同社は06年のピル社買収以来、外国人社長を2名起用したが、いずれも短期間で辞任し、経営が混乱していた。
だが、その経緯を振り返ると、同社ではトップが自分の名声欲のために経営を弄び、会社を凋落させた姿が浮かび上がってくる。
藤本氏は04年の社長就任以来、当時の出原洋三会長と共にグローバル化を推進、06年に売上規模が倍のピル社を6160億円で買収、子会社化した。それにより日本板硝子はいきなり世界29カ国に拠点を持つグローバルメーカーに変身。海外売上比率もそれまでの約20%から一挙に80%近くに拡大した。
だがこの無謀なグローバル化が、同社凋落の引き金になった。
●「説得セールス」に乗せられた巨額買収
1826年創業と、187年の社歴があるピル社は、日本板硝子に買収された06年当時、世界3位(シェア10%)のガラスメーカー。25カ国に拠点を持ち、約2万4000人の従業員を擁していた。売上高は約24億ポンド(当時の為替レートで約5000億円)だった。
一方の日本板硝子は1918年の創業。06年当時の海外拠点は米、英、中国などわずか5カ国。従業員数は約1万2000人(連結)、売上高は2658億円(同)で世界6位(シェア4%)。両社の差は一目瞭然。
ここで疑問が湧く。まず、なぜこんな不自然な買収ができたのか?
業界関係者は「要するに国際M&Aに暗い日本板硝子が『説得セールス』に乗せられた」と、次のように説明する。
当時のピル社を経営していたのは会長のナイジェル・ラッド氏。ラッド氏は不振企業を買収して業績を立て直し、高値で転売して利益を得るターンアラウンド型の投資家として有名。当時はピル社のほか、欧州ドラッグストア大手のブーツ社の会長も兼務していた。ラッド氏は95年からピル社会長を務めており、自動車向けガラスが好調で業績が急回復していた06年当時のピル社を「売り抜け時」と判断したようだった。
買収交渉で日本板硝子はこのラッド氏に丸め込まれ、合意に達した時のピル社株の買収価格は1株165ペンス(当時のレートで約340円)、総額18億ポンド(約3585億円)。関係者の間では「約30パーセントものプレミアムが上乗せされた」と指摘されていた。結果、ピル社の有利子負債借り換え分を含めた買収額は30億ポンド(約6160億円)に膨れ上がった。
同関係者は「日本板硝子は綿密に調査し、周到な備えで買収交渉をしたとはとても思えなかった。だからラッド氏の説得セールスに、やすやすと乗せられた」と言う。
●打倒・旭硝子の安易なシナリオ
次に、日本板硝子は、なぜこんな不自然な買収にこだわったのか?
別の業界関係者は「それは国内トップの旭硝子へのライバル心だった」と、次のように説明する。
日本板硝子はIT業界が「ネットバブル」で沸いていた2000年、光通信向けのレンズ事業拡大を計画。「10年に『情報電子会社』になる」とのビジョンを出原洋三社長(当時)が掲げ、10年間で200~300億円を投資し、相模原工場(神奈川県)、四日市工場(三重県)のほか、米国など海外でも生産拠点を拡充、同事業の売上高を約6倍の1200億円に拡大するとしていた。
ところが、計画を打ち上げた直後にネットバブルがはじけ、北米などの光ファイバー通信向け投資が一気に冷え込み、光レンズの需要も急減。最終的に累計で100億円を超える損失を出し、5工場を閉鎖。02年3月期に22億円、03年3月期に31億円の最終赤字を計上した。
トップの希望的観測による、市場見通しの甘さだったと言うほかない。
同社が「情報電子会社」への脱皮に力を注いでいた頃、ライバルの旭硝子は薄型テレビ用ガラス基板などに大型投資を行い、着々と収益を拡大していた。
05年12月期連結の旭硝子の売上高は1兆5266億円、最終利益600億円。06年3月期連結の日本板硝子の売上高は2658億円、最終利益は77億円。
その差は歴然。日本板硝子は、旭硝子をライバルと呼ぶのもおこがましい地位にあった。
そんな時期に英国から突然迷い込んできたニュースが、ピル社身売り話。05年秋のことだった。しかも当時の日本板硝子は「光レンズ事業失敗の傷がまだ癒えず、リハビリ中」と言われていた時期だった。
