アントニオ猪木(Gety Images)

 12月8日放送アメトーーク!』(テレビ朝日系)で行われたのは、「アントニオ猪木スゴイぞ芸人」。今年10月1日に逝去したアントニオ猪木をテーマに据え、伝説や名場面を紹介する特集だ。

 実はこの企画、猪木の生前から話は進んでいたものの、結果的に追悼という形になってしまったらしい。なんにせよ、『ワールドプロレスリング』を放送するテレ朝で、かつ、『ワープロ』のディレクターだった加地倫三プロデューサーが制作する『アメトーーク!』だからこそ、形になった企画と思うのだ。

 とはいえ、同番組が今まで「アントニオ猪木」をテーマにしてこなかったという事実は、意外でもあった。

 少しこじつけると、今回の『アメトーーク!』が放送されたのは、12月8日の午後11時30分~12月9日深夜12時30分の1時間である。そして、かつて“神の子”(「神」とはもちろん猪木のこと)と呼ばれた中邑真輔がIWGPヘビー級王座を史上最年少記録(23歳9カ月)で戴冠したのも、2003年の12月9日だった。

 今回、スタジオに登場したのは、有田哲平くりぃむしちゅー)、ケンドーコバヤシ勝俣州和、ユリオカ超特Q、増田英彦(ますだおかだ)、古坂大魔王という6人の芸人。どうやら、全員が猪木にまつわる衣装を選んで来ていたようだ。例えば、ケンコバは猪木が元妻・倍賞美津子との旅行時に着ていたアロハシャツ(に似たデザインのシャツ)を着てきていたし、古坂は自前の初代IWGPチャンピオンベルトのレプリカを持参してきた(ちなみに古坂は小6のときに猪木に弟子入りを直訴し、断られた過去がある)。猪木コスで、すでに大喜利が始まっているのだ。

 セットをよく見ると、背景のカエルのぬいぐるみの首には赤いタオルが巻いてあり、MC・土田晃之(体調不良になった蛍原徹の代役)の横にはコシティが置いてあった。そして、その横には猪木の等身大パネルが飾られている。

「このパネルはもともと、新日本(プロレス)の道場に飾られてあったの。棚橋(弘至)が『猪木さん路線から抜け出さなきゃいけない!』ということで、道場から外してしまったんですよ。で、それを捨てようってなった。でも、棚橋は自分で外したけど、『いや、外したけど捨てちゃダメ』って言って。倉庫にずっと置いてたやつをお借りしてきたんです。たぶん、売ったら何千万円とするんじゃないの?」(有田)

 棚橋が外したという話が定説となっているが、実際、棚橋は「外したらどうですか?」と提言しただけである。パネルを直接外したのは、新日本プロレス選手寮で寮長を務める“虎ハンター”小林邦昭だ。2019年の台風で多摩川が氾濫し、新日道場に浸水した流れで廃棄されそうになったものの、すんでのところで救出され、今まで道場に保管されていたらしい。

 つくづく、捨てなくてよかった。「売ったら何千万円~」という有田の推測は決してオーバーではなく、この猪木パネルには1000万円以上の値が付いてもおかしくないと思う。

猪木はなぜ、グレート・アントニオにキレたのか?

 “今のプロレス”と“昔のプロレス”は、はっきり別物と分けていい。どちらに肩入れするという問題ではなく、試合の中身からファンが惹かれる要素から、ほとんど別物なのだ。そうすっきり分けてしまったほうが、筆者のような懐古厨からするとストンと腑に落ちる。

 昭和のプロレスを見ていたら、いろいろな部分が目につく。今はコロナ禍ということもあるが、昭和のプロレス会場は現在では考えられないほどお客さんが多かった。客席がギッチギチなのだ。リングサイドのカメラマンが持っているのは、マニュアルでピントを合わせるフィルムカメラである。そう考えると、当時のカメラマンの腕前はすごい。

 会場内はたいして空調が効いておらず、(当時の)テレビ用ライトのせいもあり、リング上のレスラーは今の選手以上に汗だくだ。リングサイドに座る当時の若手勢の顔ぶれを見るのも楽しい。今や大物になったレスラーたちが、いそいそとセコンド業務に励んでいるのだ。もちろん、実況を務めるのは古舘伊知郎。やはり、猪木の熱戦を彩るアナウンサーは古舘に尽きる。

 そして、どうにも陳腐な表現だが、アントニオ猪木がセクシーなのだ。猪木の魅力について、「“強い男”が発するものではなく“悪女”のそれに近い」と評した人がいたが、言い得て妙だと思う。

 今回の特集、最初に放映された試合は、いきなりのっけからストロング小林戦(1974年)だった。プロレスを見ない人には、『風雲!たけし城』(TBS系)に出演したストロング金剛と紹介したほうがわかりやすいだろうか?

