ピンチョンピンチョンピンチョン楽しいピンチョン愉快なピンチョンピンチョンピンチョーン♪楽しさばっつぐーん
というわけでピンチョンである。

現代文学の難しい系のトップランナー。っつーか、偉い文学を語る人がみんな「いやいや、案外難しくなくて楽しいよ」とか言って、ああ、じゃあ難しいだろうと直感(案外っつーところが罠だよね)、警戒させ敬遠させるパワー抜群。
だって「爆笑」とか言われても文学読んで爆笑したことないもん。爆笑っていうのは、ふつー大勢の人がドッと笑うことだよ? 書評家たちの爆笑ってのと、俺の爆笑の定義は違うんだよな、っつーことで、まあ、読む気ぜんぜんナッシング。
だったんでありますが。
新潮のトマス・ピンチョン全集の装丁が、カッコ良くて、まあ、手には取ってみるわけです、本好きとしては。

でもさ、代表作『V.』は、ハードカバー382ページ+398ページの長さ。
まあ、最後まで読まないな、これは。途中で放り投げるな。しかも、電子書籍ならまだしも、買っても、本棚いれるところないものな。でも電子書籍で買ったらこのかっこいいブックデザインないんだよな、困ったな、困るこたぁないか、買わきゃいいんだ。
という小市民的判断をしていたところ、全集っつーぐらいだから、まあ、ぽつりぽつり出るのであって、『競売ナンバー49の叫び』というのが出ておって、これまた本のデザインが、かっこいい。
ほれぼれしながら手に取って、最初のページだけ立ち読み。
「立ち読みして終わり」と思うてたら、なんか、これが、じゅんってきちゃたんです。
言葉のリズムっつーんですか。声に出して読みたい日本語というんですか。
なにはともあれ、ちょっと具体例。引用してみよう。

ページ43。メツガーとエディパってのは人の名前です。

“プッと噴き出した拍子にステンと転んだ。そのはずみで、洗面台にあったヘア・スプレーの缶が落下。床に当たった拍子に、缶の何かが壊れ、強烈な圧力を受けて噴霧化の過程がいっぺんに進行した。その噴出力で缶が飛ぶ。
猛烈なスピードでバスルームを飛び回る。飛び込んできたメツガーが見たのは、起き上がろうにも起き上がれずに床を転げ回っているエディパ。”

「プッ」「ステン」「はずみ」にアクセントを置いてリズミカルに読み進め、その後は、「缶」「落下」「何か」「噴霧化」「過程」の「か」でかっかっかっと軽快に踊る。
こりゃ、やべぇ。
難解とか、文学の最高峰とか、どーでもいい。
おれは声に出して、この文章を読みたい。

という、いままで感じたことのない衝動に駆られて、でも本屋で朗読すると、頭おかしい人か、アーティストかのどっちかってことになっちゃうので、どっちもイヤっつーことで、購入。2800円。家に帰って、読んだ。っつーか、声に出して読んだ。
っても、家に帰っても、声に出して読むってけっこうへんな感じで、おかしくなったんじゃないかって言われそうなんだけど、でも、これ、まじで、気持ちいい。
全部を声に出したわけじゃないけど、部分部分、声に出して読んだ。

ページ130。

“別世界に消えたのだ。別パターンの系路に沿って、別の決定機構が動き出した。スイッチが閉じられ、旧来の進行をつくっていた顔なき転轍手(ポインツマン)は、みな職場を替えられ、見捨てられ、逮捕され、追跡を逃れ、頭がおかしくなり、ヘロインに、アルコールに、狂信にはまり、偽名のまま命を落として、探し出すのも不可能になった。”