それでも「世界3位のピル社を買えば、宿敵旭硝子との差を一挙に詰められる」と買収にのめり込み、グローバル化の推進で名を挙げようとの野望に目がくらんだのが、藤本氏と出原氏の2トップだったといえる。
●一夜漬けのグローバル経営の末路
ピル社買収後の同社は、一夜漬けでグローバル経営に対応しようと、08年6月から委員会設置会社へ移行。日本人による企業統治を担保するため、12名の取締役中7名を経営監視役にした。残り5名を取締役兼執行役員に任命、うち4名が外国人だった。
同社はこれを「日本人が睨みを利かせ、外国人が経営する、ハイブリッド経営体制」と自賛、これで容易にグローバル経営ができると考えたらしい。
そうして、グローバル経営の海へ船出した「日本板硝子丸」が船頭に起用したのが、買収時のピル社社長、スチュアート・チェンバース氏だった。
同氏はロイヤルダッチシェルとスナックメーカーの社員を経て96年に当時経営再建中のピル社に入社。02年に同社社長となり、買収後の06年に日本板硝子取締役、07年副社長、08年6月に代表取締役社長に就任した。日本板硝子に買収されるまで、日本企業との接点は何もなかった。
すると案の定、チェンバース氏は翌年8月、在任1年余りで「仕事より家族との時間を大切にしたい」と、理由にならない理由で突如辞任、帰国してしまった。
そこで同社はこの時、会長になっていた藤本氏がリリーフで社長に復帰、その間に同社は、米デュポン副社長を務めた後は経営から身を引いていたクレイグ・ネイラー氏をヘッドハンティング、10年6月に同氏を「2代目の外国人社長」に据えた。
それも束の間、ネイラー氏も12年4月、「他の取締役たちと経営戦略の考え方が合わない」と、1年10カ月で突然辞任してしまった。後任には吉川恵治副社長(当時)が昇格、現在に至っている。
かくして「グローバル企業を経営できる人材が日本人の中にいない」という理由で安易に始めた愚かな「ハイブリッド経営体制」は、もろくも崩れ去ってしまった。
●現場の混乱と有能人材の流出
「日本板硝子流グローバル化」の象徴だった「外国人社長」の相次ぐ辞任は、事業を混乱させただけだったようだ。
成長の牽引車と位置付けていた太陽電池用ガラスは、主要顧客が大幅減産に向かっているのに加え、中国メーカーの安売り攻勢で世界的な販売価格下落が続いている。
ブラジルでは自動車ガラスの生産能力を50%以上高めたが、こちらも中国メーカーの低価格品に押され、操業率は低迷している。「グローバル化で宿敵旭硝子に肉薄」の夢に酔い、2トップの名声欲を後押しに、後先を考えずに買収したピル社のツケは大きかったようだ。
何よりの思惑外れは、08年9月のリーマンショックとその後に続いたギリシャ債務危機で、ピル社の主戦場である欧州が大不況に陥り、ピル社の業績が壊滅的な打撃を受けたことだ。
事業撤退や希望退職者の募集など、国内外で度重なるリストラも余儀なくされて多額損失を計上。買収によって膨らんだ有利子負債の金利負担も重くのしかかっており、13年3月期は280億円の純損失と2期連続の赤字を見込んでいる。
現在は昨年4月に就任した吉川社長が中心となって経営再建に取り組んでいるが、今のところ成果はなく、14年3月期も3期連続の赤字が避けられない見通しだ。
同社の危ない経営に見切りをつけ、10年に独立した技術系の元社員は「事業撤退もあり、有能な人材が200名以上も会社を去った。外国人社長が続き、英語が得意で外国人社長イエスマンばかりが重用される風潮に、みんな嫌気が差した」と振り返る。
また総務系の元社員は「グローバル化の掛け声で始まった人事評価、物流システムなどの改革は、これ以上はないと思われるぐらいの翻訳もの。現場を混乱させるだけだった。結局、グローバルになったのは役員たちの給料だけ」と顔をしかめている。
グローバル化失敗により退任した藤本氏のケースは、経営における「生兵法は大怪我のもと」の教訓でもあろう。
(文=福井晋/フリーライター)