東京・お台場地区にある「船の科学館」がこの9月いっぱいで一時休館に入る。本館の建物の老朽化がその理由で、将来的にリニューアルのうえ再オープンする予定だという。
ただし、同館で保存展示されている青函連絡船「羊蹄丸」は休館にともない公開を終了、そのため現在、無償で譲渡先を募集しているところである。

船の科学館といえば、新交通システム「ゆりかもめ」で何度となく通りかかったものの、いちども見学したことはなかった。鉄道の本を2冊も書いているぼくとしては、かつて国鉄が運航していた青函連絡船はやはり気になるし、この機会にぜひ見ておくべきだろうと思い足を運んでみた。

船の科学館が開館したのは1974年。同館の敷地にはいまも、開館当時の日本海事科学振興財団(船の科学館の運営主体。日本船舶振興会=現・日本財団が同館建設にあたり設置した)の会長・笹川良一による「建設の目的」と題する石碑が建ち、そこには《「船の科学館」は、「世界は一家、人類は兄弟姉妹」の理念の下に、日本国民、とくに未来をになう青少年に対して、海事産業についての興味を呼びおこさせ、その科学知識を深め、未来に対する夢を与えようとするものである》と刻まれている。とはいえ、東京都心から当時「13号埋立地」と呼ばれていた船の科学館一帯までは、「ゆりかもめ」や「りんかい線」といった鉄道ルートはもちろんなく、バスで月島や豊洲を経由してやっとたどり着くという便の悪さであった(開館の2年後には、品川区の大井埠頭から13号埋立地とのあいだに東京湾トンネルが開通するのだが、辺鄙なことには変わりなかっただろう)。まだ臨海副都心の建設計画などみじんもなかった時代に、こんな場所に科学館をつくった笹川良一という人は、先見の明があったということだろうか。

さて、初めて訪れた船の科学館は、なんだか懐かしい感じがした。そう、ぼくが子供の頃、1980年代の理工系の博物館というのはたしかにこんな雰囲気だった。模型がずらりと並び、図解満載のパネルが掲示されている。そしてジオラマは、ボタンを押すと一部分が動いたりランプが点灯したりする……。
ディスプレイのなかで3D画像を自由に操作することが当たり前のいまの子供たちにとっては物足りないかもしれないが、25年前の昭和末期の子供にはこれでも十分刺激的だったんだよなあ。

展示方法だけではなく、展示物でもさすがにこれは古いよなーと思うものがあった。いや、もちろん古いからこそ価値が出るものもあるのだが、20年以上前の“最先端技術”や“未来の展望”に関する展示なんていうのは、21世紀のぼくらから見るとがっかり感が強い。新しいものほど早く古びるというのは宿命なのか。たとえば、本館地階の海洋開発のコーナー。ジオラマとインターホンによる音声解説で海洋利用の将来像が紹介されているのだが、そのうち陸地では立地に苦労する原子力発電所も、外洋に浮かべれば問題なし! という発想には、いまのぼくらからしたら「津波が来たらおしまいじゃん」とあきれるしかない。よくも悪くも、科学技術に対し楽観的だった時代なのだろう。それでも80年代にはすでに、ジャンボ機の墜落やスペースシャトルの爆発、それにチェルノブイリ原発事故が起きたりして、技術に対する“安全神話”はグラグラと揺らいでいたはずなのだが……。

80年代の科学技術のトピックといえば、超電導ブームなんてものもあった。この技術を船の推進力とする研究も進められていたという。じつは旧・日本船舶振興会はこの研究を支援しており、船の科学館にも実験に使われた推進装置や実験船「ヤマト1」の模型(実物は神戸海洋博物館にあるらしい)が展示されていた。

このほかにも、高速船のコーナーには大分市と大分空港とを結ぶホバークラフトの模型が展示されていたのだが、それを見たカップルの男性が「これ、もうなくなっちゃったんだよね。
高速道路ができたから」と彼女に話しながら通りすぎていった。あとで調べてみるとたしかに、大分のホバークラフトは経営難(その原因としては、やはり空港まで道路が整備されたことも大きかったようだ)から運航を終了していた。ホバークラフトは未来の船というイメージがあったんだけどねえ。

