常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。
巨大な天皇陵は「権力の象徴」ではなかった?
独裁者ではない大王がなぜ巨大古墳を造ったのか?の画像はこちら >>
誉田御廟山古墳(応神天皇陵。大阪府羽曳野市) 写真:関裕二

 蘇我氏の改革事業は、こうして頓挫したのだ。しかし、孝徳天皇を責める気はない。たしかに、大阪には多くの利点があったからだ。
 大阪の長所は、瀬戸内海という日本の大動脈と直接つながることだ。そして、もうひとつ、大阪の優位性があるのだが、それはこのシリーズの後半で説明しよう。
 ここで再確認しておきたいのは、「新政権は難波や河内に移動してはいけない」ということだ。奈良盆地を完ぺきに掌握したあと、難波に進出するべきなのだ。
 だからこそ征服王朝が「まず河内や難波に拠点」を置くのは「普通ならあり得ない」ことなのだ。それこそ、諸葛孔明に、「河内王朝は多くの史学者がいうように新王朝なのか」と聞いてみれば、噴き出すにちがいない。河内王朝論(王朝交替論)は、「戦術」「地形」に精通していない歴史学者の、机上の空論なのである。
 ならばなぜ、五世紀の政権は、河内にこだわったのだろう。


 応神天皇は、難波や河内と強くつながっている。
『日本書紀』応神22年3月条に、難波に行幸し、大隅宮(おおすみのみや)(大阪市東淀川区)に留まったとあり、応神41年2月条に、天皇が明宮(あきらのみや)(奈良県橿原(かしはら)市大軽(おおがる)町)で崩御されたとあるが、分注に「大隅宮で亡くなった」と、異伝を残す。分注が正しければ、応神天皇は難波で後半生を過ごしていたことになる。
 仁徳天皇は、難波に高津宮(たかつのみや)(大阪市中央区。のちの難波宮のあたりと思われる)を造り、仁徳朝を継承した履中(りちゅう)天皇と反正(はんぜい)天皇も、難波と河内に関わっていった。これほど河内にかかわりを持った王家はそれまでなく、だからこそ、一般に、河内王朝と呼ばれているのだ。
 もちろん、彼らが造営した河内の巨大前方後円墳という「目から見た印象」も、強く影響していると思う(これは当然のことだ)。河内王朝の巨大墳墓は、大阪府羽曳野市、藤井寺市、堺市の古市(ふるいち)古墳群や百舌鳥(もずく)古墳群で、どれも山のような威容(いよう)を誇る。
 また巨大な古墳を見上げれば、五世紀の天皇の巨大な富と権力を想像しがちだ。4世紀末から5世紀初頭にかけて、ヤマト朝廷の軍団は朝鮮半島に渡り、高句麗の騎馬軍団と戦火を交えていたことは、広開土王碑(好太王碑)に詳しく記されている。ヤマトの王の統率力の大きさを想像したくなる。
 しかし、ヤマトの王は、そう単純ではない。
遠征軍は「天皇の軍隊」ではなく、豪族層の寄せ集めであり、天皇が独裁権力を握っていたわけではない。
 たとえば、五世紀前半に、吉備には天皇陵とほぼ匹敵するほどの大きな前方後円墳が出現している。半島遠征で力を発揮したのは海の民を支配する豪族たちで、その代表格が、吉備の王(首長・豪族)だったのだろう。天皇が織田信長のような権力者なら、吉備の巨大古墳を黙認するはずもなかった。
 けれども、巨大な天皇陵が「権力の象徴」ではないとすると、何を目的に造られたのかという疑問が生まれる。それは、治水事業だったのではあるまいか。

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑨「治水工事に邁進した仁徳天皇」です。
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