 この頃の両者の風貌(髪型、骨格など)は瓜二つで、リング上で向かい合う2人の姿はまるで双子みたいだ。ちなみに、小林は昨年12月31日にのう肺で他界。猪木も小林も、もう2人ともこの世にはいない。

 おとなしい性格の小林に猪木がパンチを見舞うなど、猪木が意識的に小林を怒らせて怒涛の攻めを引き出し、名勝負へと昇華した試合である。フィニッシュは、相手の体より早く猪木の額がマットに着地し、衝撃で猪木の足がバウンドした“首で支えるジャーマン”だ。むしろ、猪木のほうがダメージを受けていそうな決まり手は、「こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない」という猪木のコメントに強い説得力を与えた。

 続いて紹介されたのは、1977年における“密林王”グレート・アントニオとの一戦だ。令和の地上波でこれを流すとは。この試合の見どころは、猪木がキレた瞬間にある。密林王による力任せのハンマーパンチを首筋に受け続ける猪木。数発目で「ここで猪木はキレた!」という瞬間が、ファンにははっきりとわかるのだ。

 今のテレビの感覚で言うと、流血の展開は問答無用に放送から外されそうなもの。しかし、「猪木を語る上でこの試合は欠かせない」と判断、容赦なく顔を蹴り上げられる密林王の姿を当然のように紹介した番組の姿勢からは、覚悟を感じた。なにしろ、セコンドに付いたブレイク前の長州力の表情は完全にドン引きしているのだ。ちなみに、日本プロレス時代(1961年)にグレート・アントニオが来日した際も、彼は猪木の師匠であるカール・ゴッチから制裁を受けている。こちらは、猪木が若手時代の話だ。

 ところで、猪木はなぜあれほどまでキレたのだろう? スポーツ写真家の原悦生は、『プロレス名勝負読本』(宝島社)の中で、以下の3つの理由を挙げている。

・力道山時代に封印された怪物が、“生きた化石”としてカムバックしてきた。「アントニオ」という同じリングネームも、猪木にとっては刺激的だったはず。

・ゴングが鳴ってもせせら笑い続け、猪木がドロップキックを放っても蚊でも止まったかのように腹を突き出し、笑い声を上げるその態度。密林王が笑うたびに、猪木の怒りはピークへ向かっていった。

・これは古舘伊知郎の説だが、密林王は体が臭かったらしい。普段から風呂に入らず、体臭がキツかったのだ。逆に毎試合、シューズに新しい紐を通すのが猪木である。臭いレスラーとのコンタクトを嫌ったため、猪木はシューズの部分だけで短時間決着に向かった。

 巡業中に奇行を繰り返すなど、トラブルメーカーだった密林王。反面、地元のカナダ・モントリオールでは、恵まれない子たちのため熱心に募金活動を行うという一面もあったそう。以下は、密林王のマネージャーだったディーバック・マサンドの証言である。

「これまでのプロレス史に類を見ないキャラクターを演じ続けたのは、人よりも余計に金を稼ぐ道はこれしかないと自分に言い聞かせていたんだと思うよ」

「日本では大声をわめきたてて周囲の人間に迷惑をかけていたが、あれは日本だけです。モントリオールではまったくやらなかった」

「猪木に鼻を折られたときのことはあの後も一切話さなかったし、不平もこぼさなかった。誤解されている部分は多いが、本当に彼は心の優しい男でしたよ」(「日本プロレス事件史vol.4」ベースボール・マガジン社より)

