「瘦せることがすべて」。そんな生き方をする女性たちがいます。
いわゆる摂食障害により、医学的に見て瘦せすぎている女性のことですが、そんな彼女たちを「瘦せ姫」と呼ばせてもらっています。
彼女たちはある意味、病人であって病人ではないのかもしれません。
というのも、人によってはその状態に満足していたりしますし、あるいは、かつてそうだったことに郷愁を抱く女性や、むしろこれからそうなりたいと願う女性もいるからです。
いま話題の書『瘦せ姫 生きづらさの果てに』の著者・エフ=宝泉薫氏が、「細さ」にこだわる現代女性の胸の内と「瘦せの確認」ついて語ります。
瘦せの確認
「それこそ果てしない儀式の始まり。つらいぞ、儀式は」
瘦せ姫にとって、瘦せていることはアイデンティティのようなものでしょう。
もちろん、体重や体脂肪率、ウエストや太もものサイズといった「数字」は目安のひとつにはなります。ただ、そういう「数字」にこだわりつつも、それだけを100パーセント信用できている人はいない気がします。
また、瘦せ姫以外の人からは、鏡の前で裸になればわかるのでは、などと言う声もあがりそうですが……。それも難しいことです。
それゆえ、みなそれぞれに、瘦せていることを確認するための手段、あるいは儀式を取り入れることになります。それも、数字や鏡といった「知覚」や「視覚」によるものではなく、もっと「体感」できるもの。たとえば、自分の手でもう一方の二の腕をつかんでみるというのも、そのひとつです。
二の腕は太ももとともに、かなり瘦せにくい部位で、これがつかめるようならけっこうな細さといえるでしょう。
実際、海外の瘦せ姫が自分の腕を初めてつかめたとき、その画像をインスタグラムに投稿したのを見たことがあります。そこにはこんな、誇らしげなコメントも一緒でした。
「Finally being able to do this !」
和訳すれば「ついに、これができる!」というところでしょうか。身長はわかりませんが、その時点での彼女の体重は35キロ弱でした。
これが20キロ台、あるいはBMIがひとケタになるレベルだと、余裕でできるようになります。人によっては、親指と人さし指で作った輪っかが腕にほとんど触れないくらいにも……。
じつは、アフリカなどで餓死しそうな子供を救う際にも、二の腕の細さが参考にされているのです。おそらく、浮腫みにくい部位だというのも関係しているのでしょう。細さを測るには、危険度に合わせて色分けされた巻き尺のようなものが用いられ「命の腕輪」と呼ばれています。
そういえば、ある瘦せ姫は二の腕をつかめるかどうかを「ガイコツ度」と表現していました。
いずれにせよ、健康面を考えるなら「ついに、これができる!」というレベルで満足したほうがいいかもしれません。
このような、手を使って瘦せを体感するやり方は、他の部位にも有効です。たとえば、両手で輪っかを作り、ウエストや太ももをつかんでみるわけです。ウエストをすっぽりつかむのは難しくても、太ももなら、多くの瘦せ姫がつかめるのではないでしょうか。
いや、それどころか、太ももが片手でつかめるようになった瘦せ姫もいます。
そんなわけで、ウエストや太ももについても、健康のためにはほどほどの細さで満足したほうがよさそうです。
ところで、瘦せを確認するための方法には、手を使う以外に、服を利用するやり方もあります。とくに、瘦せ姫には脚の太さを気にする人が多く、また下半身は浮腫みやすいというのもあいまって、そういった不安から少しでも逃れるために、ジーンズのはき具合などで細さを確認するわけです。
ある瘦せ姫は、毎朝、XSサイズのスキニージーンズをはくことを儀式にしていました。はけるかどうかではなく、ゆるいかどうかが瘦せの基準です。それでゆるかったとしても100パーセント安心とはいかず、一日中、頬骨や鎖骨、腰骨を触ったりすることで確認しなくてはならない、ということでしたが……。
骨といえば、当然のことながら、瘦せていることのバロメーターにはなります。骨が出ていることは脂肪がないことの証であり、それを実感できるかどうかは瘦せ姫の精神を大きく左右するものですから。
それゆえ、椅子に座ったときやベッドに横たわるときに骨が当たって生じる苦痛ですら、安心につながったりもするわけです。
この「苦痛」がときに「安心」でもあるというのは、瘦せ姫ならではの感覚かもしれません。
たとえば、体重などの数字に振り回されるのも、儀式にとらわれるのもよしとしない瘦せ姫がいるとします。それでも、何かしら、瘦せを確認せずにはいられず、その方法として意外なものを見つけていたりするのです。
それは、階段の上り下りなどで疲れるかどうか。普通の体型、普通の体力であれば容易に行なえることで疲れることが、瘦せの証となるわけです。
そういう意味では、生理がないこともバロメーターだったりします。また、細すぎることでじろじろと見られたり、ひそひそといろいろ言われたりすることも。
そう考えると、瘦せ姫はつねに、瘦せを確認できる材料を探しているといえます。それは安心だけでなく、苦痛にもつながるものですから、その両極端な感情の狭間で落ち着くひまもない日々でしょう。
さらにいえば、瘦せを自らのアイデンティティとしている場合、瘦せの確認は自分探しでもあります。ただ、問題は世間的に見て、瘦せ姫の瘦せはなかなかアイデンティティとしては認められにくいということです。
そこに気づいてしまった人にとっては、瘦せの確認もどこかむなしいものでしょうし、それは砂を噛むような徒労感をもたらしていると思われます。
その徒労感について、ある瘦せ姫はこんなコメントを寄せました。154センチで21キロまで瘦せ、いっそこのまま死んで楽になれたらとまで思いつめたことのある人です。
「瘦せてる姿を心配されて、嬉しく思ったら、それこそ果てしない儀式の始まり。つらいぞ、儀式は」
しかも、儀式はこれだけではありません。「確認」だけでなく、瘦せをカムフラージュするためにもそれは必要なのです。
(つづく……。※著書『瘦せ姫 生きづらさの果てに』本文抜粋)
【著者プロフィール】
エフ=宝泉薫(えふ=ほうせん・かおる)
1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』などに執筆する。また健康雑誌『FYTTE』で女性のダイエット、摂食障害に関する企画、取材に取り組み、1995年に『ドキュメント摂食障害—明日の私を見つめて』(時事通信社・加藤秀樹名義)を出版。2007年からSNSでの執筆も開始し、現在、ブログ『痩せ姫の光と影』(http://ameblo.jp/fuji507/)などを更新中。