岡田武史氏が、中国スーパーリーグ杭州緑城の監督を今期かぎりで退任した。1年目は16チーム中11位(9勝9分け12敗)、今期は12位(8勝10分け12敗)という成績だったにもかかわらず、選手やサポーターから残ってほしいといわれたが、本人やまわりの日本人スタッフが、中国での仕事も暮らしも「もう3年は無理」ということだったようだ。

参考中国人から喝采を浴びる岡田武史元日本代表監督の中国プロサッカー改革

郷党意識がプロ意識の足かせに

 日経新聞(12月11日付朝刊)にその岡田監督のインタビューが掲載されていた(聞き手は武智幸徳記者)。

 中国のプロサッカーチームは、今季のアジア・チャンピオンズリーグを制した広州恒大のように、不動産などで財をなした富豪がオーナーとなっているところが多い(杭州緑城もそのひとつだ)。こうした環境では選手の獲得や起用、報酬が天からの声で決まることも多く、監督の仕事にも制約が多い。

 また選手の移籍市場は閉鎖的で、「この選手の獲得にはこれだけの額が必要といった開示情報はなく、移籍は出身地等を同じくする者たちが張りめぐらせたコネクションを介して成立するのが普通」とのことだ。

 岡田氏は、こうした郷党意識のネットワークを人々の知恵として認めつつ、それが甘えにつながってプロ意識の足かせになるとも指摘し、次のように述べている。

「1部残留が決まる前なのに、運転免許試験がある、家の売買契約がある、といって試合前の練習を休もうとする。30歳過ぎのベテラン選手が若手にたばこを勧めたり。そういう甘さが勝てる試合を引き分けたり、引き分ける試合を落とすことにつながるんだけどね」

 私が観戦した試合も、開始直後から一方的に押し込み2点を先取したにもかかわらず、終了間際のロスタイムに同点に追いつかれるという、「勝てる試合を引き分けた」典型だった。

 中国社会に「郷党意識」のネットワークが根を張っているのはよく知られているが、『中国の秘密結社』(講談社選書メチエ)のなかで山田賢氏は、この“伝統”は16世の明の時代に定着したものだという。

参考:中国共産党は秘密結社だった

 16世紀に大航海時代の「グローバル化」が始まると、南米で産出した銀が中国に運び込まれ、絹や陶磁器などの物品を輸出する大陸間貿易が盛んになった。これによって中国は好景気に沸き、出生率が上がって人口が急増する。明末までは中国の人口は数千万から1億のあいだを上下していたが、それがわずか数百年で5億に達したのだ。

 こうした「人口ビッグバン」が起きたのは中国だけではない。すこし遅れて日本や韓国も市場の拡大と人口の増加を迎えたが、その影響は日本と中国では大きく異なった。

 日本の場合は、より多くのひとを一定の農地で働かせ、単位あたりの収量を増加させることで人口の増加に対処しようとした。そのため日本の農業では、牛や馬のような家畜を農作業に使うことを放棄し人力に頼るようになる。こうした労働集約型の生産形態を、歴史人口学者の速水融氏は「勤勉革命」と呼んだ。これは、もともと人口の少ないヨーロッパで資本集約型の「産業革命」が起きたのと対照的だ。

 江戸時代の日本は「定常社会」だったといわれるが、この安定は農村部の狭い土地を分け合い、それでもあぶれた年少者を江戸や京都・大阪などに出稼ぎに出したことで実現した。長屋というのは時代劇に描かれる庶民の住宅地ではなく、インドの都市に見られるようなスラムのことで、疫病などの蔓延で住民の平均寿命は短かった。江戸時代は余剰人口を「都市というアリジゴク」が処理していたから、外見上は「定常状態」を維持できたのだ。

中国社会を理解するキーワード「関係(グワンシ)」

 四方を海に囲まれ平野の少ない日本は、「人口ビッグバン」を労働集約型の勤勉革命で乗り切った。それに対して中国には、内陸部に広大なフロンティアが残されていた。こうして16世紀から清朝最盛期の18世紀にかけて、中国国内で巨大な人口移動が起きた。

 アメリカの西部開拓時代と同様に、中国のフロンティア(辺境)にも各地から食い詰めた荒くれ者たちが集まってきた。そんな土地で生きていくためには、自分を守ってくれる共同体が必要だ。

 このようにして、生まれ育った土地(郷党)と、苗字を同じくする血統(宗族)による共同体が人工的につくり出された(中世ヨーロッパのギルドような同業者組合も広く見られた)。

 広東語や上海語は北京語の方言ではなく、文法の違う「外国語」だ。そのうえ当時の中国では、同じ地方でも多数の方言が使われていて、生まれた場所が違えば意思疎通が難しかった(これは江戸時代までの日本でも同じで、岩手出身の新渡戸稲造が上京してから好んで英語を使ったのは、日本語(南部弁)が通じなかったからだ)。そう考えれば、言葉の問題のない郷党が共同体の基本になるは当然だ。

 しかしこれだけでは、他の郷党のメンバーとの横のつながりがなくなってしまう。そこで、苗字と血統でつながる宗族のネットワークが“創造”された。

 宗族はもともとヴァーチャルなものだから、そのときどきの都合に合わせて拡大したり縮小したりした。同じ「李」姓でも、宗族になるかどうかは、他の宗族や郷党との力関係で決まったのだ。少数派の姓はごく自然に宗族を大きくしようとし、代表的な姓は結社が大きくなり過ぎるのを嫌って分裂した。