 猪木史で欠かせない試合といえば、真っ先にモハメド・アリ戦が挙がる。

「1975年3月、アリはまだチャンピオンだったんです。そのとき、『東洋人で誰か俺に挑戦する奴はいないのか?』ってアリが言ったんです。それが猪木の耳に届き、猪木がアリのところに果たし状を持っていくんです」(勝俣)

 当初、アリはショー要素の強いアメリカンプロレス的な試合を想定していたが、猪木にそのつもりはなかった。ご存知の通り、この試合は完全リアルファイトで行われている。

 つまり、エキシビジョンを考えていたアリにMMA的な試合形式を飲まさせた猪木陣営の偉業なのだ。逆説的に考えると、この試合を受け入れたアリも凄い。余談だが、76年にパキスタンを遠征した猪木は、現地でだまし討ち的にリアルファイトを強制され、そこで完全勝利を収めている。「折ったぞー!」の台詞で有名なアクラム・ペールワン戦だ。

 話をアリ戦に戻すと、この試合を経たことにより猪木とアリの間に友情が芽生えた……と、日本のファンには伝えられている。

増田 「(この試合で)友情が芽生えて、アリが猪木に贈った曲が、その後に我々が聴く“イノキ ボンバイエ チャーンチャーチャーン♪”(『炎のファイター』)です」

古坂 「あれはもともと、『アリ・ボンバイエ』って曲だから」

「ボンバイエ」とは、一体なんなのか? リンガラ語で「やっちまえ」「ぶっ殺せ」という意味である。つまり、「イノキ ボンバイエ」は「猪木、ぶっ殺せ!」という意味なのだ。今や、我々の耳には「アリ ボンバイエ」はどこか間延びした響きに聴こえ、「イノキ ボンバイエ」のほうがしっくり聴こえてしまうのだから、不思議なものである。

 猪木が行う異種格闘技戦シリーズは「格闘技世界一決定戦」と銘打たれ、アリ戦や柔道金メダリストのウィリエム・ルスカ戦以降も続いていった。

「格闘技世界一決定戦は凡戦と言われるような試合もあるんですよ。その中でも、実は『噛み合ってすごい熱いぞ』という試合があって」(ケンコバ)

 ケンコバが挙げたのは、プロ空手世界ヘビー級王者として名を馳せた、ザ・モンスターマンとの一戦(77年)だ。日本正武館の鈴木正文館長がレフェリーを務めたこの試合を、“格闘技世界一決定戦のベストバウト”に挙げる人は少なくない。フィニッシュホールドは、今ではパワーボムと呼ばれているテーズ式パイルドライバーであった。

「猪木さんが『自分が1番強い』と証明するために始めた異種格闘技戦だけど、いろんな人とやるようになっちゃって、ついには『小錦とやる!』と言い出して。でも、小錦さんが出ないとなったから小錦のお兄さんとやって」(有田)

 有田が言っているのは、84年に行われたアノアロ・アティサノエ戦のことである。アティサノエの存在を現代(?)に例えるとすれば、朝青龍の兄、ドルゴルスレン・スミヤバザルのようなものだろうか。

 ちなみに筆者が最も好きな格闘技世界一決定戦は、猪木が“熊殺し”と呼ばれた空手家、ウィリー・ウィリアムスと闘った伝説の一戦だ。

 新日本プロレス黄金期は、多くの外国人レスラーも猪木のライバルを務めた。その中には、「身長:223cm、体重:236kg(全盛時)」というサイズを誇るアンドレ・ザ・ジャイアントがいた。歯の数が42本にまで達していた(一般的な本数より10本多い)、正真正銘の“大巨人”である。
 
 今回、有田は86年に行われた「猪木-アンドレ戦」を紹介している。当時、猪木の髪はなぜか坊主頭だった。

「猪木さんは丸坊主なんかしないんですよ。実はですね、写真週刊誌に撮られたんです(苦笑)。普通、写真を撮られたら記者会見で謝ったり、謹慎とかするじゃないですか? でも、猪木さんはすぐに丸坊主にして試合に出てきたんです」(有田)

 激写された猪木。当時といえば、まさに倍賞美津子と結婚していた時期だ。“男のケジメ”で髪を切った猪木は、坊主頭でアンドレ戦に臨んだのだ。その姿を見た古舘伊知郎の実況がキレキレである。

「頭を丸めておりますので、レイのような花飾りを首から掛けますと、まさに“闘う修行僧”!」(古舘)

 一方のアンドレに対しては、“一人民族大移動”というフレーズを連呼していた古舘。さらに、アンドレの存在を煽る以下の名調子も有名だ。

「1人と言うにはあまりにも巨大すぎ、2人と言うには人口の辻褄が合わない!」(古舘)

 いじりすぎのきらいはあるものの、さすが古舘である。この頃、彼は本当に輝いていた。今回の猪木特集には古舘も出したほうがよかった気がするが、出たら出たで悪癖が表れ、独演会になってしまっただろうか?

