その日僕は、Xbox 360のコントローラを握りながら、ある決断を迫られていた。スクウェア・エニックスから発売されたアクションRPG「ニーア ゲシュタルト」で遊んでいた時のことだ。


この先、ストーリーの核心について触れるのは避けるけれど、僕は「ニーア」に仕掛けられた、ある「前代未聞の仕掛け」について語ります。もう1年も前のゲームとは言え、少しでもネタバレはイヤだ! という人はご注意ください。





























ーーでは、続きです。

その時、僕に突きつけられた選択肢は、次のようなものだった。

「この選択肢を選ぶと、全ての●●●●●●が●●されます。本当に、よろしいですか?」

べつにメモリーカードの容量が足りなくなったわけでもないし、何か手違いでデータが壊れちゃったわけでもない。実際ゲームの中にそういう選択肢が出てくるのだ。それもよりによって物語の終盤、とんでもないところで!

その時点で、プレイ時間は100時間超。全パターンのエンディングを制覇するため、ゲームは3周目に突入していた。もし僕がここで「はい」を押せば、それまでコツコツと積み重ねてきた100時間超が一瞬で水泡に帰すことになる。最初は悪趣味なジョークかと思ったけど、どうやら本気らしい。

それがどんな場面で、どういう経緯で出てきたのかは伏せるけれど、少なくともその選択肢はちゃんとストーリー上意味があるものだった。
むしろあらためて振り返ってみると、これまで僕が遊んできた100時間超はすべて、このシーンへの伏線だったようにも思える。だとしたら、ひどい。このゲームの開発者は本当にひどい!

もっとひどいのは、どう見てもこの二つの選択肢が釣り合っていないということだ。「はい」を選んで得られるものは本当にわずかで、失うものはそれとは比較にならないほど大きい。むしろ「いいえ」を選んだ方が、僕も主人公も間違いなくハッピーだったりする。ここで「いいえ」を押しても、誰もあなたを責めませんよ、と耳元で悪魔がささやく。

結局、そのとき僕はついに「はい」を選べなかった。たぶん同じ状況だったら、100人中100人が同じく「いいえ」を選んだと思うし、間違いなくそれは正しい選択だった。でも、かわりに僕の胸にはぽっかりと穴が空いた。じゃあ、どうすればよかったんだよ!


ーーその後、どうしてもあの「はい」の続きが見たかった僕は、それからゲームをさらにもう一周して、もう一度同じシーンまで戻ってきた。

「この選択肢を選ぶと、全ての●●●●●●が●●されます。本当に、よろしいですか?」

前と同じ展開。
前と同じ選択肢。ただし今度はクエストも全部クリアしたし、全部の武器も強化済みだ。プレイ時間は100時間から150時間に増えた。このデータでやれることはすべてやり尽くした。最初は「よりによってなんでこんなタイミングで!」と思ったけど、逆だった。あの選択肢は「ニーア」というゲームを隅から隅まで愛し、味わい尽くした後でなければ選べない選択肢だったのだ。


どんなにゲームが進化しても、どんなに映像がリアルになっても、プレイヤーとゲームの間には埋めようのない溝が横たわっている。ゲームのキャラクターがどんなに傷ついたって、プレイヤーが同じ痛みを感じることはない。だけどその瞬間、たしかに僕の胸は「痛み」を感じていた。プレイヤーの胸をえぐるように、ゆっくり、じわじわと行われていく「それ」を見ながら、どうしようもないせつなさと、奇妙な満足感を同時に味わっていた。

記録から記憶へ。それは小説でも映画でもなく、ただひとつ「ゲーム」というメディアだけが表現できた体験だった。
年に何十本というゲームを遊ぶけれど、その中で記憶に残るゲームはほんのわずかしかない。だけど今、こうしてこの原稿を書いている僕の胸には、たしかな「記憶」として「ニーア」というゲームが刻まれている。

もうすぐゲーム歴30年になる僕だけど、これだからゲームはやめられないのだ。
(池谷勇人)
編集部おすすめ