『家、ついて行ってイイですか?』(テレビ東京系)は、街行く市井の人の飾り気ない生活を切り取るコンセプトが人気の同局の看板番組だ。しかし、最近は別の価値も備わり始めている。
3月10日放送回のゲストは泉谷しげると玉井詩織(ももいろクローバーZ)。実は、この座組には意味があった。
下北沢で声を掛けたのは、泉谷しげるも尊敬するレジェンドだった!
2020年7月、下北沢で番組スタッフが声を掛けたのは麻雀帰りだという76歳の男性。音楽関係の仕事に就いているらしい。「家、ついて行ってイイですか?」と申し出ると承諾してくれたので、喜多見にあるという家へ向かった。タクシーの車中でスタッフによるインタビューが敢行される。お名前を聞くと、男性は「南正人です」と自己紹介をした。その瞬間、VTRを見る泉谷が声を上げた。
「あっ! 正人かよ? (南は)先輩で……」(泉谷)
下北沢で飲んでいると油断ならない。飲み屋で何気なく会話した初対面の人が、実は有名なミュージシャンや喜劇人だったりすることが結構あるのだ。今回は、まさにそのパターンだ。
南さんのご自宅にお邪魔すると、そこは4階建てのビルだった。40年連れ添った奥さんに70歳で離婚を切り出され、現在は両親が建てたビルの地下室で生活しているという。ちなみに、彼の弟さんはビルの2階に住んでいるらしい。
それにしても、凄い部屋である。土足OK。整理はされておらず、雑然としている。マンガ『刃牙』のコミックスが置いてあったり、気ままに生活しているようだ。そんな中、棚に無造作に置いてあったのは『回帰線』なるタイトルのCDである。71年に彼がリリースしたファーストアルバムだ。
「名作中の名作ですよ。歌が素晴らしい! このアルバムで勉強しましたねえ。もう、尊敬するミュージシャンですよ」(泉谷)
南正人はレジェンドだ。
「俺を引き抜いたプロダクションのディレクターがいて、テレビに出され始めたわけ。堅っ苦しいんだよ、テレビ局ってさ。終わったらみんなでね、『カメラに向かって手を振ってください』だとかさ、『冗談じゃないよ』って俺なんかそっぽ向いちゃってさ。俺はテレビに出て有名になりたくてやってる音楽じゃなくてさ、社会と共に生きてる歌を歌わなくちゃダメだって思ってさ」
ある意味、南と泉谷は対照的な生き方に見える。そんな南にも家庭を持っている時期があった。6年前に離婚した理由は以下だ。
「まあ、旦那は前科者でさ。
ドラッグ歴について飄々と語る本人が言う通り、南さんは1980年にヘロインや覚せい剤を使用した罪で逮捕された。また、『回帰線』のラスト曲「果てしない流れに咲く胸いっぱいの愛」は全員に大麻を回し、ラリった状態で録音されたというエピソードが有名だ。自由人ほど独身率が高くなるのは避けられない運命である。でも、子どもとの仲は良好。現在は、ドラマーの息子さんと同じバンドで活動しているらしい。
この番組のいいところは、大物と遭遇してもスタッフが無知なため怖いもの知らずでグイグイお願いできるところだ。「ちょっと、生で(曲を)聴きたいんですけど」というスタッフのリクエストに応え、南さんはギターで『スタート・アゲイン』を弾き語りしてくれた。浅川マキをゲストに迎え制作された名曲である。
「あー、どうしてこんなになっちまったんだい 俺は帰ってゆくぜ 俺の生き方に」
――いい歌ですね。
南 「うん、いい歌多いよ。まだまだ! アゲイン、アゲイン、アゲイン。何度も何度も立ち上がっていこうっていう。どの生き方も俺を満足させることはできない。俺は俺の生き方に戻っていくと。俺の道を行くのが一番だ」
――今、76歳。何歳まで生きたいっていうのはあるんですか?