 話をアンドレ戦に戻すと、長身のアンドレに延髄斬りを決めるなど、猪木の攻めはとても逆境にいる人間と思えなかった。ついには、“巨人殺し”の切り札・腕固めでアンドレからギブアップを奪う快挙を成し遂げたのだ。「スキャンダル→丸坊主→大巨人からギブアップ勝ち」という流れは、大局的に見て、まさに猪木の言うところの「風車の理論」だ。

 続いて紹介されたのは、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンとの試合。「腕折り事件」で有名な、74年の伝説の一戦だ。

「猪木は外国人レスラーを扱うのが世界で1番うまいと思うんですよ。外国人レスラーと闘うだけだったら、誰でもできますよ? スターにしちゃうんです」(古坂)

 これは、どういう意味か? 新日に招聘される以前、主戦場であるカナダでベビーフェイス(善玉役)を務めていたシン。そんなレスラーを“インドの狂虎”に変身させたのは、猪木による手腕だ。来日前、ナイフを咥えるシンの宣材写真を見た猪木は、以下のようにダメ出ししたという。

「シンは最初、小さなナイフを咥えていたから“つまらねぇ”と言って、サーベルを持たせた。これは感性。ふと思いついた」(生前の猪木のコメント)

 力道山から引き継いだコネクションを元に、旗揚げ当初から有名外国人レスラーを招聘できた、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス。一方、脆弱な外国人ルートしか持たなかった猪木。彼には、無名外国人レスラーを自前でスターにするしか道がなかったのだ。要するに、シンは猪木のおかげで一流レスラーになった。

 プライベートで妻・倍賞美津子と買い物を楽しむ猪木を突如襲った「新宿伊勢丹前襲撃事件」など、名実ともに“狂える虎”になっていったシン。それらの凶行で猪木の怒りは沸点に達し、試合中に猪木がシンの右腕を折る「腕折り事件」へと発展したのだ。

 タイガー・ジェット・シンは現在78歳。今さら、シンについてネタバレも何もないと思うが、東日本大震災が起こった後、彼は母国で募金活動やチャリティプロレス興行を続け、数度にわたって日本に寄付をしている。カナダの名士であり、紳士な人格者。それが、シンの素顔だ。

 猪木-シンの抗争のピークが過ぎた頃、新たに台頭してきたのは“ブレーキの壊れたダンプカー”の異名を誇る、若き日のスタン・ハンセンだった。シン同様、日本で成り上がったハンセンも“猪木の作品”だ。ハンセンのブレイクについては過去に別媒体(「エキサイトレビュー」2016年6月17日)で筆者が詳細を書いているので、そちらを参照していただきたい。

 その後、ハンセンは全日本プロレスに移籍。不沈艦が去った後に台頭したのは、“超人”ハルク・ホーガンであった。外国人選手ながら猪木とタッグを組むなど直接の薫陶を受け、ホーガンは成長していった。

 猪木の事件史で欠かせないのは、83年に行われた第1回IWGPの決勝戦だ。優勝を争うのは、この頃まだ格下と思われていたホーガン。しかし、試合は予想外に猪木が苦戦する展開に。終盤、エプロンに立った猪木めがけてホーガンが見舞ったのは、ハンセンのウエスタン・ラリアットを参考に考案したアックスボンバーである。

「さあ猪木、魂のゴング鳴る。あぶなーい! アックスボンバー、三又の槍!!」(古舘)

