南米チリに実在した「コロニア・ディグニダ」は、アドルフ・ヒトラーを崇拝したドイツ人パウル・シェーファーが設立したカルト系コミュニティとして知られている。入植家族や地元の子どもたちをシェーファーは巧みにマインドコントロールし、1960年代から40年以上にわたり、彼らの労働力を搾取し、児童への性的虐待を重ねた。
この「コロニア・ディグニダ」を題材にしたストップモーションアニメが、チリのアーティストデュオ、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督による『オオカミの家』(原題『La Casa Lobo』)だ。コロニアから逃げ出した少女・マリアが、隠れ家で2匹の子豚を育てながらサバイバルする様子を描いた74分間となっている。
一見するとかわいらしいアートアニメーションなのだが、パウル・シェーファーをモデルにしたオオカミの呼び声に、マリアは深く怯えている。コロニアでの虐待がフラッシュバックするのか、マインドコントロールによって自我を失っているのか、マリアが見ている景観だけでなく、マリア自身の形状も一定せず、絶えず変化していく。観ている我々まで、不安な気持ちになってしまう。
世界各国で大ヒットしたホラー映画『ヘレディタリー/継承』(18)や『ミッドサマー』(19)のアリ・アスター監督は、悪夢的世界を描いた『オオカミの家』を絶賛し、レオン&コシーニャの新作アニメ『骨』の製作総指揮を務めた。
悪人側の視点で描かれたアートアニメ
エマ・ワトソン主演の『コロニア』(15)では、パウル・シェーファーが長きにわたってチリに君臨したピノチェト独裁政権と結び付き、反政府支持者たちはコロニアの地下室へ送り込まれ、拷問や洗脳に遭っていたことが描かれていた。今年6月に公開された『コロニアの子供たち』も、シェーファーがかわいい男の子たちをグルーミングし、性行為の対象にしていたなど、被害者たちの証言をもとにした劇映画となっている。チリの歴史を多少でも知っておくと、『オオカミの家』と『骨』はより興味を持って楽しめるだろう。
2022年からチリ大学に客員研究員として留学し、ラテンアメリカ映画の研究をする新谷和輝(にいや・かずき)氏に、作品の政治的背景やレオン&コシーニャについて語ってもらった。
新谷「僕はアニメーションは専門ではありませんが、レオン&コシーニャによる『オオカミの家』は今まで見たことのないタイプの珍しいアニメーションだなと感じました。シュールな作風は、チェコのアニメーション作家ヤン・シュヴァンクマイエルを思わせることはよく指摘されています。レオン&コシーニャは、デヴィッド・リンチ監督からも影響を受けたと語っています。『オオカミの家』は、コロニア・ディグニダのプロパガンダ映画として製作されたという設定もユニークです。つまり、パウル・シェーファーの視点から描かれた世界でもあるんです。悪人側の視点から描かれたアニメーションというのは、かなり珍しいのではないでしょうか」
主人公のマリアは、かわいがっていた子豚たちを自分好みの少年少女として育てようとする。
レオンとコシーニャは共にチリ出身で、1980年生まれ。2018年に制作した初の長編アニメ『オオカミの家』は、ベルリン映画祭でカリガリ映画賞、アヌシー国際アニメーション映画祭の審査員賞などを受賞した。レオン&コシーニャの他にも、『Bear Story』(14)や『Bestia』(21)といったチリの短編アニメが多くの映画賞を受賞しており、チリのアートアニメーションは国際的に注目を集めていると新谷氏は語る。
チリで暮らす人たちにとって、ドイツから来たパウル・シェーファーが設立した「コロニア・ディグニダ」はどんな存在なのだろうか。
新谷「『オオカミの家』の冒頭に実写パートがあり、この冒頭部分を見れば、チリの人はコロニア・ディグニダのことだとすぐに分かるのではないでしょうか。
パウル・シェーファーはピノチェト政権と親しかったことで、1990年代まで悪行の数々は裁かれませんでした。ピノチェトが完全失脚した2000年代以降、世論の高まりとともに、コロニア内部で繰り返された非道な行為に司法の手が及んでいきます。シェーファーは逃亡先のアルゼンチンで2005年に逮捕され、2010年に刑務所病院にて88歳で亡くなっています。
チリでは近年、コロニア・ディグニダに関する映画、ドキュメンタリー、ルポルタージュなどが次々と発表されています。
チリの国土は南北に4300kmと細長く続き、南部はドイツと気候が似ている。そのため、ドイツからの移植者が多いそうだ。