南 「いくらでも生きるよ。地球が断末魔上げるのを見届けてやろうと思ってるから」
2020年10月に吉祥寺でスタッフが声を掛けたのは44歳の独身男性で、名前は沖内辰郎さん。職業は看護助手だ。「家、ついて行ってイイですか?」と尋ねると、沖内さんは快諾してくれた。
中に入ると、絶妙に汚い。男1人暮らし、絵に描いたように散らかっていた。ちなみに築40年のこの家は彼が20代前半に1,000万円で購入した物件で、お母さんに住んでもらうために用意した一軒家らしい。でも、今は沖内さんだけが住んでいる。
「『古いの嫌だなあ』っていう話になってきて、(母だけ)引っ越しちゃったんです(笑)」
彼がまた、不思議な人なのだ。雨漏りした天井をそのままにしているし、節約のためガスを自主的に止めている。「食べ物はここに保存すればいい」とカップラーメンまで冷蔵庫に入れているし、お母さんが35年前に作った謎の漬物をまだ冷蔵庫に入れっぱなしにしている。しかも、それを食べてるし! 本人自体は爽やかなだけに、余計に家のほうが異常事態に見えてくる。
ただ、お洒落な一面もある。棚を見ると大量のCDがアルファベット順に並んでいるのだ。
「今、バンド組んでるんですけど、面白いんですよ結構。生き甲斐ですね」
沖内さんが音楽を始めたきっかけは、ブルーハーツ。デビューアルバムに収録された名曲「パンク・ロック」を中学時代に聴き、ショックを受けた。
「ロックンロールの全てがここに詰まってるなと思って。この曲を知らなかったら楽器をやってないんじゃないかな。こういうロックンロールを日本語で歌っていたのは、当時(甲本)ヒロトだけだったなあ」
「高校卒業して、親に(プロになりたいと)言ったことありますが、反対されました。『絶対、食えないからやめとけ』って。で、『食いっぱぐれのない仕事をやって音楽は趣味でやる程度にしなさい』って」
趣味として音楽を続けているうちに、沖内さんは40代になった。実は彼、ヒロトからバンドに誘われたことがあるそうだ。ハイロウズが解散し、クロマニヨンズが結成される前のタイミングである。
「満員電車の中にヒロトがいたんですよ。耳元まで行って『ヒロトさんですよね? 僕、すごいファンなんでいつでも応援してますからね』って言ったんですよ。そしたら、向こうがニヤッて笑って『良かったら一緒にバンドやろう』って言ってくれたの。それはリップサービスのつもりで言ったのかもしれないけど、嬉しかった。『良かったらバンド一緒にやろう』って、そんな幸せあるんだろうかって思ったんだけど」
この呼びかけに沖内さんは何も答えず、握手だけして別れたそうだ。
「その後にクロマニヨンズが結成されて『もしかしたらクロマニヨンズで僕がベース弾いてたのかなー』って、嫌なことがあったときとかついつい(笑)」
ヒロトからの言葉を彼はリップサービスと言ったが、その通りだと思う。「俺も頑張る。お前も頑張れ」というヒロト流のエールだったのだと思う。ただ、伝え方が最高だ。この呼びかけは沖内さんにとってギフトであり、宝物だ。
「リップサービスって言ったじゃん。そりゃそうだと思って。でも、僕は受け取っておくことでそれが一生の宝になるし、自分のためにもなると思って。そこに向かって行くことができるから」
そして今、共に音楽を楽しんでいる仲間たちも最高のようだ。
「今やっているバンドもね、すごい楽しいんだよね。ちょっとした縁で今、すごい人とバンド組んでるんですけど、やり甲斐をすごい感じる。今、最高のバンドをやれてるかなあと思って」
「音楽を続けることが夢だった。だから今、夢叶ってるんじゃないかな」
ちなみに、沖内さんはバーレスクエンジンというバンドのベーシストだったことがある。当時は「沖内“Q”辰郎」の名前で活動していた。趣味の一言ではとても収まらない活躍ぶりだ。