 ホーガンをローマ神話のネプチューンになぞらえた古舘の名実況をバックに、リング下へ落下した猪木。ここで、猪木は動くことができなくなった。坂口征二らセコンド陣は死に体の猪木を無理やりリングへ戻したが、舌を出したまま猪木は失神。「やってしまった……」とばかりにオロオロするホーガンが、猪木の悲願であるIWGP制覇を成し遂げたのだ。のちにホーガンはハリウッドへ進出。映画『ロッキー3』に出演し、悪役レスラー役でロッキー・バルボアと対戦するほどの出世を果たしている。

 一方、敗者となったのは猪木だ。傍目から見ると、「猪木は死んだ?」と思わせるほどの衝撃だった。

「あのまま入院しちゃうんだけど、入院しているところにお見舞いに行ったら、猪木の弟(啓介さん)がベッドに寝ていたんです。猪木、いなかったんですよ。だから、もうワケわかんなくなっちゃって。だから、坂口征二が一時期、姿を消したんです。手紙をポンと1枚置いて、そこには『人間不信』って4文字が書いてあった。猪木はたまに、身内にもギミックを仕掛けるんです。何をするかわかんない」(古坂)

 諸説ある。予定調和を嫌う猪木が失神したふりをし、スキャンダラスな形に試合を色付け、世間へ届く結末へと導いた。はたまた、借金取りから逃げるために入院した……などなどだ。なんにせよ、坂口による「人間不信」も含め、第1回IWGPの顛末を古坂はよく解説していたと思う。さすがに、地上波で「ギミック」という言葉を用いたあたりはヒヤッとしたが……。

 続いて有田が挙げたのは、はぐれ国際軍団との1対3変則マッチである。国際プロレス崩壊後、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3人が新日に殴り込みを掛け、「3人まとめてやってやる!」と猪木が受けて立ったことで実現した試合だ。

 現代の感覚で振り返ると、国際側の切なさに感情移入してしまう。帰る場所のない男たちが、格下扱いの「1対3」という屈辱的なマッチメイクを受け入れたのだ。特に、大相撲出身の木村はサンボの心得もあり、ガチンコの強さには定評のあるレスラーだった。

 有田がこの試合の見せ場としてピックアップしたのは、レフェリー・山本小鉄の活躍である。

「猪木さんを3人がかりでやったらいけないわけ。だから、タッチしないで入っていくみたいなのも絶対に許されない。だから、そこはレフェリーたちが頑張るわけです。止めるのが面白い!」(有田)

 猪木の関節技に悶絶する木村を救うべくリングに入ろうとする浜口や寺西を、身を挺して止める小鉄。試合を裁きながら、残る2人に低空の両足タックルを決めまくる姿は“鬼軍曹”の面目躍如だ。このシーンだけ見ると、さながら小鉄が主役の試合のようにさえ思えてくる。「小鉄さんがキャディラックを停める音が道場に聞こえただけで震え上がった」とは、練習生時代を振り返る際の前田日明の証言だ。

 この試合で、順調に2人(浜口、寺西)抜きを果たした猪木。しかし、最後は木村のラッシングラリアットを食らい、ロープに脚を引っ掛けたまま起き上がることができず。結果、猪木はリングアウト負けを喫した。この結末で最も悔しさを露わにしたのは、リングカウントを数える小鉄レフェリー本人であった。

 ただ、バックステージでは、新日を揺るがすクーデターの首謀者だった小鉄と猪木の仲は険悪だったと言われている。「底が丸見えの底なし沼」とは、プロレス界に古くから伝わる言葉だ。

 さらに有田は、国際軍団が新日に初登場時のエピソードも紹介した。

「猪木VS国際軍団はすごい盛り上がるはずだったのに、最初でちょっとコケちゃったのよ。っていうのは、国際軍団って見かけは反社みたいな格好してるわけ。その人たちが、田園コロシアム(1981年9月23日)の猪木の試合前に入ってきた。で、マイクを向けられて。『イノキー、国際プロレスの強さを見せつけて新日本プロレスなんかぶっ潰してやるからな!』が欲しいわけよ。でも、どうなったか?」(有田)

 同日のメインは、猪木VSタイガー戸口による一戦であった。その直前にリングに立つ、はぐれ国際軍団の3人。そこでマイクを向けられたリーダー・木村は、以下のような言葉を発した。