 このようにして、郷党と宗族の人的ネットワークに頼って寄る辺ない社会を生き抜いていくというライフスタイルが確立した。

この人的ネットワークが、中国社会を理解するキーワード「関係(グワンシ)」だ。

 もっとも、すべてのひとが郷党や宗族のネットワークを利用できたわけではない。それは有力な地域や宗族の出身者、すなわち中・上流階級のためのものだった。既存の人的ネットワークを利用できない下層階級のひとびとがつくり出した共同体が宗教結社や秘密結社であったことは前回書いたとおりだ。

 日本社会と中国社会の違いは、社会の流動性で考えるとよくわかる。

 日本社会では、「場所(土地)」が最初にあって、そこでひとびとが協調して生きていく方法が追求された。こうした社会は流動性が低く、ひとつの場所で生まれてから死ぬまでの一生が完結する。これが「イエ」意識で、江戸時代の藩から現代の会社まで、日本人は常にイエを生活のよりどころにしてきた。

 それに対して中国社会では、辺境から辺境へと移動することが前提になっているから、場所を基準とした社会秩序は意味がない。人口が多く、流動性の高い社会で生きていくためには、人的ネットワークを張りめぐらせて情報を集め、少しでも有利な(儲かる)場所にライバルに先んじて移動し、共同体に頼りながら商売を始めるのがもっとも効率的なのだ。

海外に出た中国人たちのネットワーク

 16世紀の人口ビッグバンは中国内陸部の民族大移動を引き起こしたが、すべての地域にフロンティアが開かれていたわけではない。

 たとえば福建は、海に面した猫の額のような平地が山に囲まれた、陸の孤島のような地域だ。

広東は北から強い人口圧力を受けており、客家と呼ばれる集団は故郷を追われて広東や福建、台湾にまで南下してきた。また海南島は島だからもともと内陸に移動のしようがない。こうした沿海部のひとたちが押し出されるようにして海外に移動したのが華僑だ。

 中国人の海外移住の歴史は古く、最初の大移動は唐代まで遡るが、本格的な大量出国が始まったのは近代になってからで、アヘン戦争(1840~42年)の頃に100万人だった華僑は、新中国成立(1949年)までの110年の間に10倍の1000万人に増えた。

 中国社会は儒教の祖先崇拝を基本にしているから、生まれた土地を捨てて海外に住むという発想はもともとなく、生活のために一時的に異国の地に移ったとしてもいずれは本貫(華)に戻って祖先の供養をするのが当然とされた。このひとたちは「華人」と呼ばれたが、これは世界の中心である中国に戻ってくることが前提となっていたからだ。そのため海外移住者(本貫を捨てた中国人)に「華」の字を使うことはせず、「唐人」や「広人(広東人)」などと呼ばれた。「僑」とは仮住まいの意味だから、「華僑」という言葉は自己矛盾なのだ(斯波義信『華僑』岩波新書)。

 それにもかかわらずさまざまな事情で海外に定住せざるを得なくなった中国人(とりわけ福建や広東の出身者)は、族譜をつくり、祠堂(祖先の廟)を建て、族産(族の共有産)を持ち、義学(族の学校)を運営し、本貫そのものを異国の地に移設しようとした。商工業のギルドである会館や公所(広東では公司)が各地につくられ、それが集まって商会(商工会議所)となったが、そこも郷党をベースに各県単位で管理された。

 中国社会の人的ネットワークを海外に持ち込むことは、当然、現地でさまざまな軋轢を生んだ。イギリスやオランダの植民地経営の問題もあるが、19世紀以降、東南アジアを中心に華僑に対する虐殺事件が数多く起きている。

 もっともいまでは、郷党・宗族と祖先崇拝のライフスタイルを守り続けるひとたちは少数派となり、華人のアイデンティティも多様化している(最近では「華僑」は移民1世を指し、その子孫を華人または華裔と呼ぶようになった)。ひとつは統一中国の誕生で方言よりも共通語としての北京語が普及し、「中国人」という近代的な国民意識が生まれたこと。もうひとつは、フィリピンのアキノ一族やタイのタクシン元首相に見られるように、現地社会への同化が進んでいることだ。彼らの祖先は中国人だが、言葉も生活習慣もフィリピン人やタイ人とまったく同じで中国性(Chineseness)は失われている。

 さらに近年、アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリアなどのアングロサクソン圏に移住した中国系のひとたちが社会的に大きな影響力を持つようになってきた。彼らは中国人としての自覚を持ちながらも、英語を母語として教育を受け、考え方もアングロサクソン化している。アングロチャイニーズ(Anglo-Chinese)とも呼ぶべき彼らと中国本土(Domestic Chinese)の関係も興味深い。

「イエ」意識にとらわれた日本人には、流動化した社会を前提とする「関係」も、中国人の複雑なアイデンティティもうまく理解できないが、今後の世界の動向を考えるうえで重要な要素となっていくことは間違いないだろう。

<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。

著書に(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。

編集部おすすめ