いよいよ今週末、7月20日(土)に全国ロードショーが迫った、宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」。エキレビではすでに文筆家の千野帽子さんが、「風立ちぬ」にまつわるブックガイドを書いている。
そのあまりの充実ぶりに、レビューのハードルが上げられてしまった気がした。さて、私がこの作品について書くとしたら、どこに注目すればいいのだろうか……。そんなことを考えながら試写会に行くと、会場で配布されたパンフレットに、大塚康生(東映動画時代の宮崎駿の先輩にあたる)が「時代ごとに変わる蒸気機関車とそれを包む風景を描き分けていると聞き、期待大!」と書いているのが目に入った。

宮崎アニメというと、飛行機はじめ空を飛ぶ乗り物がよく活躍するため、とかく“飛翔”などのキーワードで語られがちだ。しかし、実際には飛行機だけでなく、自動車や鉄道などほかの乗り物もたくさん登場する。とくに鉄道は、空間の広がりを表現するため効果的に使われてきた。
たとえば、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(宮崎は場面設定・画面構成を担当)では、主人公のハイジが叔母に連れられて、アルプスからドイツのフランクフルトまで出るまで、列車を何度も乗り継ぐさまが描かれていた。これだけで十分に、アルプスとフランクフルトの距離がよくわかる。

「風立ちぬ」は、少年時代より飛行機に憧れ、零戦を開発した堀越二郎という実在の人物をモデルにした作品である。けれども、その物語のなかでは、大塚康生が書いていたように、鉄道や駅が結構重要な役割を担っていたりする。そこでこの記事では、劇中に登場する鉄道や、背景となる時代について、いくつかキーワードをあげながら紹介してみたい。鑑賞前のガイド、あるいは鑑賞後のおさらいとして読んでいただければ幸いである。


■上野鉄道と富岡製糸場
劇中で最初に鉄道が登場するのは、堀越二郎の少年時代の場面。そこでは、小さな蒸気機関車がバックしながら貨車らしき車両を押してゆく様子がうかがえる。
二郎の出身地は現在の群馬県藤岡市だが、彼が少年期をすごした明治から大正にかけての時代、同市内には現在のJR高崎線が通っていたものの、まだ駅は存在しなかった(藤岡市内に駅のあるJR八高線の開通は昭和に入ってから)。では、先の鉄道はどの路線にあたるのか。あれこれ推理してみたところ、おそらく藤岡の北隣、高崎市を通る上野鉄道(こうずけてつどう。現在の上信電鉄)と思われる。

上野鉄道は、二郎の生まれる6年前の1897年に高崎~下仁田間が全通する。その沿線には、国から三井財閥に払い下げられてまもない富岡製糸場があった。鉄道は、製糸場で生産される絹製品をはじめ地元の産物を、高崎、ひいては輸出港である横浜へ運ぶために建設された。
上野鉄道では、レール幅762mmという狭い路線を走るため、アメリカ・ポーター社製のなかでももっとも小型の機関車が採用された。画面上に登場するのもおそらくその機関車だろう。

■二等車と三等車
二郎は東京帝国大学在学中の夏休み、帰省先から東京に戻る列車のデッキで里見菜穂子と出会う。

明治の鉄道開業以来、長らく客車は三等級に分けられていた。もっとも、戦前でも一等車は例外的で、せいぜい主要幹線の特急や寝台車付き急行ぐらいにしか見られなかったようだ。おそらく2人の乗った列車にも一等車はついていなかったのではないか。
注目すべきは、菜穂子の乗っていた二等車とくらべ、二郎の乗った三等車は寿司詰め状態で全然雰囲気の違うこと。当時の国鉄の二等車と三等車は、いまのJRにおけるグリーン車と普通車に相当するが、貧富の格差の大きかった時代となれば、その客層もかなり違ったことだろう。そう考えると、家柄に差があったはずの2人をデッキで遭遇させるという演出は、なかなかに心憎い。

なお、国鉄は1960年に従来の一等車を廃止、二等車と三等車がそれぞれ一等車と二等車に格上げされたものの、1969年には等級制そのものが廃止され、現行のグリーン車と普通車へと改められた。