「こんばんは。私たちは国際プロレスの名誉にかけても、必ず勝ってみせます。またですね、この試合のために、今、私たちは秩父で合宿を張って死にもの狂いでトレーニングをやっております」(木村)

 まるで、母親へ送る手紙みたいに生真面目さがにじみ出た、木村からの宣誓であった。猪木の顔を見ると、「あの野郎、何やっているんだ」と冷えた表情になっている。直後、空気を察した浜口が代わりにマイクを握り、ドスの効いたマイクアピールでリカバリーを試みたシーンも含め、一連の流れがプロレス界に伝わる「こんばんは事件」の顛末だ。

 この事件は業界内外にインパクトを与え、例えばビートたけしは「こんばんは、ラッシャー木村です」といち早くお気に入りのギャグとして木村の語録を採用、重宝し続けたものだ。

 しかしである。もしここで、プロレス的にがなり立てるいかにもなマイクを木村が行っていたらどうなっていたか? 「弱い犬はよく吠える」ではないが、最初からファンに格下の印象を与えてしまい、“闘将”ラッシャー木村の説得力は失われていたと思うのだ。「こんばんは」は、逆に静かな闘志を感じさせるマイクアピールだったと筆者は捉えている。

 その後、新日マットでヒール化していった国際軍団。新日主導によるリニューアルの結果、国際軍団の3人は見事にファンからの憎悪を集めた。ついには木村の家に物が投げ込まれ、飼っていた犬は新日ファンによるいじめでノイローゼになってしまった。心を痛めた木村はプロレス誌の編集部を訪ね、心の内をブチ撒けた。

「新日本プロレスの客は、家庭や学校でどういう教育を受けてきたのか。よその団体を訪れたから、私は『みなさん、こんばんは』と挨拶したまで。それを笑った挙げ句、帰れ帰れとはどういうことか。私はそういう失敬な教育は受けてない!」(木村)

 しかし、次第に「こんばんは事件」は不思議な形でファンに受け入れられるようになり、のちの“ラッシャー木村のマイクパフォーマンス”につながったのだから、人生はつくづくわからない。

 よりによって、猪木追悼の企画で増田が取り上げたのは「海賊男」であった。猪木史の名勝負を挙げるでもなく、わざわざ黒歴史をピックアップし、斜め上に行こうとする振る舞いはいかにもプロレスファンな悪癖だ。番組内で増田が紹介したのは、1987年3月26日における猪木VSマサ斎藤の一戦であった。

「猪木とマサ斎藤の試合を楽しみに、みんな大阪城ホールに集まってるんです。で、ここに海賊男が乱入してくる。これもいろんな説があって、対戦相手のマサ斎藤が海賊男に『途中で乱入してこい。猪木に手錠をはめて、リングから引きずり下ろして、会場の外に連れて行け』と指示をしたという説がありまして」(増田)

 実際に乱入した海賊男は、なぜか真っ先にマサ斎藤の右手に手錠をはめた。そしてもう片方の手錠は自らの右手にはめ、そのままマサを控室に連行したのだ。その後、なんらかの器具で手錠を切り、身動きできるようになったマサ。彼はリングへと戻り、そのまま試合は再開。しかし、腕に巻いてある手錠でマサは猪木を殴打し続け、結果、マサの反則負けという不可解な結果に終わってしまった。

土田 「海賊男って何?」

有田 「1つの敵を作る予定だったんだけど、あまりにもこんなミスが続いちゃって、スーッとなくなっちゃったの(苦笑)」

勝俣 「蝶野(正洋)は(海賊男の中身として)入ってたかもしれないとはモヤッと言ってた(笑)」

ケンコバ 「いろんな人が『俺、海賊男やってたよ』って言うんですけど、数が合わないんです」

 この日の「猪木-マサ斎藤戦」で乱入した海賊男の“中の人”は、メキシコから留学し、新日所属になったクロネコ(ブラック・キャット)だと言われている。当時まだ、日本語に不慣れだったクロネコ。彼は流れをよく理解できず、二択を間違えてマサに手錠をかけてしまった……というのが、識者による推察だ。

 この低調な結末に観客は激怒。リング上に物を投げ入れ、椅子を投げ飛ばし、館内に火を点けるなど、ファンたちの怒りは大暴動に発展した。新日には団体史に残る“3大暴動”が存在するが、その内の1つがこれである。

