1月18日に実施された大学入試センター試験「日本史B」では、近現代の政治や経済などについて、マンガ家・手塚治虫に関する文章を読みながら答えるという設問があり、新聞などでも結構大きく報じられた。その問題用紙には、手塚の短編「紙の砦」から、少年時代の手塚の分身たる主人公、その名も大寒(おおさむ)鉄郎が、動員された軍需工場でこっそりマンガを描き続ける場面も引用されていた。


「紙の砦」は1974年に「少年キング」にて発表され、その後、大都社版の単行本『紙の砦』、講談社版の手塚治虫漫画全集の第274巻『紙の砦』、さらに同じく講談社の手塚治虫文庫全集の第80巻『ゴッドファーザーの息子』に収録されている。これら単行本はいずれも手塚本人が主人公となる短編を収めたものだ(ただし単行本によって「紙の砦」以外の収録作品が微妙に違うので注意)。

思えば、手塚治虫ほど自伝的作品にかぎらず自作に自分を登場させたマンガ家もいないのではないか。いや、たしかに作中に作者自身が出てくるマンガは手塚作品のほかにもたくさんある。当の手塚が、講談社の漫画全集版『紙の砦』のあとがきで書いているように、どうも《漫画家はなんらかの姿で、自分を画面に出したがるもの》らしい。

《漫画家は概して作品を自分の思想の形象物と考えており、自己の代弁者として自画像を登場させるのではないかと思います。
だから、登場人物と一線を画している場合が多いのです》


「自分の思想の形象物」といわれると、どうしても小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を思い浮かべてしまう。たしかに同作にも「自己の代弁者として自画像」が全編にわたって登場する。ただし、『ゴー宣』は小林自身が主人公なので、「登場人物と一線を画している」とはいえまい。同様のことは、エッセイマンガとくくられるマンガ全般にも通じる。

だが、これらのマンガと手塚マンガが大きく異なるのは、作者である手塚が物語中の一介のキャラクターとして主人公らとかかわり、ときには現実ではしないような行動をとって名バイプレイヤーぶりを発揮していることだろう。

手塚が作品に自分を登場させ始めたのは、かなり早い。
デビューまもない『奇蹟の森のものがたり』(1949年)や『ふしぎ旅行記』(1950年)では、物語の世界へといざなうナビゲーター役で登場する。このとき手塚はまだ20代前半だけあって若々しく、鼻も後年の自画像とくらべると控えめに描かれ、美青年といった趣きだ。

また冒険活劇『化石島』やファンタジー作品『ピピちゃん』(いずれも1951年)では、手塚が妹と一緒に登場する。なお現実の手塚と妹は、幼少期にともにマンガを一緒に描いていた仲で、ヒョウタンツギというキャラクターもそのなかから生まれた。映画評論家の石上三登志はこの事実を踏まえて、作品での手塚とその妹の共演を、「妹さんとの楽しいファンタジーごっこ」の延長線上にとらえている『手塚治虫の時代』)。

さらにドストエフスキーの長編小説をマンガ化した『罪と罰』や、『38度線上の怪物』(いずれも1953年)といった作品では、福井英一や馬場のぼるといった友人のマンガ家たちともに作品に登場し、どたばたを繰り広げている。


手塚によれば、これら初期作品への“出演”は、自分自身のイメージを読者によく知ってもらい、親近感を抱かせる意味で成功だったという。そういえば、藤子不二雄Aの自伝的マンガ『まんが道』には、作者の分身たる満賀道雄とその相方・才野茂(モデルは藤子・F・不二雄)が、手塚へ初めてファンレターを送るにあたり、彼の似顔絵を、写真がないので想像をめぐらしながら描いて同封するという話が出てきた。おそらくこのとき2人は、作品に登場する手塚の自画像を手がかりに似顔を描いたのだろう。

手塚は1960年代に入ると、少年時代からの夢であったアニメーション制作に本格的に乗り出し、虫プロダクションを設立する。この時期の作品『バンパイヤ』(1966年)では、手塚が現実と同じく虫プロの社長として、物語の狂言回し的な役どころで登場する。同作がテレビドラマ化された際には、手塚が本人役を務め、主人公・トッペイ役でこれがデビュー作となった水谷豊と共演している。


1960年代後半以降、あいついで創刊された青年誌を中心に、数多くの短編・連作を発表した手塚は、そのなかで自分を登場させることも少なくなかった。たとえば『ザ・クレーター』シリーズ(1969年)のうち「巴の面」では、おなじみの手塚キャラ・ヒゲオヤジに呪いのかかった面を押しつけられ、「生けにえ」では悪役的人物を演じ、また「三人の侵略者」ではカンヅメ中の別荘で三人組の宇宙人に殺され、脳ミソを吸い取られてしまう。

