〈連載「母への詫び状」第三十三回〉
「コンダラ」という道具を知っているだろうか。学校や運動施設などで、土や芝のグラウンドをならす整地ローラーの俗称だ。
40代や50代の介護世代のおっさんなら、言葉の由来から知っているだろう。アニメ『巨人の星』のオープニングで流れる主題歌の歌詞に「思い込んだら試練の道を」とある。その「思い込んだら」の部分を「重いコンダラ」と勘違いした人がいて、そこに星飛雄馬がグラウンドで整地ローラーを引いている映像が重なり、「ああ、あのドラム缶を横に寝せて転がすような道具はコンダラというのか。それで重いコンダラか」という、完成度の高い空耳の勘違いができあがった。
この話が当時のラジオ深夜放送などでウケて全国に広がり、いつしか「コンダラ」は整地ローラーの俗称にまで昇格した。ゴダイゴも「コンダーラ、コンダーラ」と歌い上げて大ヒットした…ツッコミ待ちである。
実際には『巨人の星』のオープニング映像に、星飛雄馬がローラーを引いているシーンなどなかったのだが、ウサギ跳びをする一徹と飛雄馬親子を木陰から見守る明子姉ちゃんの映像と同じくらいの浸透度で、ぼくらの世代の脳裏には重いコンダラと星飛雄馬がセットで刷り込まれている。
向田邦子さんのエッセイにも同じような話がある。「眠る盃」という、本のタイトルにもなった一遍だ。
「荒城の月」の歌の中に「めぐる盃 かげさして」という歌詞がある。この「めぐる盃」を向田邦子さんは「眠る盃」と覚えてしまい、歌い始めるとどうしてもまちがえてしまう。
父親の客が帰った後に残されている、お酒の入った盃。
なんとも文学的な、美しい勘違い。確かに盃に残されたお酒は、宴の後、ゆらゆらと揺れているように見える。父親の思い出とも重なっていたのだろう。
■「おちばたき」⇒「落ちバタキ」⇒「バタキ」? ぼくの場合は、童謡「たきび」の歌に出てくる「落ち葉たき」だった。
子供の頃は「落ち葉たき」という単語が頭の中にない。歌詞は「たきびだ たきびだ おちばたき」と歌われるが、この「おちばたき」を「落ちバタキ」だと思っていて、ずっと「バタキって何だろう?」と疑問だった。
たき火を見ながら、自分なりに答えを出した。たき火をしているときに落ちてくるもの、それがバタキだろう。おお、そうか、なんか黒いものが空に舞い上がって、ひらりひらりと落ちてくる、あれだ、あれがバタキだ!
こうして夕暮二郎少年は、たき火のときに出る黒いススや、飛び散った燃えカスを「バタキ」だと思い込み、「たきびだ たきびだ 落ちバタキ」と歌っていた。実話である。文学性のかけらもない。
もう何十年も忘れていた他愛のない記憶だったが、認知症の父親と接して、久しぶりにこのバタキを思い出した。父が家の前で野焼きをしていたからだ。
■つながる父の野焼きの記憶うちには小さな庭があり、いろんな木や花が植えてある。季節になれば、落ち葉もたくさん出る。これらの落ち葉ゴミは集めて、燃えるゴミ、もしくは草花などと一緒に植物ゴミとして出すのが正しい。
しかし、父は落ち葉や草花のゴミを焼却用のカンに入れて、自分で燃やしていた。認知症になった後に表れた症状のひとつだった。
昭和の時代、可燃ゴミを各家庭が野焼きするのはよくある光景だった。それがいつしか法律で禁止されるようになり、ゴミ袋で出す形に変わった。
父も野焼きをやめていたはずなのに、また以前と同じように、家の前で落ち葉などのゴミを燃やすようになってしまった。時間が戻ってしまったのだろう。
「ダメだよ、野焼きは」
「何がダメなんだ」
「家の前で燃やすのは禁止されてるんだよ」
「何を言ってる」
どうにか父を止めようとしたが、理屈で話しても通じるものではないし、言い方に気を付けないとかえって怒らせるだけになる。
仕方なく近くで見守りながら事故のないように終わるのを待つしかなかったが、たまに下校途中の小学生がおもしろがって寄ってきたりして、ああいうときはどうするのが正解なのか、未だにわからない。バタキが子供のほうに飛んだりすると、ひやひやした。
冬になり、たきびだ たきびだ 落ちばたきの歌が聞こえてくると、野焼きをする父と、その横で何もできなかった自分のやるせなさを思い出す。
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