■松平定信がわずか30歳で老中就任になった“偶然”
江戸で発生した打ちこわしの収束後、松平定信(井上祐貴)の老中登用を渋っていた大奥が反対を取り下げた。一橋治済(生田斗真)は定信を呼び出し、「大奥が反対を取り下げてのお。月が替わればそなたはめでたく老中じゃ」と告げた。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第33回「打壊演太女功徳」(8月31日放送)。
ところが、「その儀、謹んでお断りしたく」と定信。治済は少し戸惑ったが、定信はこう続けた。「首座の老中であるならば、若輩でも徳川をお支えすることができるかもしれませぬ」。
幕政に携わった経験がない30歳が、いきなり老中の首座を要求するとは、よほどの自信とふてぶてしさだ。そして史実の定信も、その後、寛政の改革として断行した数々の施策を見るに、自信家でふてぶてしい人物だったと思われる。実際、天明7年(1787)5月20日に発生した江戸の打ちこわしが収まって1カ月も経たない6月19日、定信は老中に登用され、治済の推しでいきなり首座に就いた。
それには偶然も味方した。
信喜から報告を受けた家斉は激怒し、自分に「平穏無事」とウソをついていた準松を罷免する。それまで家斉の信頼が厚かった準松が、定信の老中登用に反対する最右翼だったのだが、その障害が消えた。定信を老中にしたい治済や御三家は、意志を通せることになったのだ。
■田沼を刺し殺そうとしていた
史実の定信が、かなりクセの強い人物だったことは、老中就任前に将軍に出していた上奏文からも伝わる。その書面で定信は、かなり大胆な告白をしていた。
「中にも主殿頭(田沼意次のこと)心中その意を得ず存じ奉り候に付、刺し殺し申すべくと存じ、懐剣までこしらへ申し、一両度まかり出候処、とくと考へ候に、私の名は世に高く成り候へども、右にては天下に対し奉り、かえって不忠と存じ奉り候」。つまり、みずから懐に剣を忍ばせ、機会があれば意次を刺し殺そうとし、実行しようとしたこともあったと、自分から将軍に申し述べたのである。
定信が意次を恨んだ最大の理由は、田安徳川家に生まれ、聡明で次期将軍にも擬せられていた自分が、意次のせいで奥州白河藩に追いやられた、と考えたことだ。定信の自伝『宇下人言』には、定信が田安家を継ぐという約束を、意次が反故にした旨が書かれている。そして、この「恨み」が根深い以上、定信の政策はいきおい「反田沼」になった。
また「反田沼」は、定信をバックアップする御三家や一橋治済の意向にもかなう方針だった。とくに御三家は、「米不足と打ちこわしは田沼政治が悪かったから起きた」という考えだったのでなおさら、定信は「反田沼」のキャンペーンを張った。
■それでも継承された田沼政治
実際、意次が手をつけ、定信が中止した事業は多い。印旛沼と手賀沼の干拓は、定信が老中に就任する1年近く前に大洪水で工事箇所が大きな被害を受け、定信は計画自体を中止にした。金貨、銀貨、銭貨を相場に左右されずに交換できるようにする、通貨の一元化政策も沙汰止みになった。ロシアとの交易も見据えた蝦夷地の開発も中止された。
だが、現実には、田沼政治をすっかり否定することは、すでに難しい状況にあった。たとえば、田沼政治の象徴として語られる株仲間と運上金もそうだった。
意次は、商工業者の同業者組合である株仲間を認める代わりに、運上金という税を徴収し、幕府財政の足しにした。従来、定信はこれを廃止したといわれてきたが、定信の時代、これをやめれば幕府の財政がもたない状況にあった。
だから、定信は廃止するかのように見せかけつつ、実際には、株仲間の大部分を存続させ、運上金を上納させた。幕府の財政難は、いまさら商業資本に頼らずに済む状況ではなくなっていたのである。
■祖父吉宗よりもずっと厳格
しかし、世間は御三家同様、天変地異が頻発したのも、飢饉になったのも、米が不足して打ちこわしが起きたのも、田沼政治が悪かったからだと思い込んでいる。それだけに、定信への期待度は高かった。
だったら世間の期待に応えるように見せて、その支持をさらに大きくしておくのがいい。それには「反田沼」のキャンペーンを張り、田沼政治の否定を目に見えるようにするのがいい。
そのために行われたことの一つが、意次の居城だった相良城(静岡県牧之原市)の徹底した破壊だった。天明8年(1788)1月16日から2月5日にかけ、櫓、御殿、門、長屋、役宅から塀まで、すべてが解体された。その年の7月24日、意次は失意のまま江戸で没するが、相良城はその後も時間をかけて、石垣まで徹底的に破壊された。
もう一つは、田沼時代の自由な雰囲気を槍玉に挙げ、自由が打ちこわしまで発生する世の乱れにつながったというストーリーをこしらえ、田沼時代と正反対の姿勢を打ち出すことだった。尊敬する祖父、8代将軍吉宗が行った享保の改革を継承する「質素倹約」と「文武奨励」がそれだった。ただし、定信の性格を反映してか、吉宗が行ったよりずっと厳格で、娯楽をふくむ風紀も厳しく取り締まられた。
■吉原から三味線の音が消えた
こうした取り締まりに強く反発したのが「べらぼう」の主人公、蔦重こと蔦屋重三郎だった。
天明8年(1788)に朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)の『文武二道万石通』、翌寛政元年(1789)に恋川春町の『鸚鵡返文武二道』など、定信の政治を痛烈に風刺した黄表紙を相次いで刊行したが、発禁処分になった。
そこで蔦重は寛政3年(1791)、町人の山東京伝作ならいいだろうと、洒落本の『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹麓』などを刊行したが、摘発される。これらはいずれも遊女たちの風俗を題材にしていた。御政道の風刺のみならず、公序良俗を乱す出版物はみなダメだというのが、定信の姿勢だった。
その姿勢は、大衆がよろこぶものを刊行するという蔦重の姿勢と思いきりぶつかったのだが、そのことはまた稿を改めて書きたい。ここでは定信が女性がらみの風俗を目の敵にしたことで、「別のもの」とぶつかったことを記しておきたい。
定信の寛政の改革によって、吉原でも倹約が強いられ、三味線の音が消えた。非公認の私娼街だった岡場所は、多くが取り潰された。だが、定信が目の敵にした女性がらみの場所はほかにもあった。
■将軍の家庭に立ち入ったツケ
定信は老中首座のほか将軍補佐役も兼務し、絶大な権力を手にした。だが、老中就任から6年経った寛政5年(1793)7月、将軍補佐役の辞退を申し出たところ、老中職も解かれてしまった。
それに先立ち、定信は家斉の2つの要望を却下していた。
結局、このことで家斉との(そして治済との)軋轢が生じ、更迭されたとされるが、家斉との関係が悪化した理由に、別のことも指摘されている。それは大奥に手をつけたことだった。
当時、大奥の経費は年間20万両といわれ、そのころの幕府の貯えの4~5分の1に相当した。そこで定信は大奥にも倹約を求め、経費を3分の1に減らした。また、大奥の奥女中トップの上臈御年寄8人のうち5人を解任。しかも5人には、家斉の乳母の大崎や、家斉の側室お万の叔母である高橋もふくまれていた。
家斉といえば日々大奥に入り浸り、正妻と16人の側室とのあいだに53人の子をもうけた将軍である。その根城に遠慮なく手をつけたとあれば、対立しないわけがないだろう。質素倹約や公序良俗の厳守を言い出した以上、定信はいずれ将軍と対立せざるを得なかったのである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)