 もう1つは、「猪木VS長州」を期待するファンの気持ちをよそに、たけしプロレス軍団(TPG)からの刺客・ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチを猪木が強行した「イヤーエンドイン国技館」が挙げられる。前述のマサ斎藤戦と同じ、87年の興行だ。

 この頃、猪木の思いつくアイデアは完全に迷走していた。結果、主に子どもファンが新日から軒並み卒業するという事態を招いたものだった。昭和の新日本プロレスでは暴動がよく起きていたし、当時のファンはそれだけ本気だったのだ。

 TPGの横入りで両国に大暴動が起こった際、バックステージで首脳陣の様子を見ていたのは、当時まだ若手だった鈴木みのるだ。「KAMINOGE」vol.83(東邦出版)のインタビューにて、このときの猪木の言動をみのるが明かしている。

「控室でモメてるのを俺は目撃しているんだよ。坂口さんや藤波(辰巳)さんが『社長(猪木)が出ていって謝らないと収まらないですよ!』『なんで謝らないんですか!』って責めてたんだけど、猪木さんが『うるせえ! 俺が頭を下げたら誰も観に来なくなるぞ!』って。『出した結果がたとえ客が求めるものと違っても、それに対して謝ったら客に媚びなきゃいけなくなるぞ。だったら、テメーらが頭を下げてこい! 俺は頭を下げない!』っていう言い合いを見たんですよ」(鈴木)

 このときの対応に関しては、猪木の言い分のほうが完全に正しい。

 話を海賊男に戻すと、クロネコや蝶野以外に“中の人”になったレスラーは数多い。木村健吾や越中詩郎、馳浩などが海賊男を務めたと推測されている。ちなみに87年2月10日、フロリダに遠征中だった武藤敬司を襲った海賊男(初代!)の正体は猪木本人、というのがプロレス界に伝わる定説だ。

 引退後の猪木を語るうえで最も欠かせないのは、2002年2月1日に北海道立総合体育センター大会で行われた「猪木問答」だろう。

 当時、猪木は総合格闘技イベント「PRIDE」のエグゼクティブプロデューサーに就任していた。新日の選手を総合のリングに送り込んでは、プロレスラーが連敗を喫するという流れができあがりつつあったのだ。この流れを嫌った武藤敬司は、ついに全日本プロレスへと移籍してしまった。

 そのタイミングで、蝶野がリング上に猪木を呼び寄せた。マイクを持った猪木が場を仕切り、「現在の新日本をどう思っているか?」を各選手に迫るやり取りが、俗に言う「猪木問答」である。新日本プロレス低迷期を象徴する、歴史的な名場面だ。

こんなやり取りから始まった。

猪木 「蝶野! 怒ってるか、オメエは?」

蝶野 「ここのリングで俺は、俺はプロレスがやりたいんですよ!」

猪木 「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし」

 なぜか、ポエムを詠み始めた猪木。当時のオーナー・猪木が推し進める格闘技路線に不満を抱く蝶野には言いたいことがあったものの、猪木は話をそらし、いつしか猪木に文句が言えない雰囲気になってしまった。結果、身の置きどころがなくなっていった蝶野。猪木のほうが上手だった……と評することもできる。

猪木 「オメエは!?」

永田 「すべてに対して怒ってます!」

猪木 「すべてってどれだい? 俺か? 幹部か? 長州か?」

永田 「上にいるすべてです!」

猪木 「そうか。ヤツらに気付かせろ」

 猪木とのやり取りについて、「KAMINOGE」vol.132で永田裕志本人が振り返っている。

「『ヤツらにわからせろ!』って言われて、結果的に僕の怒りの対象から猪木会長が消えちゃったんですよ。でも、猪木さんの前で『猪木さんに怒ってます!』とは言えないでしょう(笑)」(永田)

「上にいるすべて」には自分も含まれているのに、他人事として処理した猪木。いかにも、猪木だ。

猪木 「自分は!?」

鈴木 「僕は自分の明るい未来が見えませぇ~ん!」

猪木 「見つけろ、テメエで!」

「明るい未来が見えない」と答えた鈴木健想は、後に共同テレビのプロデューサーへ転身。猪木の闘病生活を追ったドキュメンタリー『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~』(NHK BSプレミアム)を制作したのだから、明るい未来をテメエで見つけ、最高の恩返しを果たしたと言える。