口が気持ちいい。
帯には、“彼女の前に次々と登場するキテレツな人々、ギャグに次ぐギャグ、謎また謎、。だがその果てに、やがて奇妙なラッパのマークと暗号めいた文字列がちらつき始め……”って書いてるけど、そのへんはよくわからない。キテレツというか、何でそんなことするのか行動原理がわからない人たちばっかり。というか、わかりやすい小説のように一本筋道とおった行動原理を持って動かない人ばっかりで、なんでそれやってんの? なんでこうなったの? ってのが、よくわからなくなってくる。こういうのをギャグっていうの? って検索してみたらwikipediaのギャグの項にこうあった。“英語gagは「猿ぐつわ(をはめる)」「言論の抑圧(をする)」との意味の他動詞・名詞であり、英国議会では討論の打ち切りを表す。また外科では開口器”ってあって、そういう断絶の連続というイメージとしてはギャグに次ぐギャグなんだろな、ゲラゲラ笑うギャグ漫画のギャグのイメージとは違う。
とはいえ、口に気持ちいい文章にウキウキしながら読み進めると、だんだん、この断絶の連続の展開にもノリはじめて、おもしろくなってくる。つながりとつながりが見えない断片のつながりを勝手につなげていく感じは、あれだ。ツイッターだ。
ある人のツイートと、ある人のツイートは、まったく関係ないんだけど、並んでしまうことで、関係あるように、影響を与え合うように読んでしまう。
関係を妄想してしまう。
文脈と文脈の事故、クラッシュ、交差。
そもそも、主人公のエディパも、物語が進展していくと、現実モードが切り替わって、妄想を炸裂、世界を動かしている闇の通信組織の妄想を追い続け、それが妄想なのだか、妄想じゃないのだか、わけわかんなくなっていくわけで、読みながら妄想喚起されるこちらとシンクロ。
政府がやってる郵便組織ではない地下通信組織網を探るってのが物語の軸。なんだけど、これ考えてみると、インターネットだよね。そもそも、キーモチーフになってるのが、塔のてっぺんでタペストリーを折り、そのタペストリーが世界を覆い尽くす絵画。これまさにネットワークが世界を覆ったイメージ。
そう、『競売ナンバー49の叫び』の主要テーマは、インターネット社会に、我々がどう翻弄され、どう生きるか、っつーところ。
“この人の眼球がすごかった。明るい黒の瞳のまわりに線がはびこり、網状組織(ネットワーク)をなしている。涙にこもる知性について調べる実験室の迷路といった感じだ”と描写される男のセリフは、こうだ。
ページ97。

“言葉が何だっていうんだ。そんなもの、繰り返される騒音以上のものではない。セリフを役者の耳に響かせて、骨の内側に記憶させるための念仏さ”
その言葉、戯曲は、改変され、コピペされ、陰謀にハメられ、炎上する。

ページ110。

“擦れ合って、みんな無名にされてしまう。誰も発明なんかされたくないわけ。望まれてるのは、型通りのデザインの儀式において、マニュアル通りの手順にしたがって、小っさな役割を演じることでしょ。そんな悪夢のなかに、一人ぼっちで生きていくんですよ”。
匿名でいられるネット世界を連想せずにいられない。
そんな世界で、気が違ってしまった夫は、自分らしさを失い“一般的な存在というものになりつつ”ある。その夫が、叫ぶセリフがこれだ。

ページ181。

“それは世界が豊饒だからだろう。ほんと、無尽蔵なんだ。自分がアンテナになってさ、自己のパターンをひと晩に100万人に向けて送信する。その受け手みんなが君の生(ライフ)に加わるわけだよ”
まさにインターネットをやっている我々のことじゃないか、これは!
匿名の通信が往来するなか、探偵役のエディパは右往左往。悪意に満ちた複写の連続は“彼女の楽天性神経網の節目を一つひとつ、寸分の狂いなく押していって、彼女を動けなくしていく。”
さて、エディパの運命は!? 地下通信網の陰謀は?
『競売ナンバー49の叫び』は、1966年発表の作品。
インターネットに影響を及ぼしたタイムシェアリングシステムの概念が発表されたのが1960年だ。
っつって、関係を妄想するように仕組まれた物語だから、まあ、あらぬ妄想を、ぼくも妄想しながら、声に出して、口気持ちよく読み終わってしまった。
案外難解じゃない? そんなことはない。難解だ。読み終わっても、よくわかんないもの。だから、こうやって、まだ考え続けている。影響を受け続けてる。
ああ、これは、まずいんじゃないか、ピンチョンにハマり始めてる? 初期症状? やだよ、おもしろ愉快な短い断片がいくらでも通信網から手に入る今というネットワーク社会で、あんな分厚い文学読むのなんて馬鹿げてるないか。おいおい、やべぇよ、これは、やべぇよ。(米光一成)