しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。
日本の2013年は、「ヨイトマケ・ショック」とともに明けた。
さて、そんな謎めいた人物の本質に迫りたいときこそ、ラジオの出番である。
今回の番組は一貫して、「人生を楽しく過ごすための知識と文化について」というテーマで進行された。これは普段から美輪が唱えている主張であり、「知識と文化は心のビタミン」という言葉が象徴的である。「今の日本人は、肉体を維持するための栄養は過剰に摂取しているが、一方で心の栄養分である知識と文化が不足し、精神が栄養失調を起こしている」と美輪は言う。これは「知識」や「文化」という言葉から何を思い浮かべるかによっては、あるいは非常に説教臭く感じる主張かもしれない。たとえば「知識」から「受験勉強」を、「文化」から「形骸化した古くさい慣習」を連想するならば、これはまったく面白味のない主張と感じられるだろう。
だが番組内で、美輪はもうひとつ、「遊び」という重要な言葉を頻繁に使っている。
美輪は文化を「日常を逃れ、ロマンの世界に身を浸し、リフレッシュするための先人たちの知恵」と定義する。その代表が「祭り」という文化であり、ゲストの荒俣は、「被災地のお年寄りに話を聞くと、みんな口を揃えて『お祭りやりたい』と言っている」と語る。これはまさに「遊び」の重要性を示しているが、「遊び」という言葉の意味するところは、そういった大掛かりなものばかりではない。
そして、美輪の「遊び」の感覚を象徴する逸話として極めつきなのは、番組後半に披露された、江戸川乱歩との出逢いのエピソードである。美輪の舞台『黒蜥蜴』に話題が及び、その原作者である江戸川乱歩、そして脚本を手掛けた三島由紀夫との関係について荒俣が訊ね、その質問に答える形で、美輪は次のように語った。
ある日、東京へ出てきた美輪が歌っていた銀座の店に、中村勘三郎(先日亡くなった18代目勘三郎の父)が、江戸川乱歩を連れてきた。美輪はかねてより乱歩作品の読者であったため、乱歩に「先生、明智小五郎ってどんな人?」と、小説に登場する架空の私立探偵について訊ねた。
そもそも、この話をしているときの美輪が、「こないだ亡くなった勘三郎さんのお父様の勘三郎さんが」と説明を加えたり、「江戸川さんが」と江戸川乱歩を「さんづけ」で呼んだりしているのを聴くだけでクラクラするような、まるでおとぎ話のような世界観だが、この稀有な会話の端々からも、美輪の言う「遊び」の感覚が、16歳にしてすでに美輪の中に存分に備わっていたということが証明されている。しかも、この会話の主導権を握っているのは乱歩ではなく、明らかに美輪のほうである。最初に架空の人物について、その作者に真正面から訊ねるということ自体が、「遊び」を仕掛けているといえる。
『紅白』における「ヨイトマケの唄」が大きな感動を呼んだのは、もちろん「母が子を想い、子が母を想う」歌詞の内容によるところもあるだろう。だがより重要なのは、我々がそこから受け取ったものが、一般的な「共感」に基づくぬるくて心地よい感動ではなく、もっと先鋭的で突き刺さるような、決定的な感動であったということだ。その感動の種類は、「共感」というよりは「違和感」といったほうが近いものであったかもしれない。ひとりで男女複数の役割を演じるというスタイル、歌が主役と割り切っての黒衣黒髪にシンプルなカメラワークという極端にミニマムな演出、以前は出場を断った『紅白』に77歳にして初出場するという英断、「紅組と白組の間の桃組で出ます。衣装はヌードです」という事前会見での軽妙洒脱な発言など、美輪の言動はすべてにおいて遊び心にあふれている。そんな「遊び」の精神こそが美輪明宏の得体の知れなさの正体であり、そのカリスマ的魅力の根源にある。
「遊び」と「感動」という言葉は、イメージ的になかなか結びつきにくいかもしれないが、優れた芸術やエンタテインメントの中で、それらは必ずや両立している。お涙頂戴の「遊びなき感動」まみれの今だからこそ、いま一度「遊び」の重要性を見直す必要があるだろう。
(文=井上智公<<a href="http://arsenal4.blog65.fc2.com/"target="_blank">http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)