中国で、ある夫婦が大きな話題になっている。43歳&33歳で仕事をやめ、あとは働かずに貯金で暮らしていくというのだ。

このことに対して世論は賛否両論真っ二つ、ネットで議論が巻き起こっているという。いわば中国版のFIREといえる状況に対し、なぜ世論がこれほど反応しているのだろうか?(日中福祉プランニング代表 王 青)

「これからは徹底的にタンピンだ」と宣言
30&40代夫婦の動画に、ネット議論が沸騰

 先日、中国・上海出身で80後(バーリンホウ、80年代生まれの意味)の 夫婦が、「失業した。これからは徹底的にタンピンだ。300万元(約6000万円)の貯蓄で生きていく」と宣言した動画が、中国のSNSで大きな反響を呼んだ。「子なし夫婦 300万元 早期リタイア」というキーワードの投稿が各プラットフォームで注目ランキングの上位に挙がり、ネットユーザーの間で熱い議論が巻き起こった。

 タンピンとは「[身尚]平」と書き、「寝そべり主義」「寝そべり族」などともいう。「頑張らない、最低限の生活をする」という意味で、2年ほど前から中国の若者の間の流行語、一種の社会現象となっている(参考記事:中国の過酷な受験戦争を勝ち抜いた若者が「寝そべり族」になってしまう理由)。

「300万元の貯金で、ネコとともに隠居生活する」と宣言したのは、33歳で、ゲームデザイナーだった妻の陳さん。夫は43歳、不動産企業で勤務していたが、昨年、二人とも仕事を失った。二人はいくつも仕事を探したがすべて不採用で、就職活動を諦めた。現在は上海の中心街から少し離れたエリアのマンションで暮らしており、家と車のローンは完済。貯蓄の300万元のうち大部分は銀行の大型定期預金(現在は3年預け入れで利率3~4%程度)にして、一部はファンドや株に投資しており、毎月約1万元(約20万円)のインカムゲインがある。

 夫婦には子どもがおらず、将来も作る計画はない。夫婦それぞれ1人ずつ親がいるが、夫婦の決断に同意し「好きなようにすればいい」と支持しているという。

心身共に健康的で自由
タンピンな毎日は最高

 陳さんは仕事をやめた当初、ほぼ毎日、日常の様子や家計簿の金額などを動画投稿していた。それによると、出費の多い日は1000元(約2万円)ぐらい使うが、まったくお金を使わない日もあり、出費は月平均6000元(約12万円)前後。この感じでいけば70歳までは余裕でやっていけるし、二人とも年金保険を十数年以上納めているので、定年の年齢になったら年金ももらえる、ということだ。

「タンピンしたら、心身ともに完全に自由になった」と陳さんは話す。朝、目覚まし時計で起こされることもなく、顧客や上司からの連絡を見逃して怒られるのを恐れることもなくなった。仕事に行かないから同僚との付き合いも不要になり、無駄な出費や洋服、化粧品などの買い物も減った。デリバリーフードとさよならし、健康的な食事づくりに励む毎日。「健康な生活を手に入れた今は、物質的にそんなに豊かではないが、精神的にはとても充実し、幸せを感じる。毎日、今この瞬間を楽しみ、自分の時間を自由に使える生活は最高だ」と動画で語った。

 夫婦の決断と生き方に対しては賛否両論の声が上がり、SNSを賑わせた。

「うらやましい!1カ月のインカムゲインが1万元もあったら、それは普通の人の1カ月の給料よりも多い。夢のようだ……」

「賛同する!将来どうなるか分からない世の中。自分の気持ちのまま生きる、今が良ければそれでいいのではないか」

「今のような世の中、将来、子どもに健全な教育環境や公平、公正な社会を提供できなければ、子どもがどんな努力してもだめなので、そういう意味では子どもを作らないほうが賢明だ」

「300万元どころか、100万元(2000万円)でもお金があるなら、働きたくない。問題は普通の人が一生働いても、この金額の貯蓄ができないこと。それが現実だ」

「30代でもう働かない」ことへの批判、
社会への不安の声も

 30代で仕事を辞め、貯金で暮らす。日本や米国の「FIRE」に似ているが、二人の生き方に対して否定的な意見も少なくない。

「30代でこれからの人生がまだまだ長いのに、もう働かないなんて。将来に対して不安がないのか?本当にやっていけるのか?」

「インフレが進んだり、金利が下がったりすれば、貯金は減る一方だ。また、社会保障が完備されていない中で、もし大きな病気を患った場合、これぐらいの貯蓄ではとても足りない」