沖内さんの取材から2カ月後、スタッフの元に沖内さんから1通のメールが届いた。
「南正人を取材されたスタッフ様へお願い。1月7日にステージ上で亡くなられた南正人さんが貴社の取材を7月ごろに下北沢で受けました」
「私はそのステージでベースを弾いていた者でしかも僕は吉祥寺から新座の家まで取材を受けました」
何だか、とんでもない偶然が起こっている。今年1月、南さんはライブ中に亡くなった。この事実はニュースとして報道されたので、筆者も放送前からそれは知っていた。だから、番組が去年行った取材映像は日本ロック史における貴重な資料になるのだ。
偶然はこれだけではない。全く違う場所で取材した2人が実はバンドメイトで、しかもラストライブの舞台まで一緒にいたという衝撃。取材時、沖内さんは「今、すごい人とバンドを組んでる」と口にしたが、それは南さんのことだった。膨大な取材数の賜物と言えばそれまでだが、だとしても運命に導かれたかのような展開である。事実は小説よりも奇なり。麻雀じゃないが、引きが強い。そこにはシナリオなんて無い。だから、余計に心に突き刺さる。スタッフは宮内さんの家を再訪した。
「(南さんは)思いっきりギターを弾いていたんで、弦が切れたんですね。で、他のメンバーがそれに気付いて、弦を替えるか他の人にギターを借りようとしたんですけど、その準備をしてるときに倒れて、ステージ上で亡くなってしまって」
南さんの最後のライブは記録用に撮影されていた。それを宮内さんは見せてくれた。映像の中の南さんは声が力強いし、直後に亡くなるなんてとても信じることができない。ライブで彼は歌っていたのだ。
「まだまだ行こうぜ keep on movin’(動き続けろ) keep on going(進み続けろ)」
「まだまだ行けるぜ keep on movin’ keep on going」
ギターをかき鳴らしていたら弦が切れたことを仲間に指摘され、椅子から立ち上がった南さん。その後、ギターを抱えたまま倒れこみ南さんは逝った。
不謹慎かもしれないが、ミュージシャンとしてこれ以上ない死に様だと思う。ステージに立つ人間がステージで息絶えた。本望だったのではないか? 弦が切れると共に命も切れた。しかも、最後に歌った歌詞は「まだまだ行けるぜ keep on movin’ keep on going」だ。人間が理想の死に場所で終焉を迎えることが、どれほど難しいか。長年愛したギターを抱え、一心同体のまま旅立った。一番好きなことをしているときに亡くなったという事実は、素晴らしい人生を送った証になると思う。生き方を貫けば、理想の死に方ができる。南正人はカッコいい生き様を見せ、カッコいい死に様を見せた。
後日、南さんを取材したディレクターは喜多見にあるビルへ弔問に伺った。応対してくれたのは、南さんにそっくりな6歳下の弟さん・和男さんだ。
「今、遺骨になって地下におりますから」(和男さん)
例の地下室に足を踏み入れると、雑然としていたはずの秘密基地が綺麗に整理されていた。祭壇が設けられており、お線香を挙げにファンや友人が連日訪れるそうだ。訪れる人がいない日はない。しかも、来る人来る人一様に悲壮感もない。南さんは幸せな人生を送ったのだと思う。
南正人は好きなことに没頭し、生涯を終えた。「一方、自分はどうなのか?」と自問自答し、モヤモヤした気持ちを筆者は晴らせずにいる。彼の人生がうらやましくて仕方がない。泉谷も南さんの最期に思うところがあったのではないか。ワイプに映る泉谷の表情はリアルだった。
矢作 「すごい偶然だったね、あのベースの人との出会いもね」
泉谷 「偶然って奇跡だね」
偶然は奇跡だし、奇跡は必然だった気がする。できることなら、泉谷の話をもっと聞きたかった。今回といい、イノマーの回といい、凄い番組だ。合掌。