ところで、客船、貨物船、戦艦、ヨットなどなど、ありとあらゆる船について展示されている船の科学館のなかでも、個人的にとりわけ印象に残ったのは本館1階のオイルタンカーのコーナーである。タンカーこそは、かつて世界一の受注量と技術を誇った「造船大国」日本の象徴だった。第二次大戦後の石炭から石油へというエネルギー革命を背景に、日本をふくむ世界各国では石油消費量が年々増加する。そのなかで、輸送コストを抑えるためにもいちどに大量の原油を運べる巨大タンカーが続々と現れる。これらタンカーの多くは、日本の造船会社が高い技術力に加え、低コストと短い工期で製造したものであった。

船の科学館では、1971年に竣工した巨大タンカー・日石丸の“一生”が、壁一面のイラストや模型、映像などで紹介されている。全長347メートル(東京タワーよりでかい!)の日石丸は、100分の1の縮尺模型にしてもでかくてカメラのフレームに収まりきらないほど。竣工当時世界最大を誇ったこのタンカーは1985年にお役御免となり解体されるまで、日本とペルシャ湾のあいだを84往復し(その移動距離の合計は地球55周分に相当するという)、原油約3,000万トンを輸送して、日本の経済発展を支えたのである。とはいえこの間、2度のオイルショックをきっかけとして、タンカーの巨大化に歯止めがかかるようになるのだが。


思えば、日本がアメリカなどを相手に無謀な戦争に突入した一因は、石油をめぐってだった。敗戦後の日本はその反省もあり、原油の安定的な確保に心血を注ぐことになる。高度成長期にタンカーがどんどん巨大化していった背景には、もしまた石油が手に入らなくなったら……という人々の危機感もあったのだろう。戦前の日本の造船技術は、戦艦大和(船の科学館には大和の50分の1模型も展示されている)をもってひとつの頂点に達したといえるが、戦後の巨大タンカーはある意味でそれと対になっている。事実、戦艦大和を生んだ技術は、オイルタンカーにも脈々と受け継がれているという(このあたりについては、船の科学館の売店で売られている『船の科学館 資料ガイド9 オイルタンカー』にくわしい。この本、600円で「日本人の誇り 出光丸」という記録映画のDVDがついてきてなかなかお買い得)。

最後に、青函連絡船「羊蹄丸」について。これはやっぱり見ておいてよかった。羊蹄丸の名を持つ青函連絡船としては2代目にあたる同船は1965年に就航、1988年3月13日の青函航路廃止時には函館からの最終便の役目を果たした。羊蹄丸が活躍したのは、本州と北海道を結ぶ交通機関の主役の座を徐々に飛行機などに奪われ、青函連絡船の利用者が減っていった時期にあたる。

青函連絡船には乗ったことがなく、思い入れもさほどなかったぼくだけど、同船内に設けられた「青函ワールド」という昭和30年代の青森駅を再現したゾーン(設置された等身大の人形にはそれぞれセリフが割り当てられ、ドラマが展開される)や、シアターで上映されていた青函連絡船のドキュメンタリー映画を見ているうちに、だんだん羊蹄丸に感情移入していった。鉄道ファンとしては、煙突に取りつけられた旧国鉄の「JNR」のマークに何ともいえない感慨を抱く。
ちなみに、羊蹄丸船体の下部のエンジ色は、新幹線登場以前に東海道本線を走っていた特急「こだま」の窓まわりの色に由来するのだとか。

初めて訪れた船の科学館は、ホバークラフトといい巨大タンカーといい、それから青函連絡船といい、どうも「未来に対する夢」(前出の「建設の目的」より)というよりは、ノスタルジーに浸ることのほうが多かった。これもリニューアルによって変わるのだろうか。それにつけても、同館での公開終了後の羊蹄丸の行方が気になるところである。譲渡先が見つからなければ解体されるというのだが、それだけは避けてほしい。すでに函館と青森にはそれぞれ「摩周丸」と「八甲田丸」という青函連絡船が保存展示されているとはいえ、やはり地元とゆかりのある法人や自治体が引き取ってくれるのが理想だろう。さらにぜいたくをいうなら、羊蹄丸が新たにどこかで展示されるとして、現役時のように船内の車両スペースへ貨車が積みこまれる様子が見られたら最高なんですけどねえ。(近藤正高)
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