〈連載「母への詫び状」第十四回〉
実家に帰って介護生活を始めたことで、否応なく向き合わされたのが、田舎と都会の違いだ。
小さいことから挙げれば、朝8時前に玄関のピンポンが鳴り、野菜売りのおばちゃんが採れたて野菜を売りに来る。
世界の狭さも、田舎の特徴である。
父親の担当ケアマネジャーの上司(事業所の所長)は、ぼくの中学の同級生だった。
母親の入院先の病院の担当医師は、ぼくの高校の同級生だった。
これが大都市で起こった偶然なら「ワオ、イッツ・ア・スモールワールド!(=奇遇だね!)」と、ハリウッド映画のように大仰な仕草で驚くべきところだろうが、田舎では別段、珍しくもないのだと思う。比喩でなくて本当にスモールワールドだから、似たようなことが低くない確率で起きる。
とはいえ、さすがに母の担当医が、かつての同級生というのは不思議な気持ちだった。自習時間に一緒にトランプで遊んで先生に怒られた仲間が、今は母の命を預かっている。
もしこれが仲の良くなかった同級生なら、病院へ行くたびに気まずかったんだろうか、田舎は怖いなあ、などと思いつつ、そんな〝逃れられない縁〟が、育った町には張り巡らされているのだと実感した。東京で暮らして三十年、もう田舎の縛りからはとっくに自由になったつもりだったのに。
■田舎と都会の一番の違い。しかし、田舎と都会の一番の違いは、もっと別のところにある。それは日常における、死の匂いの近さだ。
地方では結婚式場がどんどんつぶれて、葬式場に変わっていくと、ジョーク交じりによく言われる。若者がどんどん減り、年寄りばかり増えていけば、自然とそうなる。
うちの近所にも冠婚葬祭すべてを手がけるホールがあったが、ほぼ毎日「本日のご葬儀 ○○家」という掲示を目にする一方、結婚式の掲示はたまに見かける程度。
ほかにも、介護施設や老人ホームの多さ、夜に鳴り響く救急車の音、ローカル新聞の「お悔やみ欄」の大きさなど、死や病気の断片が、身近に、当たり前のように横たわっている。回覧板を持ってくるお隣のおばあさんは、いつも線香の匂いがした。
これは自分の両親が病気だったから、ことのほか感じた違いなのかも知れない。でも、それだけじゃないと思う。
スーパーへ買い物に行くと、ある日、惣菜のコーナーを「ぼたもち」が占拠している。お彼岸の全国的な光景と思うかも知れないけど、気合の入り方、振り幅の大きさが、都会のスーパーとは比べ物にならない。
実家に帰る前は、ぼたもちとおはぎの違いも知らなかった。
親の介護に追われていると、暦がさっぱりわからなくなるが、ご先祖様や死にまつわる行事は町が教えてくれる。
お盆が近づくと「供花」があふれるのも当たり前で、お盆に限らず普段からいろんな店で、花の品揃えが充実している。お墓参りや、病院へのお見舞いの習慣が日常だからだろう。
■親戚との距離が近くなって、死を身近に感じるように(画像:フォトライブラリー)田舎へ帰って、親戚との距離が近くなったことも、死を身近に感じるようになった理由のひとつだ。
親が80歳前後なら、親戚のおじさんおばさんもそのあたりの年齢の人ばかり。誰かが旅立てば、参列できない父や母に代わり、ぼくが役目を果たすことになる。
実際に、数年の間に親戚の葬式への参列を何度か経験した。
自分の父方の親戚にはどんな病気を患う人が多いのか。母方の親戚はなんの病気で亡くなった人が多いのか。東京で暮らしていた頃は考えたこともなかった、おらが一族の病気傾向にも目が行くようになった。
それでも、これらの死の近さは、否定されるべきものでもなければ、悲しいことでもない。
子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らしていた体験のある人と、そうでない人とでは、老いへの理解、高齢者への目の向け方が根本的に違うのではないだろうか。
線香やぼたもちの匂いが、日常の中にあふれていたほうが学べることもたくさんある。
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