ステージに現れるのは、若い男性ボーカリストたった一人。手にはマイク一本のみ、伴奏者はいない。
おもむろに彼がリズムを刻みはじめると、そこに絶妙なコーラスが重ねられていく。そしてボーカル。あるときはグルーヴィーに、あるときは優しく。時には水の音や虫の音までが音楽の一部となる。もちろんすべて彼一人の声だ。

ボーカリストの名前は伊藤大輔。1980年生まれの30歳。ジャズボーカリストであり、日本で唯一にして随一の“ボイスソロ”の使い手だ。彼が歌う曲はジャズのスタンダードナンバーからソウルミュージック、さらには「おぼろ月夜」などの古い歌曲にまで及ぶ。

ボイスソロを予備知識なしに聴く人は「一体どうなってるの?」と驚くはず。その秘密は、彼の足元に置かれた一台のループマシンにある。歌いながら足でループマシンを操作し、自分の声を録音して会場に流していく。
つまりオンタイムで行う“一人多重録音”だ。それでいて、伊藤の歌はけっして難しいものではない。すっと観客の耳に届き、まったくジャズを知らなくても、老若男女誰でも楽しめる。MCでいとも簡単にタネ明かしをしてしまうのも、ボイスソロをマニアックなものにしないための伊藤の心配りだ。

「そう言ってもらえるとすごく嬉しいですね。4~5年前、女性ボーカリストの溝口恵美子さんに誘われて、ボーカリスト二人だけでライブをしたのがボイスソロを始めるきっかけでした。それがすごく面白くて、一人でできないかな、と考えていたとき、リチャード・ボナやジャコ・パストリアス(いずれもジャズベーシスト)が楽器用のループマシンを使って一人で曲を演奏するのを思い出して、それを自分もやってみたらどうだろう、と」

そんなとき、伊藤にあるジャズクラブから出演依頼が舞い込んだ。しかし、急だったためバンドのメンバーが集まらない。そこで思いついたのがボイスソロだった。

「最初はものすごく怖かったです。楽器もないですし、丸裸ですから。お客さんも驚いていましたし、どう楽しんでいいかわからない部分もあったと思います。
技術的な部分を聴かせるのではなく、わかりやすく、楽しく人々の耳に届けることが、常に自分の課題ですし、大事にしているところです」

ボイスソロは、伊藤の音楽活動において、フットワークを軽くするための大きな武器となっている。大掛かりなバンドを率いなくとも、身体一つでどこでも演奏に行けるからだ。

「マイクとループマシンと小さなスピーカー、それにコンセントさえあればどこでもできますからね。家の新築パーティーに呼ばれて、リビングで演奏したこともありますよ。不思議な空間でしたけど、楽しかったです」

現在、伊藤は事務所に所属していない。アルバムを3枚リリースしているが、すべて自主制作で、通販かライブ会場でしか買うことができない。これが今の彼の活動姿勢だ。

「レーベルや事務所に所属することが悪いとはぜんぜん思っていませんが、どうしても顔の見えない相手との仕事が増えてくる。多くの人に自分の歌を聴いてもらう機会は増えると思うのですが、今は自分のことを知っている人を増やすより、自分が知っている相手を増やして、その人たちに歌を届けたい。巨大なものに乗っていくのではなく、自分の目に見えるリアルでいいものとつながることがよしとされる時代が来ると思う。これは僕の直感であり、今まで選んできた道なんです」

あえて自分を大きく見せず、等身大で活動していく。それが伊藤のスタンスだ。
今後、やってみたいことは? と問うと、たちどころに三つ、四つと返事が返ってきた。クラシックの器楽曲に声で挑戦してみたい、ボイスソロの2枚目のCDは森や洞窟で録音したい、養護学校へ慰問するときに作っている「音の絵本」(声だけで作る“一人ラジオドラマ”)をCDにしたい、海外でライブをしたい……。「どれも大きな夢なんですが、少しずつ動き出しています。子どもっぽい言い方ですが、一人で冒険しているみたいですね。それがまた楽しいんです」

まずは一度、伊藤のボイスソロを体験してみよう。ライブに行くのが一番だが、オフィシャルサイトでも数曲、聴くことが可能だ。最後に、肩書きは何か、伊藤に尋ねてみた。

「ボイスソロをするから“ボイスソリスト”と名乗っていたんですが、それだと前衛的なボイスパフォーマンスをする人のようなニュアンスがあるんですよ。自分がやりたいのは、やっぱり“歌”なんです。そういう意味では、今の肩書きは“歌い手”ですね」
(大山くまお)
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