新谷「パウル・シェーファーはかつてヒトラーユーゲントだったとか、いろんな説が流れていますが、戦後の西ドイツでカルト教団を設立したものの児童虐待が発覚し、チリへ逃げてきたというのは本当です。チリ南部に行くと、今でもドイツふうの建物が多く見られ、ドイツ文化が根付いていることが感じられます。
チリの有名な作家ロベルト・ボラーニョの代表作に『アメリカ大陸のナチ文学』があり、架空の右翼的作家たちの生涯を追った虚構の評論集という形になっています。この作品にはコロニアをモデルにした箇所もあり、レオン&コシーニャはボラーニョからの影響も受けていると語っています。ドイツと南米には意外な接点があるんです」
アリ・アスター製作総指揮『骨』の政治的背景
新世代のホラーマスターことアリ・アスター監督は、新作映画『Beau Is Afraid』(原題)のアニメパートをレオン&コシーニャに依頼したのに加え、自らが製作総指揮を務め、短編アニメ『骨』(原題『Los Huesos』)も手掛けている。
2023年、美術館を建設する際に一本の古いアニメーションフィルムが発見された、という設定で『骨』は始まる。レオン&コシーニャがこのフィルムを復元したところ、ひとりの少女が2体の人骨を使って、死者を甦らせる儀式を行なっている様子を描いたアニメーションらしいことが分かる。少女が甦らせようとしているのは、ディエゴ・ポルタレスとハイメ・グスマンという政治家だった――。
より不可解なこちらの作品も、新谷氏に解説してもらおう。
新谷「チリの歴史に疎い日本人が『骨』を観ると、ただ不気味な儀式の様子を描いたアニメーションにしか見えないかもしれません。少女のモデルは、コンスタンサ・ノルデンフリーツという実在した女性。彼女が甦らせようとしているディエゴ・ポルタレスは、チリ建国時代の政治家です。1833年にチリの最初の憲法を制定したことで知られている歴史上の人物で、コンスタンサとは恋愛関係にありました。もうひとりのハイメ・グスマンは、ピノチェト政権の中心人物で、現在のチリ憲法の起草者です。ポルタレスとグスマンは保守系の政治家です。
2019年にチリで大規模なデモ行進がありましたが、レオンたちもこのデモに参加したそうです。デモの結果、左派の現政権が誕生し、先住民の権利を認め、ジェンダー平等などを盛り込んだ進歩的な新憲法案が発表されました。『骨』が製作されたのはこの時期で、社会意識の強いレオン&コシーニャは同時代のチリの政局や憲法をめぐる世相を、アニメーションならではのフィクション性によって表現しているようです。しかし、新憲法案は国民の支持が得られず、今のチリは政治的に迷走している状況です。チリ建国時代のナショナリズムやピノチェト政権時代を懐かしむ人たちはいまだかなりの数いますが、そうした現在の状況を揶揄するような、ひねりの効いた作品だとも言えるでしょうね」
ラテンアメリカの文化について詳しい新谷氏は、レオン&コシーニャによる『オオカミの家』と『骨』について、こうも語った。
新谷「チリで1980年代までピノチェト軍事政権が続いたように、ラテンアメリカではこの50年の間に多くの市民が国家的犯罪の中で亡くなったり、行方不明になったままになっています。日常生活の中だけでは消化しきれない多くの死者の存在があり、そうした過去や死者たちにどう向き合うのかがラテンアメリカ各国の文化には共通しています。チリの首都サンティアゴにある、ピノチェト政権時代の人権被害に関する資料をアーカイブした『記憶と人権の博物館』も、そのひとつです。レオン&コシーニャはそうした現実の問題に積極的に関わり、アニメーション表現へと昇華しているように感じます」
南米チリの歴史を背景にしたアニメーションがもたらす未体験の恐怖を、ぜひ2本続けて堪能してほしい。
『オオカミの家』
監督/クリストバル・レオン、ホアキン・コシーニャ
©Diluvio & Globo Rojo Films, 2018
同時上映『骨』
製作総指揮/アリ・アスター 監督/クリストバル・レオン、ホアキン・コシーニャ
©Pista B & Diluvio, 2023
配給/ザジフィルムズ
8月19日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
zaziefilms.com/lacasalobo
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