いのセンスや文才があまり感じられないと、芸人のくせにとか作家のくせにとかすぐに言われてしまうことだ。本業に専念して、売れている同業者にしてみればまさに「なりたくなかったあれ」だろう。
フェミニストにしても、またしかり。世界におけるジェンダーギャップ順位の低さとやらを錦の御旗のように振りかざし、その順位を上げるためには国会議員の男女比率を半々にすべき、などと主張しているが、蓮舫や辻元清美を見て、自分もああなりたいと憧れる女性がどれほどいるだろうか。肉体労働をもっぱら男がやるのと同じで、女性議員の少なさは男女それぞれの向き不向きの反映である。あの順位の低さは、まさにジェンダーギャップに合わせた役割分担がしっかりとできている成果でもあるわけだ。
もちろん、なりたい人がなる自由は保証されている。そのうえで、男と女、LGBT、つまりは人それぞれに合った生き方がわりとできるようになっているのが、今の日本だ。
といっても、納得できない人はいるだろう。そして、自分が不遇なのは世の中のせいだという被害者意識から「フェミニスト」や「アベガー」になったりもする。それも個人の自由だが、たとえば「なりたくなかったあれ」と呼ばれたときに謝罪までさせるのはやりすぎというものだ。
要は、なりたくない人にはならないという「他人の自由」を認め合うゆるさ。それが大事なのではと「なりたくなかったあれ」騒動は再認識させてくれる。