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18歳の時にリリースしたセカンドアルバム「DIVE」。その中に収録された「パイロット」の詞について、坂本真綾は2010年の春にこんなふうに語った。


「今読み返すと、どうやって書いたんだろうって思うくらい繊細な詞なんです。その中で大人たちのことを「彼ら」と表現しているんですけど、10代の私は「大人」とストレートに書いてしまうと違うものになってしまう気がしたんですね。ど真ん中を行く表現ができない性質であることを当時からはっきり意識していましたし、一言一句が他の言葉に変えられないくらい完璧じゃないと嫌だと思っていました」

だが、歌詞に対する繊細でかたくなな考え方は、経験を重ねるごとに変化していった。

「10代や20代前半に比べて、言葉の選び方はシンプルになったと思います。恐れずに直球勝負ができるようになったというか。今は、自分が歌うための歌詞なら何を書いても大丈夫という開き直りみたいなものがあります。かっこつけなくなったと思うんです」

「かぜよみ」リリース時のインタビューで「今の自分が書いた詞が一番好き」と語っていた彼女。では、ニューアルバム「You can't catch me」では、そこから先にどう進もうと考えたのか? 最初のヒントは、アップテンポなピアノロックである1曲目「etarnal return」にあった。

「曲自体がエネルギッシュでポップだったので、あえてネガティブな詞を乗せられるなと思ったんです。以前は、どこかに救いを残しておかないとエンターテイメントにはならないと考えていて、ネガティブな思いを言葉にすることに抵抗がありました。だから、私自身には弱さもあるのに、強い気持ちを前面に押し出した曲が多かったんです。でも今回はリアルな私の力加減を歌詞にできないかな、と考えて書いたのが「etarnal return」でした」

恋は実らないかもしれないし、夢は叶わないかもしれない、というリアルさを歌った「etarnal return」。



「叶おうが叶うまいが、結局はそれに手を伸ばしてしまう。そんなふうに欲を持って生きていることはステキだと思うんです。私は隠したがるタイプで、他の人に「どうぞ」と譲ってしまえる自分が嫌いで。欲望に忠実という泥臭いけれど美しい人間らしさは、アルバムを通して言いたかったことの一つですね。2曲目の「秘密」もテーマは同じで、欲とか願望という言葉がここにも出てくるんです」

一方で、美しく儚いイメージを歌った曲もある。たとえば、かの香織が作ったメロディに幻想的な歌詞を乗せた「みずうみ」。

「この曲の詞のスタートは私の夢です。鏡のように波のない水面、湖なのか洪水の後なのか分からない場所に、一人で立っている夢を小さい頃からよく見るんです。世界の始まりのような美しい景色で、かの香織さんのメロディを聴いているうちに、それがパッと頭に浮かびました。それをもとに、そばにいてくれる人から心が離れてしまった自分に気づく主人公を作り出したら、予想外に深い失恋の歌になってしまって。今回は「みずうみ」のように架空の物語として書いた詞が多いんです。詞が自分の思いと直結していた昔と違い、大人になったなぁと思いました」

キリンジの堀込高樹の作曲による「ムーンライト(または“きみが眠るための音楽”)」では、自分より後に生まれた世代に向けて詞を書いたという。


「この曲は私にとってはちょっと新しい雰囲気になりました。気がつけば自分は大人の年齢で、年下の子の話を聞く機会も増えてきて。そんな時に経験を振り返って言えるのは、「どんなことも必ず過去になって、いつか自分の糧になる」ということだったんです。その思いを堀込さんの美しいメロディと、冨田恵一さんのロマンティックなアレンジに乗せてみました」

アルバムのラストを飾るのは、彼女より年下の音楽家・矢吹香那作曲による「トピア」。

「矢吹さんは私より少しだけ若い、SMAPへの楽曲提供などで注目を集める新人作家さんです。彼女が作った優しいメロディを一発で気に入って、欲望や別れを歌ってきた中で1曲くらいはストレートに幸せな曲も歌っておきたいなと(笑)。私の故郷・東京のシンボルであり、今やノスタルジックな存在になりつつある東京タワーを、アルバムのどこかに入れたくて、ここだ!と思って書きました」

「トピア」は愛する人の待つ家に帰る、ささやかな幸せを歌った曲だ。

「恋人がいて、世界を救うような偉大な人ではないけど自分にとっては唯一の救いであり、平和そのものであるということは、私たちが現実に手に入れられる幸せですよね。世の中には矛盾や不条理があって手に入らないものも多いけど、手に届く広さの中で一番美しいものがあるということを、絵空事ではない言葉で歌いたかったんです。10代から20代にかけて自分が理想とする美しい世界をいっぱい書いてきて、その思いはこれからも生き続けるんですけど、30歳の自分の等身大はこっちなのかなと」

武道館で「坂本真綾30歳です」と挨拶してから、まもなく1年になろうとしている。

「30歳を越えて、気持ちが定まった感はあるのかな。「かぜよみ」という全てを出し切ったアルバムの後に、その場所には収まらないぞという危機感にも似た渇望から作品作りを始めて、自分でも不安になるくらい、いろいろな場所に手を伸ばしたのが「You can't catch me」でした。
でも、さらに新しいものと出会ったおかげで、今はもっと貪欲になっているんです。10代や20代の頃とは違い、自由に新しいところに足を踏み入れていくことで、自分がこの先どう変わっていくのか、すごく楽しみです」

坂本真綾がこのアルバムを作っている最中に抱いていたイメージ。それは、たくさんの人が乗り込み、幾多の停留所を巡って放浪していく乗り合いバスだった。ジャケット写真とアルバムタイトルは、そこから生まれた。バスがこの先どこに行くかは誰にも分からない。(鈴木隆詩)
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