棚橋 「俺は新日本プロレスのリングで、プロレスをやります!」

猪木 「まあ、それぞれの思いがあるからそれはさて置いて」

 付き人をしていた武藤についていかず、新日所属を貫いた棚橋弘至による熱いマイクである。この日の猪木問答で最も意思が固かったのは、棚橋のこの発言だ。そして、彼はプロレス生活で有言実行を果たした。後年、まさしく棚橋が新日の“中興の祖”になったのだから、彼のマイクには大きな意味があった。

 実は、猪木問答から9カ月後の2002年11月、別れ話のもつれで棚橋は交際中の女性から背中を包丁で刺されるというトラブルに遭った。このスキャンダルにより、団体内で解雇寸前の扱いになった棚橋。

 直後、棚橋は猪木からPRIDEの会場に呼び出され、「女に刺されたレスラーはいないじゃないか。面白いよ」と言葉をかけられたらしい。10年後、2人は対談(2012年12月31日「週プレNEWS」)を行い、当時の騒動を笑いながら振り返っている。

猪木 「俺んとこにしょぼくれて来たもんな(笑)」

棚橋 「当時、僕はデビューしたての若手だったんですけど、猪木さんにお会いして、『お騒がせしました!』って挨拶したら、『騒いでねえよ』って。ホッとしました」

猪木 「ハッハッハッ! 人を騙したりとかしたわけじゃなかったから。まあ、騙したのかもしれないけどな、女の子を(笑)」

棚橋 「まぁ、ある意味……(苦笑)」

猪木 「許せる罪と許せない罪は区別しないといけない。世の中があんまりちっちゃなことを取り上げて、人の芽を摘んじゃうっていうのはね。政治家なんかもホントにどうでもいい話が山ほどあるんだけど、スキャンダルに流されて潰れちゃう。政治の場合とは違うけど、我々はスキャンダルを勲章と思える発想を持たないとね」

 1998年4月4日、猪木は東京ドームで現役を引退した。集まった観衆は7万人(超満員札止め)。芸能コンサートや他ジャンルのスポーツイベントも含め、二度と破られないであろう観客動員数だ。引退試合の相手は、ドン・フライ。UFCの歴代チャンピオンが集結し、オールスターで行われたトーナメント戦「Ultimate Ultimate 1996」を制した猛者である。

 この日の猪木の動きは、引退試合にもかかわらずキレキレ! 驚くほどハードヒットな延髄斬りを決め、わずか4分という短時間の中で極めたグラウンド・コブラツイストにより、フライを仕留めてみせた。

 猪木が亡くなったなんて、今も信じられない。映像で見たり、思い出したりする猪木は、ずっと元気なのだ。そして、今回は語り足りなかった。カール・ゴッチについても、ビル・ロビンソン戦についても、弟子である藤波、長州、前田らとの闘いも、政治家としての顔も、滝沢秀明戦についても、どれもこれも語りたかった。『ワープロ』流に例えるとすれば、「残念ながらこのへんで、蔵前国技館からお別れします」といったところだろうか。

 逆に言えば、猪木の特集を1時間にまとめた『アメトーーク!』スタッフに「ご苦労さま」と伝えたい。アントニオ猪木のカッコ良い部分も、ズンドコな部分も、どちらもあって今回の放送は良かった。AmazonプライムやYouTubeといった媒体で有田もプロレス番組を配信しているが、『アメトーーク!』のように試合映像があると、さすがに面白さは増した印象だ。そして、出てくる話の一つひとつが我々の記憶にちゃんと残っているのが、猪木の特集ならではだった。やはり、猪木は不世出のプロレスラーだ。

 おそらく来年2月、引退を迎える武藤敬司をテーマにやはり『アメトーーク!』は特集を組むと思う。今回のように充実した内容を、そのときも期待したい。

 

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『アメトーーク!』だからこそのアントニオ猪木特集! 彼の死がまだ信じられない【1万3千字レビュー】
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日刊サイゾー2022.10.07