■関東大震災と鉄道
二郎と菜穂子が出会ったのは、1923年9月1日。この日午前11時58分、相模湾を震源として関東一円を大地震が襲った。関東大震災である。「風立ちぬ」では多くの効果音を人の声で表現しており、地震による地鳴りでもこの手法が使われている。これがまた「千と千尋の神隠し」のカオナシの声のようでもあり、何だか不気味だ。

関東大震災では鉄道にも甚大な被害が出たが、脱線事故は震源域に近い神奈川や千葉の房総半島に集中し、当時の東京市内では新宿駅で貨物列車が脱線しただけにとどまった。東京ではむしろ火災による被害が大きく、国鉄では700両、東京市電では779両の車両が焼失・損傷したという(内田宗治『関東大震災と鉄道』)。
映画のなかでは、震災によって各地で火災が起き、それが強い風にあおられて広がるさまが描かれている。事実、9月1日には台風並みの低気圧が日本海側から発達しながら太平洋に抜けており、火は瞬く間に東京都心、とくに東部を焼き尽くした。翌2日には、菜穂子の屋敷のあった上野広小路周辺に火の手がおよび、上野駅も全焼している。

■名古屋駅とカブトビール
1927年に大学を卒業した二郎は、三菱内燃機製造名古屋工場(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)に入社する。彼が降り立った当時の名古屋駅は、1892年に建てられた2代目の木造駅舎だ。当時の東海道本線はこの近辺を、いまより100メートルほど東側を通っており、駅ももう少し南側、現在の笹島交差点付近に位置した。名古屋駅が現在の位置に移るのはもう少しあとで、1937年のこと。
なお、映画のなかでは、名古屋駅前の風景として「カブトビール」という看板が見られる。これは名古屋南部に位置する知多半島の半田市で製造されていたビールで、もともとは1889年に、中埜又左衛門(4代目)と盛田善平らが「丸三ビール」という名前で売り出した。ちなみに中埜(なかの)は現在のミツカン、中埜酢店の経営者であり、盛田は敷島製パンの創業者である。

■日本とヨーロッパの架け橋だったシベリア鉄道
会社よりドイツ留学を命じられた二郎は、ロシア(当時のソ連)を横断するシベリア鉄道に乗ってドイツに向かう。シベリア鉄道はこの当時、東アジアとヨーロッパとを結ぶ重要な国際交通路のひとつだった。日本からも二郎のような技術者だけでなく、芸術家など多くの人がシベリア鉄道経由でヨーロッパに渡った。東京・名古屋方面からは東海道~山陽本線で下関まで出て、そこから連絡船で韓国の釜山へ渡り、そこからまた鉄道で朝鮮半島・中国大陸を縦断し、満州里でシベリア鉄道に乗り換えるなどといったルートが存在した。
東京駅からシベリア鉄道経由でベルリンやパリ、ロンドンなどに行く国際連絡切符も販売されていた。1928年当時、東京~ベルリン間の運賃は一等で660円したという。帝国大学卒の初任給が80~90円ぐらいだった当時としては、かなりの値段だ。
それでも堀越二郎の会社での1年後輩にあたる辻猛三が、1938年に船でヨーロッパへ視察に出かけたとき、横浜~ロンドン間の船賃は1500円かかったという(『往時茫茫 ―三菱重工名古屋五十年の懐古―』第1巻)。とすれば、シベリア鉄道経由のほうがずっと安上がりといえる。所要期間も船なら1カ月以上かかるのに対し、シベリア鉄道経由ならその半分ほどの日数でヨーロッパに行けた。いまの感覚でいえば、金持ちは豪華客船で、普通の人は飛行機で行くのと同じかもしれない。