ここまで来るともはや何でもありで、ときには時空を超えて先祖やら子孫にまで手塚の姿が仮託された。35世紀を舞台にした『火の鳥 未来編』(1967年)の冒頭、地下に広がる未来都市を描いたモブ(群衆)シーンには、ベレー帽とメガネをつけた「手塚治虫の50代目のマゴ」なる人物が見つかる。

一方、曾祖父にあたる幕末~明治の医師・手塚良庵(のち良仙)を主人公の一人に据えた後期の代表作『陽だまりの樹』(1981年)では、良庵の父で、江戸に種痘所(天然痘の予防接種を行なう施設)を開くため奔走する蘭方医・手塚良仙が、やはりメガネにダンゴ鼻と作者そっくりの顔に描かれた。

ご先祖の跡を継ぐように手塚本人もまた、医師免許、さらには医学博士号を取得している。
『ブラック・ジャック』(1973年)に、主人公のブラック・ジャックの友人としてたびたび医者役で手塚が登場するのは、“人生の選択次第ではありえたかもしれない”自分の姿を描いたものともとれよう。

ここまであげた以外にも、自身の育児体験をもとにした『マコとルミとチイ』(1979年)など、手塚本人の出てくる手塚マンガには枚挙にいとまがない。そのなかにあって先にあげた「紙の砦」のような自伝的作品は、ひときわ強い印象を読者に与える。

戦時中にあってはマンガを描くことが不謹慎とされ、戦争が終わってからも、自由にマンガが描けるようになったとはいえ、あいかわらずの食糧難から常に空腹を抱えていた。「紙の砦」をはじめ、短編「ゴッドファーザーの息子」(1973年)、「すきっ腹のブルース」(1975年。以上3編は講談社の文庫全集版『ゴッドファーザーの息子』所収)、あるいは手塚が「高塚修」の名で登場する未完の長編『どついたれ』(1979年)といった作品は、戦時中・終戦直後と苦しい時代にあっても、なおもマンガを描き続ける手塚自身の姿が活写されている点で共通する。


このうち『どついたれ』では、高塚修が空襲の直後、死体の山をかき分けて逃げる様子や、戦後、自分のマンガに対し先輩作家から厳しくダメ出しされるさまなど、手塚自身の体験を反映したと思しきエピソードがかなり生々しく描かれている。

同作の主人公の哲と高塚のかかわりは、哲がひと儲けをたくらんでエロ雑誌を出すにあたり、表紙はじめ絵の一切を高塚に依頼したことから始まる(もっとも未完なのでそれっきりで終わってしまうのだが)。このとき女のヌードを描けという哲に、高塚は《ぼ ぼ ぼくは漫画家やぞ!! エロ画家やないぞっ》と抵抗するのだが、結局引き受けてしまう(田中圭一だったら二つ返事で引き受けたことだろうが)。もっともその後、ヌードを描くのに四苦八苦するのを見るかぎり、高塚はかなりのオクテであったと思われる。

これに対し、「紙の砦」や「すきっ腹のブルース」では恋愛話が描かれている。「紙の砦」においては主人公の手塚=大寒が、宝塚音楽学校の生徒・岡本京子にひそかに想いを寄せるし、さらにその続編的作品となる「すきっ腹のブルース」では、大寒は新聞記者の河原和子とファーストキスを経験している。だが、いずれの恋愛も成就はしていない。「紙の砦」にいたっては、終盤、京子は空襲で顔に大やけどを負い、その後ゆくえをくらませてしまう。このときの京子の顔の描写が本当にリアルで、戦争のむごさを感じさせてあまりある。

自伝的作品ではないが、同じく1974年発表の短編「カノン」(講談社の文庫全集版『タイガーブックス 2』所収)にも、戦時中、女教師が、突然襲来した敵機から主人公のカノンこと加納少年をかばって、顔をめちゃめちゃに撃たれて死んでしまう場面がある。中学時代に初めてこれら作品を読んだ私は、いずれのカットにもつい目をそむけたくなったが、いまにして思うに、あえてそうした描写をすることで、手塚は戦争の恐ろしさを強く訴えたかったのだろう。受験生でまだ未読という人たちには、入試が終わったあとにでも、ぜひこれら作品を手に取ってほしい。
(近藤正高)