自分がそれまで知らなかったことを知りたいと思う気持ちは、誰にでもあるのではないだろうか。このような気持ちが強い人ほど心豊かな人生を送れるような気がしてならない。
藤丸陽太は、洋食屋「円服亭」の住み込み店員。円服亭は、東京都文京区の国立T大学の赤門向かいあたりに小さな店を構えている。店主である円谷正一の腕がいいおかげもあって、T大の学生や教職員で繁盛している店だ。勤め始めて半年になる藤丸には、気になる5人連れの常連客がいた。男性3人+女性2人の中で最も年長の男性は40代半ばと思われ、「いつも黒いスーツを着ているが、ネクタイはしていない。
藤丸は正直なところ学生時代はあまり勉強熱心ではなく、「生物科学」が具体的にどのような学問を指すのかはっきりわかっていなかった。
次の章は本村の視点で物語が進む。子どもの頃からわりとボーッとしているタイプだったと思われる本村は、植物が好きだった。もともとは私大の学部生だった彼女は、研究する対象がそれまで通り大腸菌でいいのだろうかと迷いを持つようになる。
藤丸は本村を好きになって、告白するが玉砕。
本書を読んでいる間、ずっと『愛なき世界』というタイトルのことを考え続けていた。恋心を打ち明けた藤丸に本村が口にした、「植物には、脳も神経もありません。
植物を研究することも、料理の腕を磨くことも、それらを好きでやっている者にとってはまさに人生の喜びである。さまざまな人間がさまざまな意志を持って生きている。そして、さまざまな動植物がさまざまな適応能力を発揮して生きている。もしもう一度地球の歴史をやり直しても、すべての進化が同じように発生することはないのだそうだ。研究者だけれどもけっこう融通の利かないところのある本村も、あまり物事を考えていないようでいて意外と柔軟な発想をする藤丸も、すべての生物が多様性の産物であることの一例といえるかもしれない。この世界に生まれてきたのは気の遠くなるような偶然が重なって起きた奇跡だとすれば、本村の研究に邁進したいという気持ちも、藤丸の好きな人と心を通わせたいという気持ちも、きっとどちらも正解なのだろう。
そうそう、本書に関してもう1点。本書は装幀の美しさでもひときわ目を引くものになっている。さる10月12日夜に東京・下北沢の書店B&Bにて開催された三浦しをんご登壇のトークショーに参加してきた。トークの内容は三浦さんと担当編集者の石川由美子さんによる、『愛なき世界』の装幀が生み出されるまでの醍醐味とご苦労などについて。「これはきれいな表紙だな」「好みの絵だわ」となんとなく気にはなっていた装幀というものが、実はこんなドラマティックな過程を経て作り上げられているものだったなんて! そう、一冊の本を作る際にも、たくさんの人の「どう書けば読者に伝わる?」「どんなやり方ならイメージに近い沿ったデザインになる?」「植物をいきいきと描くにはどんな風にすればいい?」といった強い思いや好奇心が集まってできあがるのだ。三浦さんたちのお話はもっともっと聴いていたいと感じるほどおもしろく、自分にもまだ「知りたい」気持ちが残っていることが心強く感じられた一夜でした。
(松井ゆかり)