 二人に対する賛否ではないが、社会に対しての不安や悲観的なコメントもある。

「一体どれぐらいの貯蓄があったら、何もしなくても安心して老後を暮らせるのだろうか?」

「そもそも我々が一生働いて節約しても、300万元なんてとても貯めることはできない」

 この夫婦の話題が、なぜこんなに盛り上がり、関心を引くのか。それはおそらく、今の中国が抱えているさまざまな経済や社会問題が反映されているからではないかと思う。 

人口が減り、
急速に少子高齢化が進む中国社会

 最近、中国では、「新生児が少なすぎ、大学新卒が多すぎ、35歳で仕事探しは高齢すぎ、60歳定年は早すぎ」というフレーズが流行っている。

このフレーズが広がったのは、「今の中国の現状を物語っている」と多くの人が思っているからだ。

 中国では、子どもを持たないと考える人が増え続けている。昨年、中国の出生数はわずか956万人だった。この数は、「一人っ子政策」が撤廃された2016年の1867万人に比べ、約半分。たった6年間でこれほど激減したのだ。上海市が最近発表した「2022年度人口観測統計データ」では、上海の合計特殊出生率は0.7と、極めて低い水準である。一般的に、人口をそのままキープするには、合計特殊出生率は2以上必要とされている。

 一方、昨年中国の大学を卒業した新卒者は1000万人を突破、コロナ禍や経済状態の悪化もあって「卒業=失業」が常態化しつつある。中国国家統計局の公式データによると、中国では都市部に住む16~24歳の5人に1人が失業しているという(2022年7月の数字)。この3年間、国の政策により、IT関係や不動産、校外学習塾などの産業は大きな打撃を受けた。雇用がなくなり、大量に失業者が出た結果、デリバリーやタクシー運転手などをバイトとして行うフレキシブルワーカーが2億人に達している。その中には、4年制大学や大学院の卒業者が20万人以上いるという(1月15日に、美団 Meituanが公表した「デリバリー配達スタッフ雇用レポート」)。


※参考記事:中国で「高学歴貧乏」が増加、若者の深刻な就職難・リストラの実態とは

 そして、日本でも大きく報じられたが、2022年末、61年ぶりに中国の人口が減少した。少子高齢化が急速に進む中、政府は、現在55~60歳の定年退職年齢を65歳へ引き上げようとしている。「労働人口が減り、年金の財源が枯渇するから、年金の受給年齢を上げようとしているのだ」と国民は解釈している。

80後世代がFIREするのは、
単なる一個人の選択ではなく、中国の社会問題

 このような社会の状況なので、いま中国で定職に就いている人は「人生の安全運転」を志しがちだ。つまり、「転職しない、投資しない、消費しない、現金が一番」という考え方である。

 今回話題になっている夫婦について、大学で教える筆者の知人は、「この議論の真髄は、二人の貯蓄や利息の金額ではない。注目すべきは、この夫婦が80後(バーリンホウ)世代であることだ。現在30~40歳代のこの世代は(中国に)2億人ぐらいおり、働き盛りで消費力があり、経済をけん引し、社会に大きな影響を与える存在である。この年齢で300万元もの貯金を持っている彼らは、中国の典型的な中間層だ。この層が将来に悲観し、働かず、消費活動をしなくなったら、経済はどうなっていくのか。若者が将来に希望を持たなくなることは、それこそ国にとって大きな懸念だ」と指摘する。

 日本や米国では、誰かがFIREしたとしても、それは個人の人生の選択であり、その人の自由だと周りの人は考えるだろう。

しかし中国版FIREといえるこの事例に対し、中国の世論は大きく反応し、議論が巻き起こった。それはこの夫婦の選択が、現在の中国のさまざまな経済・社会問題をあぶり出す象徴的な事例だからなのかもしれない。

 ちなみに、「300万元の貯金で、ネコとともに隠居生活する」と宣言した陳さんは、テレビや新聞などさまざまなメディアに頻繁に登場させられ、一躍有名人になってしまった。話題になりすぎた結果、現在は、さまざまなプラットフォームにあった彼女のSNSアカウントはすべて、彼女自身の手で削除されたという。ネットから姿を消した彼女は、本当の「隠居」となったわけだ。

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