日本の軍部独走・侵略史観に基づく悪玉扱い、逆の「日本は悪くなかった、悪いのは周りの大国だ」という日本小国史観、海外大国による外圧・陰謀史観。これらの歴史観はすべて間違いだ。
『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』を上梓した倉山満氏が満洲事変の真実に迫る!■なぜ日本は「無敵」といえたのか

 ヨーロッパはバルカン問題に夢中、アメリカはメキシコに手を焼いていて、満洲で相対しているロシアも関心はバルカンに移っています。この時、日本は東アジアにおいて無敵の国でした。

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セオドア・ルーズベルト(1858年~1919年)

 無敵というのはこういった「状況のおかげ」ばかりではありません。国際関係研究で知られる東北大学名誉教授・黒羽茂氏は、『日米外交の系譜 太平洋戦争への抗争史的展開』(協同出版、一九七四年)の中で、次のようなセオドア・ルーズベルトの書簡の一節を引用しています。

 日本人はなんという驚くべき人種であろう。日本は軍事におけるように商業においても注目すべきものがある。

この十数年間英・米・仏は太平洋において互いに相恐れていたが、今後は相互よりも日本人においていっそう恐るべき強敵を見出すであろう(The Letters of Theodore Roosevelt, Ⅲ)

黒羽氏は生涯をかけて日露戦争後の日米関係の緊張を研究した方で、なぜセオドア・ルーズベルトは日本との戦争にふみきらなかったのか、についてたびたび触れています。先述しましたが、日本人移民排斥問題が起きた際にセオドア・ルーズべルトは「心痛のあまり、ついに一九〇七年の夏には、アメリカ陸軍に向かって、いついかなるとき日本軍の攻撃を受けてもよいように準備すべきことを命令するありさま」(同書)でした。悪化する日米摩擦に対応すべく
セオドア・ルーズベルトが立てた構想は、「その第一は、桂・タフト協定を利用して日本のフィリピン攻撃を未然に防止することであり、第二はアメリカ艦隊の世界周航を口実に大艦隊による対日示威行動を展開することであり、また第三には高平・ルート協定の締結によって日本のフィリピンに対する野望を完全に放棄させること」(同書)でした。

 桂・タフト協定とは、首相兼臨時外務大臣だった桂太郎と米国特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされたフィリピンと朝鮮の支配権を相互に認めた秘密の分割協定です。この時点ではまだ正式締結されていませんが、高平・ルート協定とは、太平洋地域における日米の勢力現状維持を主眼においた協定でした。交渉担当者は高平小五郎駐米大使と米国務長官エリフ・ルートです。

つまり、日本が怖くて戦うしかないとまで思い詰めるのですが、外交により動きを止めようと考えたということです。

 なぜセオドア・ルーズベルトは日本との戦争に踏み切らなかったのか、その答えは明らかです。もう一度、上記史料を読んでください。「日本は強いから」です。

 セオドア・ルーズベルトは、後に続く何人かのアメリカ大統領のような意味不明な原理原則論者ではなく、パワー・ポリティクス論者でした。セオドア・ルーズベルトの外交政策は「棍棒外交(Big Stick Diplomacy=ビッグ・スティック・ディプロマシー)」と呼ばれています。

「大きな棍棒を携え、穏やかに話す(Speak softly and carry a big stick.)」から来ていて、セオドア・ルーズベルトはこの言葉を口にするたび、これは西アフリカの諺ことわざだ、と言
っていました。

 軍事的合理性を重んじる力の論理の信奉者です。戦ったら危ない相手と戦争をするような愚か者でもなければ、挑発もしません。そんな、力の論理がわかるセオドア・ルーズベルトという人が大統領だったし、日本もそれを了解してちゃんとした振る舞いをしていたので、その後しばらく日米関係はうまくいきました。

 上記の、黒羽茂氏の著書から引用したセオドア・ルーズベルトの対日構想のひとつである「アメリカ艦隊の世界周航を口実に大艦隊による対日示威行動を展開すること」は、実際に行われました。ペリーの黒船に対し「白船」と日本人は呼んだのですが、一九〇八(明治四十一)年に横浜港にやってきます。

構想通り威嚇にやってきたわけですが、日本は大歓迎します。大歓迎しながら、その裏で日本は同時に大演習を行っています。「何かおかしなことをしたら、
すぐにこの場で沈めて返すからね」という姿勢があるわけです。そういう関係が、真の意味での同盟です。

 現在の日米安全保障条約においては、アメリカは日本のことを「ally」と呼びます。日本語では同盟国と訳されますが、allyには従属、類属の意味があることを忘れてはいけません。

アメリカは外国に対し、対等な関係を認めていません。アメリカにあるのは敵か子分かだけです。ただ、それは二十世紀のことで、そういう体質がもともとあるとはいえ、それを押し付ける力は無い訳です。明治の日本人、特に日露戦争を大勝に導いた総理大臣である桂太郎、あるいは外交官の高平小五郎などは、そうしたことをすべて理解した上で日米友好政策を採っているのです。余談ですが、桂も高平も、司馬遼太郎『坂の上の雲』では、まったくの事実誤認に基づく低評価が下されていますが。

 日本が平和ボケに浸り始めるのと同時に、支那本土は一九一一年の辛亥革命で地獄の運命に突入していきます。

日本に領有された韓国の方がまだましです。

日本は何もしなくていい大国、無敵状態だった!
革命軍に投降する清軍

 朝鮮は日本にとっては海外領です。植民地ではありません。英語にすると、植民地はcolony、海外領はterritoryです。

 しかし当時の日本は、「植民地」を持ったぞ、と喜んでいました。当時の国際標準は帝国主義です。植民地を持つことがステータスであって、一等国、大国としてのプライドなのです。

 今の価値観では「謝罪しろ」となりますが、当時はそういう時代でした。戦国大名が隣国を征服して喜んでいるのと、まったく同じ感覚です。

『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』より抜粋)

次回は、シリーズ⑦辛亥革命とアーバンチャンピオン!? です。