■軽井沢へは“難所”碓氷峠を越えて
二郎が菜穂子と再会する長野県軽井沢。明治時代より各界の名士や外国人が別荘を建て、夏には避暑地としてにぎわう。現在では長野新幹線を使えば、群馬県側の安中榛名からトンネルを抜けて10分余りで軽井沢に着く。だが新幹線開通以前の信越本線で行く場合、群馬県側の横川から碓氷峠を越えねばならなかった。
碓氷峠は旧国鉄の路線でも随一の勾配であり、これを列車で越えるため、1888年の横川~軽井沢間開通以来、アプト式という方式が採用された。これは、2本のレールのあいだにもう1本、歯型のついたレールを敷き、それと車両側についた歯車を噛み合わせて、急勾配における推進力とブレーキ力を強化するというものだ。さらに明治末の1912年には、日本の幹線鉄道では初めて電気機関車が導入された。「風立ちぬ」でも、このときドイツから輸入された1000形(EC40形)と思しき機関車が確認できる。
アプト式は、1963年に横川~軽井沢間に新線が開通したことで廃止された。その後、長野新幹線開業にともない同区間そのものが廃線となり、その遺構は現在、鉄道ファンの聖地となっている。

■小田急と成城学園
菜穂子にプロポーズした二郎は、多忙のなか名古屋から東京の彼女の実家へと走る。この際、二郎が乗ってきた電車の先頭には「登戸」の行き先表示が掲げられていた。登戸(神奈川県川崎市)に駅を設ける路線には、JR南武線(戦前の南武鉄道)と小田急小田原線があるが、菜穂子のような良家の子女が住むのはどう考えても後者の沿線だろう。その最寄駅も成城学園前とほぼ断定できる。現在の地名では世田谷区成城と呼ばれる同駅周辺は、戦前からの高級住宅街として知られるからだ。
大手私鉄には、沿線を学園都市として開発し、建設した宅地を分譲するところも少なくない。だが成城は小田急ではなく、成城学園を主体に開発された。宅地を分譲し、その利益で学園の建設資金をまかなおうとしたのだ。このとき開発を主導した成城学園の小原国芳は、設立まもない小田急(当時の社名は小田原急行電鉄)が新宿~小田原間に路線を建設すると知るや、沿線予定地を踏査した上で学園建設地を決め、小田急社長とかけあって、当地に急行電車の停車駅を設け、駅名も学園名とするという約束をとりつけたという。そのかいあって1927年、小田原線が開通すると同時に、成城学園駅が開業した。
成城の学園都市にかぎらず、関東大震災を境に、東京西部では私鉄路線の開通や宅地開発があいつぎ、人口も急増していく。菜穂子の実家が、上野から成城に移ったのも、そうした震災後の変化を象徴しているといえる。

■なぜ“あの時代”を描いたのか?
「風立ちぬ」の劇中、堀越二郎は東京から名古屋に赴任する列車内で、線路の上を歩く人々を目撃する。彼らは都会で職を失い、郷里である農村まで金がないので歩いて向かっていた。二郎はまた、名古屋に着くと、銀行に人々が殺到するさまを目にする。それは金融不安による取り付け騒ぎだった。ちょうど1927年の金融恐慌のさなかのことだ。

第一次世界大戦中からその戦後にかけて、日本経済は未曽有の好景気を謳歌したものの、それは所詮バブルであり、すぐにはじける運命にあった。以来、長らく不況が続き、関東大震災はそれに追い打ちをかける。震災前より膨大な不良債権を抱えていた企業や銀行は、政府や日本銀行の救済策によりかろうじて生き延びるが、昭和に入るとあいついで休業や倒産に追いこまれ、失業者があふれる事態となった。

さらに1929年の米ニューヨークの株価大暴落を受けて世界的な大不況に見舞われ(昭和恐慌)、農村にも大きな影響がおよぶことになる。その後、さまざまな政策により景気は持ち直していったとはいえ、その恩恵はごく一部の人たちしか享受できなかった。政党や政治家に対して不信を募らせた多くの国民は、しだいに軍部に期待を寄せていくようになる。

こうした経緯をたどっていくと、経済状況の程度の差こそあれ、ここ30年ほどの日本と重ね合わせざるをえない。考えてみれば、第一次大戦から太平洋戦争へといたる期間と、1980年代のバブルの発生から現在までは、ほぼ同じ年数である。

宮崎駿もまた、公開に先立ち放映された日本テレビの特番で、いまあの時代の日本を描いたのはなぜか? との問いに、「また同じ時代が来たから」と答えていた。しかしどれだけ暗くつらい時代であろうとも、希望はどこかにある。おそらくこの映画を観れば、誰でもそう感じるはずだ。(近藤正高)

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